「幸いの根拠」(7) † 最善を選ぶ。 主イエスの降誕を限りない喜びを持って迎える。この日は神ご自身が、神であることを固守されず、卑しく人となられて生まれて下さった日である。このような選択をどうしてできるのか?およそ人間には想像もできない。聖なる神ご自身ゆえに出来たことである。この神のご意志に、私達は畏れて身が震える。人となられた神は、肉体を持たれたゆえの、大きな制約の下に生きられた。世界を自由に動かし支配される全能の権威を行使せず、人間を贖う犠牲の道を選ばれたのである。ゲッセマネの園では、主イエスを捕らえるために、ユダを先頭にロマの軍人や、ユダヤの役人達がやって来た。その時ペテロが剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした。主イエスはペテロを制止して言われた。「私が願えば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さる。それができないと思うのか?」(マタイ26・53)と言われた。また、私が「有りて有る」者(神)だ。と言われると一団の彼らは、後ずさりして倒れてしまった。(ヨハネ18・6)それほどに神としての権威を持ちながら、また、天の軍団をも願われなかった。主イエスは私達のために十字架への道を選ばれたのである。神の聖さと義と愛の業である。神の最善が、滅ぶべき私達を救われるのである。 † 最も幸いなこと。 「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」 ピリ1・20)成熟した人間ならパウロに同調しアーメンと言えるだろう。パウロは死に急いではいない。「キリストのすばらしさが現されること」が中心的な重要性である。幸いの根拠はこの一事「キリストのすばらしさ」であり、それを「私の身によって」現すことである。このような人が最も幸いな価値ある人である。与えられている尊い一日一日を、キリストのすばらしさを現すために生きよう。それが、かえって自分のために最も幸せな人生の毎日になる。自分のためにのみ生きる人は、最も惨めな貧しい自己を刈り取る事になる。だから、心せよ。「将来と希望」は、キリストにおいてのみ実現する。それ以外は焼かれ燃え尽きる。
「幸いの根拠」(6)
「幸いの根拠」(6) † 本物の感情。 私達を揺り動かしているものは何か?何が情熱的感情に至らせるのか?私達が生きるために、最も喜ばしいことは、抱いた情熱に生きることである。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)クリスマスから始まり、主イエスが十字架を通して、与えて下さったのは罪からの救いのみではない。臆病の霊ではなく、聖い情熱的な、力と愛と慎みの霊である。前節では「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と言っているように、神によって与えられたすべて(賜物)を、再び情熱的に働かせよ。と、促している。私達が最も幸いな者であるのは、罪と死の現実から、神の愛によって救い出された、この揺るぎない真実にある。神の愛の御業に結ばれた私達の魂は、この最も価値ある真理に、心を動かされている。即ち熱い情熱的な感情に活かされている。もし、そうでなければ、信仰は不活発なものである。信仰は感情(情熱)を生み出し、人生を行動へと向かわせる。私達がどれだけ幸いな神に支配されるかは、どれだけ神によって、感情が動かされているか、によって決まるのである。 † まことの礼拝者。 私達の終局の目的はなにか? この世(現世)でも、神の御許に生きる天国でも、私達は神を礼拝する幸いに、おかれているのである。被造物(私達)の最大の喜びは、創造者で唯一の神を礼拝し、賛美し、神とまみえるのである。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、人々はその民となる。また、神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」默21・3)私達の主が大きなラッパの音と共に、天に現れるとき(マタイ24・31)地上の礼拝者と天上の礼拝者が、一つにされる。私達はキリストに目を向けていないと、自分の事だけに関心を持ち、被造物としての自分を忘れる。即ち、神を礼拝する尊さを失うのである。自分自身の中に尊さを見いだすのは、神を畏れ、敬虔に神への礼拝を守る事において、見いだすことが出来るのである。幸いの根拠には「神を礼拝する」こと。人間に必要なことは、敬虔な信仰があることである。そのために選ばれた私達である。被造物であることを忘れず、神を畏れる、生きた礼拝者であることを続けよう。
