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  • 「らしく生きる」(1)
    「らしく生きる」(1) † クリスチャン以前に。 19才の時に宣教師に出会って、キリスト教会の交わりに加えられた。しかしそれまでに聖書を買い求めて読み始めていた。ガイドブックもなく、ひたすらに修養の書としていた。信じるならキリスト教だと人にも言っていた。「主婦の友」創設者の石川武美著「信仰雑話」を手元に置いて、信仰の一端を知ろうとしていた。なぜかというと、私の内に多くの弱さがあり、克服する必要があると思っていたからである。要するに「男らしくない」自らを鍛えたかったのである。未熟な19才の置かれた環境と、課せられた運命の桎梏(シッコク)に、もがいていたのである。たとえどのようであれ、後ろ指を指されるような男には成りたくなかったのである。今は牧師だが、あの時、一歩間違えば社会主義者になっていた可能性がある。人間の完全な自由と、人間の完全な権利こそ、男として追及すべき事柄であると思っていた。巷の淫蕩や放蕩は、自らを失うことになり、男らしくない思えた。「男」らしくある。ということは、信仰が有る無しに関係なく、良心に恥じない「らしさ」を生きて行きたい。  † ふさわしく在る。 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9・62)らしく生きる事は、ふさわしく生きる。と言う事である。ふさわしいとふさわしくない。らしいと、らしくないが、私につきまとっている。大局的には、上掲の主イエスの言葉が言い表している。神の国にふさわしいのは、うしろのもの(過去を、棄て去ったものを、以前の快楽を、家族愛との別かれ)を振り返らず、前に置かれている、与えられる栄光と祝福に向かって歩み続けるのである。手にある鋤(鋭い御言葉)で現在を新にしてゆく事である。この事で神の国にある喜びと感謝が溢れてくる。「信仰によって前に進んでいる」この「絵」状況が、私達にふさわしい。クリスチャンらしい幸いな進行形である。この人は従順なので、神の国の奉仕が出来る人で、イエスの弟子と言われる人になる。神の国にふさわしい、らしい人には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)が注がれる。
  • 「歩み出すとき」(7)
    「歩み出すとき」(7) † 期待と希望に向かう。 一月も中ばを迎えた。多くの人の歩み出しを聞いたが、特別な歩み出しをしていない人もいるようである。確かに、振り返ってみれば、毎年同じように生きており、決心したことも、日常の事柄に流される経験をしてまうからだろう。三日坊主に終わることを恐れることもあるかも知れない。しかしながら、神を信じる者にとって、期待し希望することは信仰の生命線である。そこには、私という実在が神と係わっているのだから、自分から神と係わらせることが信仰となる。神がして下さるのは、私の信仰があってのことである。この意味で誓願を立てること、嘆願することが年の初めに相応(フサワ)しい。強い教会、力のある教会とは当然、信仰のある教会である。即ち、人としてのクリスチャンが神に願いを持ち、期待し希望している多さと、大きさに現れる。教会の安定期とは信仰がなくても、組織的に事が運び安泰で、成るように成る事である。信仰の停滞期となる。神に期待し祈るよりは、自分の事柄に向かうようになり霊的な衰退が起こる。その回避のため、信仰の刷新を目指そう。 † 一人の救いのために。 私達の教会は「一人の救いのために何でもする」という宣教理念で動いている。そして「人にはできないが神には出来る」マルコ10・27口語訳)という神信頼である。何でもするという人の在り方と、神には出来るという信頼が、同時進行していることを忘れない事だ。可児福音教会の生命線は、当事者である会員の信仰の内容に置かれる。神には何でも出来る事は、ゼロから起こされた、私達の教会の歴史に証明されている。また、聖霊の力ある不思議と徴を通しても証明されている。今までは良いとして、これからも、同じ信仰を継承できるならば、私達と共に聖霊が伴い、神の「何でも出来る」御業が起こされるのである。それを呼び込むのは「一人の救いのために何でもする」という動的な信仰の行いである。このために前に向かって行くならば、この地域における、宣教による神の国はもっと強くなり、大きくなる。ヨシュアとカレブのような戦士となって叫ぶことだ「主が私たちとともにおられるのだ・・・・恐れてはならない」民14・9)私達の目を主イエスに注ぎ、愛と真実を握って、立ち上がろう。
  • 「歩み出すとき」(6)
