「幸いの根拠」(4)

「幸いの根拠」(4) † クリスマスにある。 今日までの、膨大な知的文献を、AIの働く量子コンピューターに集約したとしょう。そして「人類最大の幸せは何か?」と検索する。人間の様々な幸せの定義を網羅(モウラ)すると「クリスマス~イエス・キリストの誕生」となる。と私は確信する。クリスマスは、明確に神の計画と実在の力を、明らかにされた事実である。日本サッカーが、この度ドーバーで、二度の奇蹟を起こした。と世界が驚くような程度ではない。主イエス・キリストの誕生は、人類の幸せの全てをカバーする(覆う)真実な出来事なのである。幸せの根源であり、幸せを、永遠に保証する救い主(メシヤ)について「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2・7)御子イエスは「神であることを無にし」人になられたのである。世界のあらゆる悲惨と暴虐に、あらゆる人間の苦しみと悲しみに、その憎しみと恨みに、主イエス・キリストは打ち勝たれる。世界も人間も、決して与える事の出来ない「神の平安」を人々に、どん底に落とされた魂に、植え付けられる。その人々は、神を見上げ、神を友として、神の生命の中に生きられるのである。 † 真理を原則とする。 真理とは「いつどのようなときにも変わることのない筋道」で、神の言葉(聖書)が、それである。原則とは「一貫した生活の中心になり得る唯一のもの」であるから、真理も原則も内容は同じ事をいっている。身体で言うならば骨である。見えないが私達の身体を支えている。クリスチャンであるならば「筋が通っている」ことが大事である。ある人は状況によって、コロコロと価値観や使命が変わってしまう。これでは「幸せな安定性」を生み出せない。真理を原則として生きる人は主体的に生きられるので、周りの人々の言葉や行動に影響されることなく、真理の御言葉に従って、幸いの中を歩み続ける。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩1・1-2)この人々は、この世の称賛や誉れなどに惑わされず、真理の喜びの中を歩む。

「幸いの根拠」(3)

「幸いの根拠」(3) † 試練という幸い。 「人が若いときに、軛(クビキ)を負うのは良い」哀歌3・27)軛とは、自由にするものではなく束縛するもので、苦しみを伴うものである。なぜ、それが良いのか?すぐ思いつくのは忍耐が鍛えられること、人間としての内面が鍛えられ、深められることである。今、一流のスポーツ選手達も才能があるだけで出来ているのではない。人一倍厳しい課題(軛)を課せられ、それを超えてきた結果である。私達のように信仰による霊性を、人生の中心におく者は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」1テモテ4・8)とある通りである。要するに主イエスの神聖な品性に、自らの魂を換えて行く努力が、敬虔な生き方なのである。「アブラハムは、神から試練に会わせられた」創22・1)とある。神がアブラハムを試みられたのである。約束の一人息子イサクを全焼の生け贄として、あたかも羊と同じように捧げられるのか?という、とてつもないテストである。アブラハムには、神を全きに信じる信仰があった。神はそれを認められた。今、試練に置かれているならば逃げるのではなく、神を信じ勇敢になる事である。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7)  † 私の幸いはどこに? 「何に」「どこに」幸いはあるのか?これが、単刀直入に答えられる事が大切である。これが、はっきりしていない人は、幸いとは何かが漠然としているか、全くわからない人である。「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」詩16・2)まさに私のことである。言い得て余り有る。聖書には、旧約も新約も同じほどに「幸い」という語が用いられている。幸いという内容の全てに言及しているわけである。突き詰めて、究極の所は幸いは「主イエス・キリスト」以外にない。それ以外が「幸せ」の対象であるならば、なお魂の成長が期待されているのである。若い頃「まだ修行が足りん」と言われたが「幸い」のストライクに至っていないのである。私達を惑わす者と、惑わす物が、溢れている中で人生が曲げられては「亜流の幸せ」を得るだけである。そのためには「幸せ」を真剣に考え、真剣に、神と福音について考えることだ。

「幸いの根拠」(2)

