
- 「受容という技量」(3)
「受容という技量」(3)
† したい放題に対して。
主の語られた言葉「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」ルカ21・9)続く10節には「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11節)大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます」今年4月になって、世界が揺り動かされている。アメリカの「関税」問題である。世界の良識であった「民主主義国家アメリカ」も、吹き飛んで「王様国家」に成りさがった状態だ。そして大国を背にして、やりたい放題に見える。主なる神は、世界の終焉(シュウエン)に、起こり得ることとして見られているのだろう。世界には「したい放題、やりたい放題」の長(オサ)が、これ見よがしに虚勢を張っている。度が過ぎれば、ヘロデ王のように、主の御使いが遣わされ「彼は虫にかまれて息が絶えた」使徒12・23)という事もあり得る。終わりの時代の、悪の現実を、主なる神が受容しておられるので、私達も神の摂理の中に、受容出来るのである。悪が増大する時代を「暴虐が地に満ちた」創6・11)と表現される。そして、その世界は大洪水で滅んだ。教会は、ノアのように箱船(福音)に入るように、声を上げて宣べ伝える「Go In To」を、求められている。† キリストになる事。
人間は誰も、キリスト(メシヤ)にはなれない。それなのに、聖書には「キリストのようであれ」と書かれる。教会は何かにつけて「主イエスのように歩みなさい」と、それが、信仰であると説かれる。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」ヘブル5・7)イエス様は人間として完全に神に従われた。が、人は、ありのままでは衝突ばかり、争いばかりである。とても平和を創りだせない。だから、キリストに倣え、と言うことになる。夫婦も「水と油」の関係である。だから、キリストに成る必要がある。キリストは、十字架に死なれた。私達がキリストになるためには「私はキリストとともに十字架につけられました」ガラ2・20)に実存する。ゆえに、死人である私は「全てを受容出来る」のである。これが最大の技量となるのであるる。