「幸いの根拠」(5)
「幸いの根拠」(5) † 達観した精神。 達観(タッカン)とは、将来の情勢を見通すこと。全体の情勢を見通すこと。また、「達」には成し遂げる。目的地に到達する。と言う意味が込められている。アドベント第二週を迎えるに及んで達観した人物ヨセフを取り上げたい。マリヤと婚約し、高揚した幸いの毎日を与えられていた。所が、受け容れがたい知らせを受ける。婚約者のマリヤが妊娠したのである。ヨセフは「正しい人」マタイ1・19)とある。この事態は、神が始められたこと。この「躓き」を乗り越える手段は、慈しみを持ってマリヤを受け容れれること。ヨセフは、神の御手によって、行われる「未来を達観した」のである。ヨセフこそ、クリスマスを成功させた功労者である。ヨセフは神と神の約束を疑わなかった。神はそのヨセフを選ばれたのである。ローマ皇帝が全世界の住民登録を命じる初めての勅令が出た。税金の徴収と兵役のためなので、全世界の住民は嫌嫌ながら、不平を言いながら従った。しかし、ヨセフは違った。神がイエスをマリヤから生まれさせる事を知っていた。ベツレヘム(マタイ2・6)は、メシヤの出る村なのだ。ヨセフはすべての男性の「幸い」の模範である。信仰による達観した精神を持って生きる事の幸いを現している。 † 幸いへの勇気。 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」 申30・19)前後の御言葉を読むと、死と呪いがなぜ起こるのかがわかる。「あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら」 17)である。私達は、直接偶像を拝むことはない。しかし「心を背ける」ということ「聞き従わない」ということは、どうだろう。世的なものに「誘惑される」と言う事も身近な問題である。信仰はヒロイック(雄々しく英雄的)なものである。キリスト信仰には勇気を伴う。「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる」 申30・14)このようにして、キリストにある者は「いのちと祝福」の中を歩み続けるのである。一回の勇気が、続く百回の勇気に繋がる事を覚えよ。
「幸いの根拠」(4)
「幸いの根拠」(4) † クリスマスにある。 今日までの、膨大な知的文献を、AIの働く量子コンピューターに集約したとしょう。そして「人類最大の幸せは何か?」と検索する。人間の様々な幸せの定義を網羅(モウラ)すると「クリスマス~イエス・キリストの誕生」となる。と私は確信する。クリスマスは、明確に神の計画と実在の力を、明らかにされた事実である。日本サッカーが、この度ドーバーで、二度の奇蹟を起こした。と世界が驚くような程度ではない。主イエス・キリストの誕生は、人類の幸せの全てをカバーする(覆う)真実な出来事なのである。幸せの根源であり、幸せを、永遠に保証する救い主(メシヤ)について「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2・7)御子イエスは「神であることを無にし」人になられたのである。世界のあらゆる悲惨と暴虐に、あらゆる人間の苦しみと悲しみに、その憎しみと恨みに、主イエス・キリストは打ち勝たれる。世界も人間も、決して与える事の出来ない「神の平安」を人々に、どん底に落とされた魂に、植え付けられる。その人々は、神を見上げ、神を友として、神の生命の中に生きられるのである。 † 真理を原則とする。 真理とは「いつどのようなときにも変わることのない筋道」で、神の言葉(聖書)が、それである。原則とは「一貫した生活の中心になり得る唯一のもの」であるから、真理も原則も内容は同じ事をいっている。身体で言うならば骨である。見えないが私達の身体を支えている。クリスチャンであるならば「筋が通っている」ことが大事である。ある人は状況によって、コロコロと価値観や使命が変わってしまう。これでは「幸せな安定性」を生み出せない。真理を原則として生きる人は主体的に生きられるので、周りの人々の言葉や行動に影響されることなく、真理の御言葉に従って、幸いの中を歩み続ける。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩1・1-2)この人々は、この世の称賛や誉れなどに惑わされず、真理の喜びの中を歩む。
「幸いの根拠」(3)