「幸いの根拠」(2)  † 過去の革命。  本来革命は現在と未来に向かうものである。しかし、あえて人間の「幸いの根拠」は過去の変革(革命)にあると信じるのである。普通に言われることは、過去は変えられないというものである。しかし、過去が換えられるのである。その人生には、天地異変に等しい幸いな激変が起こるのである。人生をやり直す、と言う言葉はよく聞く、しかし、過去が換わる、と言う事は余り聞く言葉ではない。現実は、多くの人が、自分の過去を原因として、現在も未来にも希望が持てないでいる。だが、キリスト信仰は、私達の過去に係わり、解決するのである。現在とは過去によって成り立っている。2千年も前にキリストは十字架の贖い(罪過からの解放)を、神の永遠の保障の御業とされた。この神の歴史的御業を信じるのが信仰である。それは過去からの現在の私が、キリストと共に葬られてしまうことである(ロマ6・4)過去の革命とは、キリストと共に死ねるという喜びである。この信仰による現実が、現在と未来を神の生命で生きる事となる。そして、キリストの復活とも同じようにされるのである(ロマ6・5)いかなる過去も死んで、革命的に新しく生まれ換わるのである。  † 希望に繋がれている。 希望に繋がらない生活は、尻すぼみで暗く、悲しいものである。今ウクライナは仕掛けられた戦火で、町を破壊され、難民となった人々が1500万人に達している。この国の希望は、決して敗北しないこと。第二は、母国を復興することである。この希望がなければ、この国は生きる力と意味を失うだろう。希望は未来に確信を与える事実である。目に見える世界だけが本物ではない。まことの本物は、神が与えた「見えない永遠の命」であり、「見えない神の実在」である。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11・1)信仰は、古い過去を新しく換え、信仰は「望んでいる事柄(希望)」を保証し、確信させる。現在が、どんなであっても、神はキリストにより永遠の報いを与えられる。信仰は希望を包含(ホウガン)している。この信仰と希望は、神の愛で覆われている。神の愛は信じる世界中の者を、キリストの一つの身体として力強く連帯させ、苦しみにある者を支え励まし、希望を共有するのである。

「幸いの根拠」(1)

「幸いの根拠」(1) † 幸いの起原を知る。  「我思う故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、「自分の係わる世界に、疑わしいと思う余地のあるものを取り除いて行くと、残るのは、確かではないと疑っている自分自身である」と言う事だ。ここには「確かではない、疑わしい」という要素がある。人間には確実に信じられる真理の真実が必要なのである。神の創造世界を信じる事は、私達に重要な幸いの起原である。神による創造は「生命の創造」を意味する。人間は、神の創造による生命なのである。聖書は、現代の科学文明の中で「信じられる」確固たる根拠を持っている。総論的に云うならば、人間を最も克明に言い表している聖書にこそ、人間の知り得る「幸いの根拠」がある。その中に生きているのが私達である。確かに教会に集いながら、幸いの確信を持てない人もいるだろう。私達は「神に似せられて創られた」創1・26)それは、私達人間が、神に似るほどに、幸いな存在である事を意味している。信仰生活とは、幸いな「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)という目的を生きることで、キリストからの神聖な人格に成長する。  † 厄介な人間に終わらない。 私達人間は、生き物の中で最も厄介な存在である。今日のコロナウィルスの厄介さに私達はうんざりしているが、それ以上である。人間は自由意志を持っているからだ。ウイルスは状況に応じて変異して行くが、意志をもつ人間は状況に関係なく、どのようにも行動する。問題は、意志をコントロールする自己である。この自己は、神につくことも、悪魔につくことも出来るのである。そのように人間は、自己中心的に意志を働かせて生きており、手に負えない要素を持っている。自己中心的意志は、神からも、悪魔からも「得」になる事にくみする。「敵は心中にあり」とは言い得ている。自由意志が自己中心的に働くとき、最も非人間的な未形成な人間になる。幸いの根拠を「自分」という確かでないものに置いてはならない。人間は神の手(愛)の中で活かされる者として創造された。神は羊飼いとして、私達は羊として描かれる。これが「幸いの根拠」なのだ。独立した羊は迷子である。徹底して神に牧されることを選ぶ意志が、人間の最高度の存在となる。キリストは囲いの中に私達を養い守られる。 

「揺るぎない世界をつくる」(7)

