• 「神と人間の志向」(4)

    「神と人間の志向」(4)

    † 人間の志向が生むもの。
     一億総ウツ(鬱)とも言われるほど、日本人の心は病んでいる。そんなバカな。と思われるかもしれないが、日本人は生き方を考えるべきである。中学生にアンケートを採ったところ「楽になりたい」という回答が多々見られた云う。現代の親たちは、子供によかれと思って先回りをし、わが子が最短距離で人生の勝者となるように進路を整える。子供達はよい子であるため、親の期待に応えるようと、与えられたモチベーションに従って、勉強に、稽古事に励んで「自分を勤勉に動かすモード」を身につける。これが定着してしまうと、このモチベーションに自分が支配されてしまう。すると真の自分のモチベーションがつかめない、わからない自分になる。親や、社会や、人の期待に応えようとする心性(神経症性)が問題として現れてくる。ウツ、ウツ状態は先天性ではなく、人間社会において起こされる病である。「楽になりたい」という欲求は、良い子であるための、かりそめのモチベーションからの解放を意味している。人間の志向の不健全さが強要される社会では、真面目な成人に、ウツ、鬱状態が多く発症する。そのためには、人間であること「メメント・モリ」(死を忘れるな)や、未来の生活ではなく、今を生きることを大切にすることだ。「・・・・神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7

    † 神の志向に向かう。
     最も解りやすい実例は、キリストの使徒達を見る事だ。とりわけパウロはその筆頭であろう。神の志向に全き同調した模範的過程(プロセス)を経た人である。クリスチャンならば誰もがパウロと信仰のプロセスを同じように求めるべきだと思う。なぜならば、それが人間の完成だからである。それは殉教者になる事を意味するのではない。パウロは、今に生きる私達が最高に生きられる道筋を示した模範者であると言う事だ。多くの患難困難、試練を経ずしては知り得なかったし、病に打ちのめされ、苦しむ事を通して知り得たことである。それは私達に悟りを与えるためである。キリストが私達の受けるべき絶望を十字架で担われたと同じである。地上の全ての栄華を「糞土」とし得たのは、神の志向に同一になり、神御自身の栄光に浴し、復活のキリストの中に生きる、幸いの現実しかないからである。