「幸いの根拠」(3) † 試練という幸い。 「人が若いときに、軛(クビキ)を負うのは良い」哀歌3・27)軛とは、自由にするものではなく束縛するもので、苦しみを伴うものである。なぜ、それが良いのか?すぐ思いつくのは忍耐が鍛えられること、人間としての内面が鍛えられ、深められることである。今、一流のスポーツ選手達も才能があるだけで出来ているのではない。人一倍厳しい課題(軛)を課せられ、それを超えてきた結果である。私達のように信仰による霊性を、人生の中心におく者は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」1テモテ4・8)とある通りである。要するに主イエスの神聖な品性に、自らの魂を換えて行く努力が、敬虔な生き方なのである。「アブラハムは、神から試練に会わせられた」創22・1)とある。神がアブラハムを試みられたのである。約束の一人息子イサクを全焼の生け贄として、あたかも羊と同じように捧げられるのか?という、とてつもないテストである。アブラハムには、神を全きに信じる信仰があった。神はそれを認められた。今、試練に置かれているならば逃げるのではなく、神を信じ勇敢になる事である。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7) † 私の幸いはどこに? 「何に」「どこに」幸いはあるのか?これが、単刀直入に答えられる事が大切である。これが、はっきりしていない人は、幸いとは何かが漠然としているか、全くわからない人である。「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」詩16・2)まさに私のことである。言い得て余り有る。聖書には、旧約も新約も同じほどに「幸い」という語が用いられている。幸いという内容の全てに言及しているわけである。突き詰めて、究極の所は幸いは「主イエス・キリスト」以外にない。それ以外が「幸せ」の対象であるならば、なお魂の成長が期待されているのである。若い頃「まだ修行が足りん」と言われたが「幸い」のストライクに至っていないのである。私達を惑わす者と、惑わす物が、溢れている中で人生が曲げられては「亜流の幸せ」を得るだけである。そのためには「幸せ」を真剣に考え、真剣に、神と福音について考えることだ。
「幸いの根拠」(2)
「幸いの根拠」(2) † 過去の革命。 本来革命は現在と未来に向かうものである。しかし、あえて人間の「幸いの根拠」は過去の変革(革命)にあると信じるのである。普通に言われることは、過去は変えられないというものである。しかし、過去が換えられるのである。その人生には、天地異変に等しい幸いな激変が起こるのである。人生をやり直す、と言う言葉はよく聞く、しかし、過去が換わる、と言う事は余り聞く言葉ではない。現実は、多くの人が、自分の過去を原因として、現在も未来にも希望が持てないでいる。だが、キリスト信仰は、私達の過去に係わり、解決するのである。現在とは過去によって成り立っている。2千年も前にキリストは十字架の贖い(罪過からの解放)を、神の永遠の保障の御業とされた。この神の歴史的御業を信じるのが信仰である。それは過去からの現在の私が、キリストと共に葬られてしまうことである(ロマ6・4)過去の革命とは、キリストと共に死ねるという喜びである。この信仰による現実が、現在と未来を神の生命で生きる事となる。そして、キリストの復活とも同じようにされるのである(ロマ6・5)いかなる過去も死んで、革命的に新しく生まれ換わるのである。 † 希望に繋がれている。 希望に繋がらない生活は、尻すぼみで暗く、悲しいものである。今ウクライナは仕掛けられた戦火で、町を破壊され、難民となった人々が1500万人に達している。この国の希望は、決して敗北しないこと。第二は、母国を復興することである。この希望がなければ、この国は生きる力と意味を失うだろう。希望は未来に確信を与える事実である。目に見える世界だけが本物ではない。まことの本物は、神が与えた「見えない永遠の命」であり、「見えない神の実在」である。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11・1)信仰は、古い過去を新しく換え、信仰は「望んでいる事柄(希望)」を保証し、確信させる。現在が、どんなであっても、神はキリストにより永遠の報いを与えられる。信仰は希望を包含(ホウガン)している。この信仰と希望は、神の愛で覆われている。神の愛は信じる世界中の者を、キリストの一つの身体として力強く連帯させ、苦しみにある者を支え励まし、希望を共有するのである。
「幸いの根拠」(1)