「揺るぎない世界をつくる」(7) † ここは神の御国。 私達は38年前から、ビンヤード・ワーシップソングを用いて礼拝する教会になり、今日に及んでいる。近年は多くのオリジナル曲も用いられている。そのため賛美歌や聖歌を賛美する機会が少ないが、自分自身の中で、賛美歌90番が心に彷彿(ホウフツ)する。「ここも神の御国なれば、天地(アメツチ)御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞ現れたる」信仰の結果として生じるもの、それは、今の「ここも」神の御国である。という、大いなる喜びである。天の賛美が地の賛美と饗応(キョウオウ)している。神を頌(タタ)える賛美の中に、天地万物が神の栄光の御業を証詞しているのだ。私達の「揺るぎない世界」は、まことに身近にある。信仰が生みだす、まことの喜びの実感が「神の御国」なのだ。主は言われた「・・・・わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11・20)神の支配する「神の国」は、私達も信仰によって創り出す必要がある。私達の今「ここも」神の御国である。私達が五感で感じる世界が、神の中で御国なのだから。 ハレルヤ!  † つくる「世界」がある。  私達夫婦は裸一貫で、独立自給の開拓伝道を始めた。今や47年を経たが、まず信仰がこのような無謀とも思える決断をさせた。なぜか?夫婦共に、神が生きておられ、働かれるお方であるという信仰があった。神依存の生活を第一として楽しみ、また辛苦を共にした。ゼロから、一が生まれると、二に繋がり、五に繋がるように、神に祈り、全精力を傾けることであった。誠心誠意を尽くしても、上手く行かないことは承知の上での、人との係わりである。そうして伝道を続けた。経済的な支援がない中でも、家族5人を養われたのは神である。教会のない町(可児)に十字架を建てる、この志が、可児福音教会を「つくる」事に至った。「つくる」と言う事は、神の御業を成らせる。と言う事である。信仰があるというなら、神のために生きることである。信仰があるというなら「行う」ヤコブ2・24)ことにある。信仰を美辞麗句とせず、詭弁とせず、主イエスに従う事が「つくる」ことなのだ。それが、企画やプログラムを立て行動する以上に重要なのである。「つくる」のは、神の生命と力にあるからだ。ハレルヤ!

「揺るぎない世界をつくる」(6)

「揺るぎない世界をつくる」(6) † 鬱(うつ)的世界。 鬱(うつ)という心情の苦しみは、ある人には縁のない話かと思う。だが、ひとたび鬱の世界に陥ると、世界は一変する。鬱の原因は究明されてはいない。そのような中で、うつ病患者は情動行動を制御する神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に用いられる分子)のなかのセロトニンやドパミンの機能低下が関与している可能性が示唆されている。セロトニンは心を落ち着かせ、ドパミンは活動性を高めて楽しみを感じさせるとされている。さて、揺るぎない世界に生きていたとしても、鬱に捕らわれる事も起こりえる。キリスト信仰があっても、人間である以上、鬱にも遭遇する。「老人鬱」と言うものもある。ある時期(70才を過ぎて)体験したことは、言葉に現せない「虚しさ」の心情に支配されたことだった。キリストの福音によって、揺るぎない世界に踏み入っているのに、肉体にある私は、言い知れぬ不可解な思いに悩まされた。大きく環境が変わったのでも、大きな事件が起こったわけでもない。一つ思い当たる事がある。自分が自負する存在を無能化され、用無しのように見下されたと感じた時「肉なる自己」は、行き場のない鬱の心情に落ち込みやすいという事だ。主に在って、とてつもなく強く、また弱い自己なのだ。  † 神の世界を実現させる。 これは不可能なことである。しかし、ペテロが不可能な水の上を歩く事を可能とした。その秘訣は、神の約束の言葉を、とり付ける事であった。「・・・・私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・28)私達も神の生ける御言葉を、とり付ける事が出来れば、神の世界を実現させることは可能である。だいそれたことだが、主キリストは「望んでおられる」のだ。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」ルカ・17・6)私達にとって、これほどの喜びはない。主イエスを識った者であること。次に、信仰を識った者であること。そうして、次のことがあるだけだ。条件を満たして、私が「言う」ことなのだ。神の世界は、私の「言いつけどおりになる」のである。これは信仰の極意である。そこにまで到達したいと、主を賛美し喜び踊る思いでいる。

