「健全な良心の信仰」(3)

「健全な良心の信仰」(3) † 貫かれた良心。 ロジャー・ウイリアムは17世紀に活躍した神学者・牧師である。アメリカ、ロードアイランド州の州都プロビデンス(神の摂理)の設立者である。非福音的なイギリス国教会を逃れ、自国では認められない「良心の自由」を求めて米国のニューイングランドに移住した。後に、ロードアイランドで「良心の自由が改めて宣言された。この地域はその信条のために迫害された人々にとって安全な天国となり、バプテスト、クエーカー、ユダヤ教徒その他が平和と安全の良心に従ってこの地を訪れた」また、1652年ロードアイランドは北アメリカで初めて奴隷制度を違法とする法律を可決した。私達とも繋がりのある洗礼派(バプテスト教会)が、最初に、プロビデンスに設立された。ウイリアムスの貢献を列挙できないが、彼の貫いた健全な良心の信仰が輝く。彼のこの一文に集約される「まことの宗教、つまりキリストに結ばれてまことの神を礼拝するということには、何よりも先に、二つの原則と基礎づけがあります。不信仰な行いからの悔い改め、そして神への信頼です」 アメリカはこのような清教徒(ピューリタン)の鮮烈な貢献によってバックボーン(背骨)が造られたのである。 † 恐れと不安との戦い。 「そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った」 マタイ8・25)主イエスが乗っておられる舟が、大嵐にもてあそばされている。一緒に乗っている弟子達は、次に起こる転覆と死の恐怖に絶叫したのであった。この現実は私達にも適用される。主イエスと共に歩む安全は保証されている。しかし、主と共に行くならば、主イエスの受けられる境遇と同じになる。私達は人生に波風が立たないことを願い、思いがけない試練や艱難に巻き込まれるのを恐れる。しかし、それは健全な良心ではない。健全な信仰は心得る、主は私達と居られる、たとえ「船は波に飲み込まれそうになった」としても、主イエスは完全な安全として、平和として、共に居られる。恐れと不安の嵐の中にあるなら、神を信頼する健全な信仰を持て。主イエスへの健全な良心を強固にせよ。主は必ず私達のために起き上がられる。そして、風と海(問題)を「叱りつけられる」解決と平安は主イエスにある。

「健全な良心の信仰」(2)

「健全な良心の信仰」(2) † 神の剪定を受ける。  「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15・2)「あなたがたは枝です」5節)とある。一つは、実を結ばない枝は、枝そのものを切り落とされる。一つは、実を結ぶ枝は、もっと実を結ぶように刈り込み(剪定)される。前提条件は、幹であるキリストに繋がっていなければ、どんな枝も投げ捨てられる(6節)この箇所は、実を結ぶ祝福の約束ではあるが、繋がって「結ぶ実の定義」が大事だ。思うに、人が地上で信頼するものは、富であり、金銭であり、自己能力である。キリストが私達に結ばせる実は「神への敬虔な信頼」である。神に全てを委ねきった者(枝)が、神の前に多くの実を結んでいるのである。私達は、そのような実を結んでいると言えるか? 魂に繋がる余分な枝葉を刈り取られないと「神に富む」豊かな実を結ぶことはない。健全な良心は叫ぶ、父なる神よ「私の中に在る不義なる枝を切って下さい」と。実を結ぶ枝は公言する。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5・24)ヨブは全てを切り取られたが、以前の財産の7倍の祝福を授けられた。 † 人が喜ぶもの。神が喜ぶもの。 人が喜び、神も喜ばれるものが最上である。常に問題になることは「神は聖なる義なる方」であるのに対して、人間は罪人(生まれながらにして罪のDNAを持つ)である。人間は原罪という拭いきれない下(もと)に生きている。神の主権の際(きわ)に立って「牧師の想い」があるとすれば、人として喜んだり、感動などしない。真理の鏡に映される自分の不足を、見せられるからである。これは当然のことなのだ。私達人間は「ありのまま」の自分を認められたい。だが、神は、キリストの現された神々しさに等しくなれ、と命じる「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)神は、それを与えることを最上の喜びとされ、私達は、主イエスの内容を信仰により獲得できることを最上の喜びとする。ハレルヤ!