「幸いの根拠」(1) † 幸いの起原を知る。 「我思う故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、「自分の係わる世界に、疑わしいと思う余地のあるものを取り除いて行くと、残るのは、確かではないと疑っている自分自身である」と言う事だ。ここには「確かではない、疑わしい」という要素がある。人間には確実に信じられる真理の真実が必要なのである。神の創造世界を信じる事は、私達に重要な幸いの起原である。神による創造は「生命の創造」を意味する。人間は、神の創造による生命なのである。聖書は、現代の科学文明の中で「信じられる」確固たる根拠を持っている。総論的に云うならば、人間を最も克明に言い表している聖書にこそ、人間の知り得る「幸いの根拠」がある。その中に生きているのが私達である。確かに教会に集いながら、幸いの確信を持てない人もいるだろう。私達は「神に似せられて創られた」創1・26)それは、私達人間が、神に似るほどに、幸いな存在である事を意味している。信仰生活とは、幸いな「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)という目的を生きることで、キリストからの神聖な人格に成長する。 † 厄介な人間に終わらない。 私達人間は、生き物の中で最も厄介な存在である。今日のコロナウィルスの厄介さに私達はうんざりしているが、それ以上である。人間は自由意志を持っているからだ。ウイルスは状況に応じて変異して行くが、意志をもつ人間は状況に関係なく、どのようにも行動する。問題は、意志をコントロールする自己である。この自己は、神につくことも、悪魔につくことも出来るのである。そのように人間は、自己中心的に意志を働かせて生きており、手に負えない要素を持っている。自己中心的意志は、神からも、悪魔からも「得」になる事にくみする。「敵は心中にあり」とは言い得ている。自由意志が自己中心的に働くとき、最も非人間的な未形成な人間になる。幸いの根拠を「自分」という確かでないものに置いてはならない。人間は神の手(愛)の中で活かされる者として創造された。神は羊飼いとして、私達は羊として描かれる。これが「幸いの根拠」なのだ。独立した羊は迷子である。徹底して神に牧されることを選ぶ意志が、人間の最高度の存在となる。キリストは囲いの中に私達を養い守られる。
「揺るぎない世界をつくる」(7)
「揺るぎない世界をつくる」(7) † ここは神の御国。 私達は38年前から、ビンヤード・ワーシップソングを用いて礼拝する教会になり、今日に及んでいる。近年は多くのオリジナル曲も用いられている。そのため賛美歌や聖歌を賛美する機会が少ないが、自分自身の中で、賛美歌90番が心に彷彿(ホウフツ)する。「ここも神の御国なれば、天地(アメツチ)御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞ現れたる」信仰の結果として生じるもの、それは、今の「ここも」神の御国である。という、大いなる喜びである。天の賛美が地の賛美と饗応(キョウオウ)している。神を頌(タタ)える賛美の中に、天地万物が神の栄光の御業を証詞しているのだ。私達の「揺るぎない世界」は、まことに身近にある。信仰が生みだす、まことの喜びの実感が「神の御国」なのだ。主は言われた「・・・・わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11・20)神の支配する「神の国」は、私達も信仰によって創り出す必要がある。私達の今「ここも」神の御国である。私達が五感で感じる世界が、神の中で御国なのだから。 ハレルヤ! † つくる「世界」がある。 私達夫婦は裸一貫で、独立自給の開拓伝道を始めた。今や47年を経たが、まず信仰がこのような無謀とも思える決断をさせた。なぜか?夫婦共に、神が生きておられ、働かれるお方であるという信仰があった。神依存の生活を第一として楽しみ、また辛苦を共にした。ゼロから、一が生まれると、二に繋がり、五に繋がるように、神に祈り、全精力を傾けることであった。誠心誠意を尽くしても、上手く行かないことは承知の上での、人との係わりである。そうして伝道を続けた。経済的な支援がない中でも、家族5人を養われたのは神である。教会のない町(可児)に十字架を建てる、この志が、可児福音教会を「つくる」事に至った。「つくる」と言う事は、神の御業を成らせる。と言う事である。信仰があるというなら、神のために生きることである。信仰があるというなら「行う」ヤコブ2・24)ことにある。信仰を美辞麗句とせず、詭弁とせず、主イエスに従う事が「つくる」ことなのだ。それが、企画やプログラムを立て行動する以上に重要なのである。「つくる」のは、神の生命と力にあるからだ。ハレルヤ!