    「歩み出すとき」(6) † 本物に向かって。 偽物が本物になれる道があるのか?例えば人工ダイヤモンドは本物になれる過程(プロセス)があるのか?可能性をいまだ聞いたことがない。取り上げたいのは、そういった元素的な違いではなく、努力や精進によって、未熟なものが熟達する過程である。この意味での人間は得意分野としている。プロフェショナル(能力が高く、技に優れ、その仕事に確かさがある)要するに本物(プロ) になれる。とても喜ばしいことで、人生の醍醐味でもある。中には人間国宝とさえ言われる超人も生まれる。人間である限り偽物はいない。本物から見れば未熟なだけである。今年の大きな喜びは、未熟さから本物になる事を目指せることである。私達クリスチャンの確信は100年前も今も、2000年前も今も、信仰の世界、霊的世界は何ら変わらない、時代が進んで、多くの信仰の証人が増えたことであり、聖書の真理がより良く解明されていることである。今が最も幸いな時代なのである。それなのに未熟な信仰のままでは、主なる神に申し開きができない。成熟し本物に成ってキリストの香りがただようような者に、向かって行きたいのである。  † 一つである。  「しかし、必要なことは一つだけです。・・」ルカ10:42)人間が生きるためには余りにも多くの必要があるのに、主イエスは「一つだけ」と言われた。これを極めることが私達人間の重要な課題である。主イエスは永遠の価値において言われたし、神としても「一つだ」と言われたのである。「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました」1コリ13:11)思春期になり、壮年になっても、世の執着が支配するとしたら、主イエスとは異なる考えに支配されているのだ。物語を語って説明することと、主イエスの「必要な一つ」に実存して生きる事とは、雲泥の差がある。宗教的な生き方をするのでなく、御言葉の真理に這入(ハイ)り込んで生きてゆくことが、必要な「一つ」なのである。そういった模範者が教会には必要である。私の若く未熟な時に、信仰に熟達した模範者が居られて教えられた。これを誰かに期待するのではなく、自らが、主イエスの言われた「必要な一つ」を喜び、楽しんで歩む事である。
  • 「歩み出すとき」(5)
    「歩み出すとき」(5)   † 新に歩みだす時。新年の喜びは期待に心が弾んでいる。「新しい」ことを全てに適用できる幸いがあるからだ。第一に、新しい主なる神のお導きが始まった。なによりも期待して間違いのない祝福があるからだ。第二は、私の志を主なる神が、新に実現させて下さることだ。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2・13)私達の中に生き続ける「志」が、新に実現されて行くのである。それは、家族の救いではないか?親しい隣人の回心への導きではないか?私達がクリスチャンとして、この「志」が新に掲げられるのである。まず、この年の初めに、最も大切だと、指し示す御言葉に従う「志」を強くしたい。第三に、さらに新に、恵みと祝福に成長しょう。私達は日々に新しくされて行く特権を持っている。停滞して留まると「死海」のように命を失う。そう成らないために「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求め・・・・」1ペテ2・2)新に、私達は霊的な命を豊かにし、神の恵みと祝福の一年とされるのである。  † 信頼を捨て去らない。 信仰とは「信頼する事」に他ならない。サタンは神の存在を明確に信じているが、神を信頼してはいない。神を信じていても「信頼していない」という現実を恐れる。私達が人間である限り起こりうるのである。自分でできること、即ち、習熟して持っている能力は、自然にできる力である。世の中は一人一人の能力によって集合された世界である。飛行機に乗るのも恐れず、自分で車を運転するのも恐れない。これは無意識のうちに自然で、信じなくてもできている。神に在るという私達は、神に依存しているということである。私達は全ての事を、主の御名を通して行う。危険でもなく普通の事柄でも、主の御名を通してする。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)神を信頼する人は、当たり前で自然のことでも、主の御名を崇めて行うのである。その習慣ができると、未知の事柄にも、想定外のことにも、自分の力量に勝る事柄にも、神への信頼を持って前進できる。神への信頼を決して捨てない人となる。
  • 「歩み出すとき」(4)