「揺るぎない世界をつくる」(5)

「揺るぎない世界をつくる」(5) † 実感している世界。 人間が機械のように操作されて、造り変えられると、特殊な目的のために生きるようにされてしまう。マインド・コントロールとは、そう言うものである。自分の自由意志や選択権を失い、コントロールされている世界に、全てを献げてしまうのである。その手段は最先端の科学的で、心理学的な高度な方法であり、段階的に行われるという。要するに「カルト」である。世界制覇をもくろむ、集団「破壊的カルト」もある。基本的な人格と人権を、完全に従属させられる、奴隷状態と言わざるを得ない。しかし、本人には理想の世界に生きているという感覚であり、それ以外は「悪」の世界であると、決定ずけられているという。脱会したり、挫(クジ)けることは地獄に落ちる事に決まっているのである。この巧みさがマインド・コントロールなのだ。私達の信仰はそう言う本質はない。信教の自由の中で、私はキリストを救い主と信じたし、強制されて、あるいはコントロールされて、教会に縛られてはいない。完全な自由と権利の中で、神に仕えることを選び、兄弟姉妹との交わりを、喜びとしているのである。  † 神が創り換える。 19才で聖書を読み出した。当然キリスト教全般を知りたいと思った。当時は社会的である事と、科学的である事が私の関心であった。罪からの救いのみで、人生の問題全般は解決しないと考えていた。要するに、私自身の問題意識が中心にあって、その解決が聖書から、どの様に与えられるに関心があった。私が、神に創られた神のもの、という世界は見る事が出来なかった。しかし、神はイエス様をとおして、私の世界を創り変えて行かれた。この世界に生きるための信仰が、神の御心と永遠の世界に、生きる事へと換わってきたのである。たぶん、日本人なら誰もが同じような過程を通るのでは?それで、世捨て人になったのか?よりこの世界を愛せるようになった。この世に生きる意義も与えられるのだ。神の慈しみは、私達の魂をキリストの心と信仰に、創り換えて、神ご自身を示して下さるのである。そのように、知れば、知るほどに、驚きよろこび感謝でしかない。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・21)誰でも、このパウロの実感を得ている。

「揺るぎない世界をつくる」(4)

「揺るぎない世界をつくる」(4) † 捨てたら世界が出来る。 聖書的用語には、罪を離れる。罪を悔い改める。罪を捨て去る。がある。一番強い印象は「罪を捨て去る」で、罪の世界との絶縁の意味を持つ。新しい生活は、罪との絶縁が必須であり、神の国と義は、その場所に成り立つ。さらに、揺るぎない世界のために前進がある。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・」ピリピ3・9)ここでは、新世界(主イエス)を知っているすばらしさのゆえに、一切のことを、ちりあくた(糞土)として、惜しみなく、捨てることが出来るのである。人格的な主イエス・キリストを知っている事。それは、永遠の生命を与えられ、復活の栄光を与えられること、それは永遠に、直接にキリストと交わりを与えられることである。私達に与えられている信仰が、神の愛の御業(主イエス・キリスト)を知る方法(道)である。幾らかでも主イエスを知っているなら、勤勉と熱愛を傾けて、主に近づこう。地上のものが「ちりあくた」となり、捨て去るまで。主イエスは豊かに導かれる。  † 永遠の生命は不可知ではない。 永遠の生命について「明確な確信」があって、クリスチャン生活は成り立つのである。確かに感覚的に実感出来るわけではない。トマスのように、復活されたイエスの脇腹の傷、手にある釘の傷に触れる事はないであろう。主は言われた「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」ヨハネ20・29)不可知論者とは「永遠の生命に関して、私はなにも知っていない」というクリスチャンや指導者のことである。全てが、ばく然のままなのだ。揺るぎない永遠の生命こそ、福音の中核、キリスト信仰の土台で確実な真実なのである。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ロマ8・39)私達の永遠の生命は、何ものも、死でさえも、神の愛から引き離せない。キリストの人格的な愛の交わりが、永遠であり、永遠の生命なのである。この確実性は希望となって私達の内に生きている。「死は勝利にのまれた」1コリント15・54)として。