「健全な良心の信仰」(1)

「健全な良心の信仰」(1) † 良心の不健全。 「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘブル9・14)主イエスの血は「私達の良心」を潔めるのである。私達の死んだ「罪の行い」から離れさせる。それだから生ける神に仕えられる者になる。クリスチャンの健全な良心は、主イエスの血潮に潔められる以外にない。神に近づくことが出来る、と言う偉大な特権も、潔めのない心では成り立たない。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10・22)真実に神に近づき、神を知りたいならば、主イエスの血潮の注ぎを、心に受けて「健全な良心」に換えられることである。神を信じている人の中に、良心の不健全なままに、生活を続けている人が多く見られるのである。主イエスの血潮は「全き信仰」を得させるためである。邪悪(不健全)な良心を潔めるためである。十字架の下(モト)に行き、進んで主イエスの血潮の注ぎを受ける人は誰か?その人はダイレクトに神の良心を授かる。 † 痛みのある心。 主イエスは、痛みや悲しみを知っておられた。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」イザヤ53・3)主イエスは「さげすまれ」「のけ者にされ」そのひどさは、人々が顔を背けるほど。ひどいものだった。主イエスの良心は100%の感受性で、全てを受け容れられたのである。「ほふり場に引かれて行く子羊のように」主イエスは黙された。恐ろしいほどの、偉大な良心が現されているのである。有りもしない根拠で、さげすまれたり、のけ者扱いされる事に、耐えられる人はいない。ただ、神からの健全な良心を持つ人は聖霊に導かれており、神の御心に任せて前に歩むことが出来る。叫(ワメ)いたり、怒ったりしない。主イエスは人の不健全な心を悲しみ、自らの良心に痛みを覚えられたのである。完全な健全な良心とは、主イエスのお心である。その心を受け容れる人は幸いである。

「私の帰すべきこと」(7)

「私の帰すべきこと」(7) † 神の報いに。 結局の所、神を受け容れ、信仰に生きるとは何か?結果として、それだけの報いがあることである。霊と身体と心(魂)に、平安があり、喜びがあることである。一つは現世での幸いである。結果として最もわかりやすく、目に見える。しかしながら、信仰生活は地上を生きるためだけではない。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」1ペテロ2・11)現世を凌駕(リョウガ)した覚者(カクシャ)の立場を第一に、聖書は勧める。真理を究めた人とは、特別な人ではない。真理を、ごく当然「その通り」と認めて生きる人である。そうでないと、生きる事の大部分が、現世の事柄になる。世の中の価値基準が人生の軌道になる。私の帰すべきことは、人間の価値観に、自分を任せない。地上的な評価にも自分を任せない。なぜならば、真の報いは神ご自身が成されるものである。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」ヘブル4・13)パウロのようで在りたい「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」使徒24・16)神の前に生きる真理の基準である。 † 宣教の展開。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」2テモテ4・2)これは教会の生命線である。だれも人がいない開拓では、あらゆる可能性に向かって、飛び回った。婦人会では、八百津の鯉居に住む求道者を送迎。妻は恵那市、関市に行き、訪問伝道をした。可児市全戸への教会案内、個別の家庭訪問伝道など、初めての訪問で救われた人も出た。教会の拡大によって変わるが、変わらないものがある。宣教とは「仕掛ける」こと「展開」することにある。だれにも出来る事は「次の二を、次の三」を思いつく事。そして展開してゆくチームワークである。この動力が教会に、日本に欠かせない。これを怠れば、凋落は直ぐに目に見えてくる。教会の精兵は、そのための知恵を与えられ、主イエスと共に、宣教を戦う人である。

「私の帰すべきこと」(6)