「揺るぎない世界をつくる」(6)
「揺るぎない世界をつくる」(6) † 鬱(うつ)的世界。 鬱(うつ)という心情の苦しみは、ある人には縁のない話かと思う。だが、ひとたび鬱の世界に陥ると、世界は一変する。鬱の原因は究明されてはいない。そのような中で、うつ病患者は情動行動を制御する神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に用いられる分子)のなかのセロトニンやドパミンの機能低下が関与している可能性が示唆されている。セロトニンは心を落ち着かせ、ドパミンは活動性を高めて楽しみを感じさせるとされている。さて、揺るぎない世界に生きていたとしても、鬱に捕らわれる事も起こりえる。キリスト信仰があっても、人間である以上、鬱にも遭遇する。「老人鬱」と言うものもある。ある時期(70才を過ぎて)体験したことは、言葉に現せない「虚しさ」の心情に支配されたことだった。キリストの福音によって、揺るぎない世界に踏み入っているのに、肉体にある私は、言い知れぬ不可解な思いに悩まされた。大きく環境が変わったのでも、大きな事件が起こったわけでもない。一つ思い当たる事がある。自分が自負する存在を無能化され、用無しのように見下されたと感じた時「肉なる自己」は、行き場のない鬱の心情に落ち込みやすいという事だ。主に在って、とてつもなく強く、また弱い自己なのだ。 † 神の世界を実現させる。 これは不可能なことである。しかし、ペテロが不可能な水の上を歩く事を可能とした。その秘訣は、神の約束の言葉を、とり付ける事であった。「・・・・私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・28)私達も神の生ける御言葉を、とり付ける事が出来れば、神の世界を実現させることは可能である。だいそれたことだが、主キリストは「望んでおられる」のだ。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」ルカ・17・6)私達にとって、これほどの喜びはない。主イエスを識った者であること。次に、信仰を識った者であること。そうして、次のことがあるだけだ。条件を満たして、私が「言う」ことなのだ。神の世界は、私の「言いつけどおりになる」のである。これは信仰の極意である。そこにまで到達したいと、主を賛美し喜び踊る思いでいる。
「揺るぎない世界をつくる」(5)
「揺るぎない世界をつくる」(5) † 実感している世界。 人間が機械のように操作されて、造り変えられると、特殊な目的のために生きるようにされてしまう。マインド・コントロールとは、そう言うものである。自分の自由意志や選択権を失い、コントロールされている世界に、全てを献げてしまうのである。その手段は最先端の科学的で、心理学的な高度な方法であり、段階的に行われるという。要するに「カルト」である。世界制覇をもくろむ、集団「破壊的カルト」もある。基本的な人格と人権を、完全に従属させられる、奴隷状態と言わざるを得ない。しかし、本人には理想の世界に生きているという感覚であり、それ以外は「悪」の世界であると、決定ずけられているという。脱会したり、挫(クジ)けることは地獄に落ちる事に決まっているのである。この巧みさがマインド・コントロールなのだ。私達の信仰はそう言う本質はない。信教の自由の中で、私はキリストを救い主と信じたし、強制されて、あるいはコントロールされて、教会に縛られてはいない。完全な自由と権利の中で、神に仕えることを選び、兄弟姉妹との交わりを、喜びとしているのである。 † 神が創り換える。 19才で聖書を読み出した。当然キリスト教全般を知りたいと思った。当時は社会的である事と、科学的である事が私の関心であった。罪からの救いのみで、人生の問題全般は解決しないと考えていた。要するに、私自身の問題意識が中心にあって、その解決が聖書から、どの様に与えられるに関心があった。私が、神に創られた神のもの、という世界は見る事が出来なかった。しかし、神はイエス様をとおして、私の世界を創り変えて行かれた。この世界に生きるための信仰が、神の御心と永遠の世界に、生きる事へと換わってきたのである。たぶん、日本人なら誰もが同じような過程を通るのでは?それで、世捨て人になったのか?よりこの世界を愛せるようになった。この世に生きる意義も与えられるのだ。神の慈しみは、私達の魂をキリストの心と信仰に、創り換えて、神ご自身を示して下さるのである。そのように、知れば、知るほどに、驚きよろこび感謝でしかない。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・21)誰でも、このパウロの実感を得ている。