「揺るぎない世界をつくる」(3)

「揺るぎない世界をつくる」(3) † 揺るぎないという事。 旧約聖書では、神がダビデを「揺るぎない王」とされた。2サムエル5・12)と、記している。また、息子ソロモンも「私を揺るぎないもの」として、ダビデ王の王座に就かせ、1列王2・24)と言っている。これらは、神の後ろ盾があっての出来事であることは、言うまでもない。主なる神によって、造られるものは「揺るぎない」と言う事である。「安全で確かな錨」ヘブル6・19)は、神がキリストを通して創設された、私達への永遠の希望を保証するものである。神が創り出して下さるものは、王であれ、王国であれ、希望であれ、信頼であれ、揺るぎない性質を持つ。それが、私の中の出来事であるなら、私の中に生まれた、神の世界なのだ。これから、世の中と渡り合って生きてゆく時には、主イエスが植え付けて下さった、御言葉(真理)によって生きるのである。神(真理)の価値観こそ、揺るぎない私達の道だからである。この道からブレないで、神であり主あるイエスを崇め、従う事が、揺るぎない強さを生みだすのである。神に頼るという弱さこそ、最も強い者にするからだ。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」2コリ12・10)  † 人間の盲目度。 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです」2コリ4・3)おおいが掛っている、とは見る事が出来ないという事。次節では「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」とある。私達クリスチャンも、世の価値観を人生に受け容れて生き続けると「おおい(覆い)が掛る」その結果、キリストの栄光(福音の光)が、ぼやけ、霞(カス)むのである。神から、何を聞いても、言われても悟れず、神が見えない盲目度は深く、大きくなる。人間の本当の盲目については主イエスが語られている。主の御名を信じない人々に対して「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである」 ヨハネ12・40)

「揺るぎない世界をつくる」(2)

「揺るぎない世界をつくる」(2) † 決定される事。 その人の明確な方向性が示されて、素晴らしい決断がされているので感動する。所が違った課題になった時、その方向性が姿を消しているのだ。なぜなのか?聖書は、神の健全な教えと敬虔(神聖)を生活全般に適用する事を求める。これは厳しいのではなく、サタンとこの世の誘惑と罪から守られて、揺るぎなく私達が満ち足りて生きるためである。そのために一貫した方向性(決断された決定)が、信仰の人生なのである。例えば、地域の人間関係の中で、家族の中で、教会生活の中で、方向性が同じである。賛美を献げることも、犠牲を献げることも、同じ方向性に従うのである。これが、ぶれていない、方向性が一貫している事が健全さを示すのである。私達の常にある問題は、神に聞き従うか、自分の思考と都合に従うかである。この事で、私達は明確に決断し、決定する事が求められる。神のしもべならば「・・私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意・・」2テモテ6・3)することである。神と伴(トモ)にある、満ち足りた、喜びの生活を願うならば、神に喜ばれる一貫した方向性を決定することである。実は、それがクリスチャンの義務なのである。神への忠実さとは、健全な御言葉への誠実さなのである。  † 主イエスの世界と私。 主イエスのお働きは、世界中のすべての神の子供達、一人びとりの中に、ご自身の世界を築かれることである。なんと驚くべき巨大な世界であろう。神の似姿である人間にしか与えられない。パウロや、ヨハネやペテロは、固有の存在だが、私もその一人である。パウロの中に主イエスが、ご自身の世界を築かれたように、私の中にも、主はご自身の驚くべき世界を築いて、さらに大きくし、高くし、広くして下さっているのである。主イエスが見ておられる世界を、私は自らの世界として与えられている。いち早く、主イエスに実存し(依存して)生きたならば、いち早く主イエスの世界を与えられ、主イエスの世界のすばらしさを賛美し、父なる神を崇めたに違いない。幸いな事は、誰でも、心を開き、キリストに留まる人には、キリストの世界が、その人の中に築かれるのである。この世に在りながら、主イエスの世界を知り、見て喜び、神の子の特権に驚き、感謝するのである。