「私の帰すべきこと」(6) † 一切を委ねる。 魂である人間は、自己保全のため、自己尊厳のために生きている。そのため、反応的に生きるのだ。「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」レビ24・20)即ち、誰かが私の歯を折ったなら、私も相手の歯を折る権利を持って行使する。身に覚えのない批難や、中傷に、絶えられないのが人間。様々な言葉の暴力に対抗して「怒り心頭に発する」ままに戦うのが普通である。反対に、魂の麗しい愛の善行に対して、周囲の無関心や無視に会うと、その人々への愛は冷え、反感を抱くようになる。このような事は、キリストの身体(教会)にあって欲しくない。私達は「すべての完全さ」を主イエスの中に見る。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」1ペテロ2・22-23)私の帰する所はここだ。反応的に生きる事をしないこと。誠の真実は、人間世界では理解されず、ののしられ、馬鹿にされ、言動による暴力で苦しめられる。主イエスは、全てを知り尽くし、正しく裁かれる神に、一切を委ねられた。そこには、神の支配する真の平安がある。 † 生きている信仰。 信仰の特性は「生命」である。信仰が生きているので、神も生きておられる。一方、人が信仰を失うと、人は神と永遠の生命を失う。私は、私という人間の知的理解力で「神を信じ」神を握っているのではない。神の御子イエスが、十字架の死を通して、私に出会い、罪の赦しを与えて下さった。生きている信仰とは、私の中に神を招き入れることではなく、神の中に、私が招き入れられること、神の中に生かされることである。私自身が神に引きよせられ、同化されることなのである。端的に言えば、神があっての私である。私があっての神、ではないのだ。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」 2テモテ2・11) 私は、キリストと共に十字架に死んでいる。この事実を受け容れるので、死んだ私を生かすのは「キリストの生命」なのである。また「キリストの信仰」が、死んだ私の内容となる。幸いこの上なし。

「私の帰すべきこと」(5)

「私の帰すべきこと」(5) † 神に喜ばれる事。 「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」2コリ5・9)念願とは「一心に願い望むこと」で、ここでは、生きていようと、死んでいようと、ひたすら思い願うこと。と言っている。自分自身の念願が、生き様の本質となって現れる。「帰する」ところが、使徒と同じ念願であるならば、最も神に喜ばれる事に違いない。主に喜ばれることについて聖書は、多くの事について記している。私達の神は愛に満ちておられ、私達のどんな小さな善いことにも、喜んで下さる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11・6)第一に信仰がなくては、喜ばれない。信仰とは「神に近づく者」である。もっと、神に近づくことをしょう。神の近くにいる人は、必ず報われること、念願が実現することを確信しょう。主なる神は、キリストにある小数の民を、この上なく喜ばれている。「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」1ヨハネ3・22 † 神の憐れみに帰する。 63年間の信仰生活の帰するところは何か?私には「神の憐れみ」以外にはない。牧師となって神の役者となったが、それも「神の憐れみ」以外にはない。何かが出来たとするならば、それも「神の憐れみ」以外にはない。自分の存在は「神の憐れみ」によって有る。それ以外にはない。神の憐れみによって、キリストが世に遣わされたように、神の憐れみの選びがあって、私も世に生まれた。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)何か別の理由を、自分に帰することができない。私の生涯の体験と学びは、主なる神の「深い憐れみ」を証明し、証詞するためである。これまで与えられた地上的なものも、霊的な祝福も、神の憐れみの所産なのである。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、その憐みは 、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」ルカ1・49-50)マリヤと同じように「我が魂は主を崇め」る。1・46)のみである。

「私の帰すべきこと」(4)

「私の帰すべきこと」(4) † 枯らさない務め。 今年の夏は、昨年に勝っての酷暑の日々となっている。友人が毎年、自家栽培の茗荷(ミョウガ)を贈ってくださる。今年は高温のためか8月を待たずして、茗荷の茎が枯れてきたという。今までにないとのことだ。相応に雨は降ったのではないか?しかし、それ以上に植物には水分の補給が要るようだ。ベランダや屋内に、植物を育てている人は、常に植物の様子を見ている。欠かしてならないのは、水を注ぎ、命を繋ぐことにある。畑に植えられた草花も同じで、日照りと高温の中では、水が命を繋ぐ。人は、それぞれだが、木花と共に生きることで、学ぶ事が多い。管理するということは、育てることであり、草木の命を枯らさないことである。人に対しても同じ思いが大切である。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)人間は「魂を生かす水」を飲まなければ育たない。主なる神の言葉が、ふさわしくその魂に届くことである。そのためには、主の血潮を注いで、雑草(罪)を絶やし、栄える原因を与えることだ。 † 本来のものにする。 二日間を要して、譲り受けた古い二台の卓球台の修復をした。昭和時代の代物(シロモノ)だが、メーカー品である。経年の使用で、四辺に欠けがあり、これをエボキシ樹脂で補填し仕上げた。それを塗装で覆って、できるだけ欠けにくくした。本来のものに近づけると言うことだが、材質の劣化は取り戻せない。これで卓球台は、全七台となり、卓球イベントも可能となる。教会員のみならず、求道者も共に研修所(アーク)で、交わりが出来る。教会の務めは、人に対してである。人は本来、永遠の輝きと栄光を持っている。それが隠されて見えなくなっている。そればかりか、この世のかもしだす、人格的な攻撃がある。劣等感、疎外感、孤独感に、追いやられている若者の数は測り知れない。だが教会は、人間の本来を回復する場である。人間が持つべきものを創造する。それが神の愛であり、神の御業で有る。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」アタイ11・28)古いもの(自分)は過ぎ去って、新しい自分になれる。(2コリント5・17)