    「歩み出すとき」(4)  † 良いことは忘れない事。 いよいよ主の降誕によって、新しい年が始まった。しかし、カレンダーでは年末である。目につくのは忘年会という、お決まりの言葉と宴会である。一年間の労苦を忘れ、親睦のために楽しむのも悪くはない。日本では12月の31日の大晦日に「年取り」の食事をする。この習慣は、新しい年を迎えるために、家族全員が正装し、一年で最も豪華な料理で祝う。そこには一年への感謝があり、祝う思いが溢れている。忘年のためではなく、生きて働き、戦ってきたことを讃えるためなのである。日本の習慣の中に、イスラエル的な感謝の祭りとよく似ている部分があるように思う。民族の歴史的な意味合いでは、イスラエルには及ばないが、私達は「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)と、いう意味で、生まれて今日までの、そして今年一年の全てを、神の恵み(良くして下さった)として、感謝し、主なる神を讃えて、明日を、また新年を生きて行きたいのである。  † さらに真理を求める。 今になってわかることがある。それは年を経ることでしかわからない事だ。今頃、良く聞く言葉は100年時代という言葉だ。確かに今年、私の母は101才になる直前に、苦痛もなく直ぐに召された。認知もなく、寝たきりでもなかった。確かにその時代が来ていると思う。問題は身体的健康のみではなく、霊的で知性的な健康を増進することである。モーセは80才から40年間、霊的リーダーとして、新たな体験と知性を収得した特別な存在である。しかし、自分がそこに立ってみると、生きてきた全て、体験してきた全てが、主との関係でしかないことに気が付く。それが主に従う信仰生活の特典である。山の頂上からは全てが見渡せるように、それが霊的な経年者の実際である。ただ、明日のことは神のみぞ知られる。私達は明日を知らない。言える事はただ一つ、悔いることなく、主を知りたい。世界の全てに優る、主イエスの愛と真理の中に浸かりたいのである。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」 2コリ5・8)これが地上に生きるクリスチャンの極致だと思うからである。
  • 「歩み出すとき」(3)
    「歩み出すとき」(3)  † 自由になれる道に。 自由とは、聖書的には広場の意味を持つ。広場を想像すれば、そこには圧迫するものがない。脅かすような何ものもない。物理的には、そういった、穏やかな空間に安らぐことである。また同時に、この広場には比較するものがない事を意味している。自由は「比較」する要素がないということである。自由になれない人の特長は、人との比較によって劣等感を持っている。常に比較によって自己を惨めな者として感じている。せっかくキリストを信じて、罪から解放されたのに、自覚的で感覚的な自由を得られていないのである。しかし私達には、キリストこそが「広場」そのものなのだ。キリストは私達を比較のない世界(広場)に、入れて下さっているのである。確かに人の心(魂)には、過去の様々な痛みや傷があって、自分ではどうにもならないものがある。このような不幸感があると、無意識のうちに身近な人と比較して、惨めさに囚(トラ)われ、不自由から脱出できないようになる。はっきり言えば、死ななければ治らない。しかし、生きながら死ねる道がある。キリストと共に十字架に死ねば、古い自分は過ぎ去り、真理の自由に喜び踊る自己を得るのである。  † 影響を与える人へ。 影響を与えられる人と、反応的な人がいる。どう違うのか?世界で最も影響を与えた人はイエス・キリストである。たった12名の弟子に教えられただけで、イエスの福音は全世界に行き渡っている。しかも、弟子達は高名な学者でも博士でもない、漁師達だった。こうしてみると、福音は世の中の知者や哲学や理論(学問)の助けを要しない、具体的な実際の出来事としての「神の生命」 だった。そのためには汗にまみれ、生きるため辛苦を味わっている素朴な人々の方が、神の出来事に相応しかったのだ。この漁師達は福音の受容者として、狂いも迷いもない使徒として福音を伝え、絶体的影響力を顕した。一方反応的な人とは「お金を持っていたら・・良い上司を持っていたら・・良い夫を持っていたら・・もっと自由な時間を持っていたら」と言うように、問題を社会や他人のせいにする。自らの内側から自らに働きかける「影響力」を持たないのである。影響を与える人は「自分にできる」可能性に関心を持ち、愛するという行動を持つ人である。
  • 「歩み出すとき」(2)
