
- 「身近で見えないもの」(6)
† 手にしないもの。
わかっていても手つかず、そのままにしているものがある。棄てればよいものを、そのままにしている。必要に迫られないと、やれないのが私達なのだろう。誰にも大切な時間が与えられている。しかし、余裕としての時間は、くつろぎのために費やされているのが実感である。手にしない一つは「本」である。一向に進んでいないのが読書だと感じる。聖書の御言葉は開かれるが、長い時間ではない。文字離れとは、それだけ教養が身に着いていないことなのだ。これは世界的な傾向で、現代の国体に携わる人々にも見られるという。その結末は実利を重視する「もの社会中心」で、人間は軽視される世界を創り出す。言葉は巧みであっても、底が浅い(古典的教養が乏しい)と、言われている。キリスト教出版社の多くが廃業に追い込まれた。何を物語るか、クリスチャンも本を手にしない人種になった、と言うことである。「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である」詩50・7)本のない時代は「聞く」ことであった。今は、神ご自身と福音についての高さ、広さ、深さは読書において、最も克明に語られ、書かれているのである。† 一人の人。
「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる」 イザヤ22・23) 主なる神の御目において、私達一人一人は「神の祝福の釘」なのである。五寸釘(15センチ)が日本では最も長い釘だか、小さな存在である。私達は多くの同朋であるクリスチャンを知る。その一人一人の存在を「確かな場所に打ち込む釘」と見られている。わたしも「一つの釘」なのだ。確かな場所とは?生まれて今日までが「場所」ともなり。この日本という土壌も「場所」である。一人一人のクリスチャンが「栄光の座」となる。とあるのは、主イエスのために、確かな存在であると言う事である。それは、私達の家系の中で、確かな存在として記憶され「彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。」イザヤ22・24)となるのである。主イエスの思いを抱いて、兄弟姉妹を見直し、尊く愛したいと思う。


