• 「信仰の検証」(5)

    「信仰の検証」(5)

     † 泉の源を知る。

     私には、思い起こす言葉がある「巧言令色少なし仁」である。これは、自らへの自戒の言葉である。「論語」の孔子の言葉だが「話は巧みで、顔つきも良い、しかし、そういう人に限って誠実さや愛の真実が乏しい」と言う意味である。聖書を語る時や、勧め(説教)をする時には、あたかも自らが真理の化身のように熱情的である。確かにそうでなければならないのだ。しかし、それがパフォーマンス(演技)のように終わるならば、私の中には「少なし仁」としてしか影響力がない。孔子が見切ったように:、クリスチャンとしても見切られる。私達は日頃の信仰と、会話に伴う人柄としての優しさや、慈しみを行うことである。これを忘れなければ、主は共にいて下さる。世間でも「口(言葉)だけの人間」は忌み嫌われる。言葉は巧みではなくても、隣人を執り成し祈っている人は、真に「仁」がある人なのだ。テサロニケの教会の兄姉は、使徒パウロ達一行の、力と聖霊の福音の言葉と共に、パウロを始めとする誠実な生き様を通して、使徒的信仰を継承したのである。教会におけるリーダーの誠実な生き様が、福音の力と聖霊の働きを見せるのである。健全な信仰の教会は「仁」に生きて「仁」のある教会である。

     † 信仰の危機。

     信仰の危機は、教会の危機である。この問題は使徒時代から今日まで変わらず現存している。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」エペソ2・8)ここに出てくる「信仰によって救われた」は主題ではなく「恵みのゆえに」と「神からの賜物です」が、構文の中核である。現代の信仰の危機は「神の恵み・神の賜物」の希薄さにあるのではないか? 神の恵みによって救われる事実を強調すること。御言葉が示していることは「恵み」(定冠詞付き)それは神の賜物である。救いの全てであることを示す。「私達自分自身から出たことではない」が強調されている。信仰は、罪人が自ら利用するための手段、道具なのである。神の恵みが、私達の救いを満たすのである。福音は神の恵みで満ち溢れている。恵みが一辺倒の理解に堕してはならない。生命の豊かさ、救いの偉大さ、毎日の活力は神の恵みにあるらだ。