「私の帰すべきこと」(3)

「私の帰すべきこと」(3) † 愛される責任。 愛される。と言うことは、自らの自発性ではなく、愛することを選んだ人格の意志によってもたらされるものだ。ゆえに「私は愛されるべき者である」と言う自覚や根拠を自らのうちに持たない。愛とは深遠なるものである。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」1ヨハネ4・10)もちろん、疑似的な愛というものがある。男が異性を慕うように、惚れる、好きになる、という自分の欲求のために求める愛である。そういった形でも「愛されている」と、人間は感じている。しかし、多くの場合、その人の全てを、受け容れているのではない。その人の欠点や隠れている気質、未成熟さなどが結果的にクローズアップされてくる。人間に有る愛は、決して完全ではない。しかし、神は私を「愛した」。不完全極まる罪人で、愛される資格も根拠もない私を。神は、真実に今も、愛して下さっている。それだから、心から感謝と畏れを持って、神の愛に応えたいと生きている。しかし私は、人に対して「私は愛されるべき」という要求の根拠を持てない。愛の在り方だと思うからだ。 † 隠されてする事。 だれにも知られずに、重要なことをする。このような人々によって、世界は成り立ち、動いている。一方、全ては自らの業績のように今頃の情報ツールを使って、拡散する人もいる。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6・1)確かに神に知られていることに留めることは、霊性を高められ、人格の重みを増すように教えられる。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6・3)さらに、自らの善行を、忘れ去ることである。そこには清らかさが漂う。信仰が創り出す品格が、見られるようになる。人の評価ではない、神の評価に生きられるようになる。身近な人の讃辞は、さほど重要ではない。「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8・17)隠された善行は、ある時、驚きを持って明らかにされるのだ。

「私の帰すべきこと」(2)

「私の帰すべきこと」(2) † 初めが肝心。 初めに失敗があると、後が上手く行かない。それで初めが大事(肝心)なのである。何かに取りかかろうとするなら、その段取り(工程)を正確に定める。人間が人生について考える時期は、大まかには思春期くらいか。日本人は、この頃までに、しっかりと唯物的世界に浸って、思考し世界を見つめている。ここから「初めが肝心」なので、さしあたり勉学が優先する。ミッションスクールでは「初めに、神が天と地を創造した」創1・1)に出会えるが、ほとんどの日本人には縁がない。初めに、とは「原初に」である。原初に、すでに天と地があったのなら、神は、その後の存在でしかない。しかし「原初に神が天と地を創造した」この事実は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)人間として生きるために、肝心なのは、宇宙と世界は、神の創造物であるという認識である。でなければ、お決まりの唯物論の認識で生きるしかない。どれ程の高い知性も魂も、物質同様の結末しかない。常に自らの人生が、神の実在と創造世界に帰結すること。これが肝心だ。 † 先人の労苦。 最も学識を必要とするもの、それは「聖書の解釈」である。神の言葉が命を持ち、力と光を放つのは、盲信のゆえではなく、健全な御言葉の解釈があるからである。私達の聖書(神の言葉)には、二千年にわたる連綿とした研究が続いている。考古学、歴史学、言語学、民俗学、自然科学を、初めとする様々な研究が、神の言葉を成り立たせている。当然、あらゆる攻撃がされてきた。今、聖書と接する私達は最先端の聖書学に裏打ちされた、確かな神の言葉を手にしている。人間は色んなものに信頼を置く、金銭はその筆頭だろう。財産も同じ、今の健康にも信頼を置いている。しかしながら、神の言葉ほど信頼のために尽くされた学問はない。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」1テモテ4・9)自分は、先人の限りない労苦の恩恵を受けて、疑いなく三位一体の神を信じ、御言葉を信じている。心を騒がせることなく生きる、真実な道である。残された生涯を「御言葉の言うとおり」 に、帰するつもりである。

「私の帰すべきこと」(1)

「私の帰すべきこと」(1) † 自分に帰する間違い。 「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。 † 平安の源。 私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。