    歩みだすとき(2)  † 人は人私は私。 真の個人主義は、神を畏れる所にある。神を畏れるならば、兄弟姉妹を愛する(隣人愛)が生きている。人は人私は私という時には、人の事など関係ないということではない。神にあって、人の独自性を認めるという意味である。隣人を自分のように愛せる人は、キリストのように完成された人である。私達クリスチャンも一日にして、到達できることではない。これは神の言葉に準じる、霊的な領域である。霊的な完成とは「キリストと共に十字架に死ぬ」ことを通して、隣人を霊的に自分と等しく愛せることである。もう一つの死は肉体の死で、やむなく全ての人が受け入れる。しかし、霊的な死を進んで受ける人は多くはない。キリストと等しくなる事を「死」意外の事柄に求めている。格好良いことを求めているのである。だから、愛の理論は作れても、人間の能力では真の隣人愛は作れないことがわかる。私とは宇宙にただ一人の私の事を言うのである。神の作品としての独自の私なのである。この意味で人は人であり、私は私なのである。私が歩み出すのは、霊的な神の全き作品(キリストのみ姿)になる事であり、常に霊的に「死んで」歩み続ける事なのである。  † 誡めは私のため。 誡めがなければ、私は誰なのか?正しいのか?わからない。誡めがなければ、自分のしている事が全部正しいことになる。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。・・・・」ロマ7・8)このように誡めによって、自分の罪深い卑しい性質がわかるのである。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」1ペテロ4・17)改めて、神の戒めを心に留め、歩み出す必要が一人一人にある。神の主権に服することをしないで、一人前を装うことは、主イエスに何を判断させるのか?「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです・・・・」ロマ16・18)神と人と自分を騙(ダマ)すことが良いわけがない。誡めを捨て去れば「罪と滅び」はないが、主は私達が神に生きるために、誡めを与えられた。誡めを守る者には、神が現れる。 (ヨハ14・21)
  • 「歩み出すとき」(1)
    「歩み出すとき」(1)  † 準備する。 アドベント(待降節)は、主イエスのお生まれを、待ち望む時を意味している。「・・・・マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2・6-7)この世では、主イエスの誕生のために、場所が準備がされていなかったのである。何ということだろう、無知と無関心は、同じように今日の私達にも当てはまる。この出来事を、知っている私の出来る事は、主イエスのために場所を用意することである。準備して待ち望む尊い時間にしたい。では、どこに場所を準備しようか? 思いつくことは一つしかない、私の宮(心)だ。まさに、飼い葉おけのような質素な心でしかないが、暖かくお迎えしたい。御子の聖さに厭(イト)われないように、御子の笑みに答えられるように、整えてお迎えしたい。以前に聞いたことだが、「ここに主イエスが来られた時、ここは主イエスにふさわしい場所だろうか?」この自問が、自戒を生みだし、恥じない生活をするようになる。と言う事であった。自らを整えて生きて行きたい。  † 主を呼び求める。「・・・・この時、人々は主の名を呼び始めた」創世記4・26[口語])明らかに、主の御名を「呼び始めた」 これは、公同の場で堂々と、主の御名を呼ぶことであり、自分を主の御名で呼ぶ、信仰告白であった。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」 ロマ1・16)と言って、堂々と主の名を呼んだ。同じく、主の復活を知っている私達である。大切なのは、聖霊によって復活の真実から来る、喜びの信仰が現実化されること。使徒による御言葉の教えに従う教会となり、聖霊の力に溢れることである。そして、現代の罪深い世に向かって、私達は兄妹愛の聖い親密さで一つになり、堂々と公同の場で、主イエス・キリストを呼んで公言し、キリスト信仰の力が現される時代になるのである。神の陣営は、神の恵みにより、暗闇を押しのけて行くのである。今こそ、個人主義から、キリストの共同体(兄弟姉妹の一致)に赴いて、主の御名を呼ぶのである。終末的信仰であり、これは私達の教会に興される恵みである。
  • 「道理に立ち返る」(7)
    「道理に立ち返る」(7)  † 誰の言葉か? 思うに、最終的に、それは「誰が語った言葉か」が、重要である。大学の図書館に行くことは、めったにないが、何年も前にアメリカのシアトルにあるワシントン大学の図書館を訪れた。とにかく、その広さと膨大な書籍に圧倒された。本とは全て言葉が書かれている。数式ですら言葉で言い表されるわけで、書かれているものは言葉に還元されるわけだ。そういう世界で、聖書は、どうして「本の中の本」という位置を持っているのか?既成の概念を捨て去って、初心に立ち返り考える。聖書は人間の言葉で書かれている。そして、40人の作者が時代を異にして、言葉にした。あたかも人間の語録のようである。聖書の面白いところは、私の語る事を「記しなさい」と命じる者の声を言葉にした。40人もの著名な作者がいるのに、彼らは「神の言葉を聞いて」書いたと言う。要するに聖書66巻の作者は「神からの言葉」を書き物にしたのである。人生を与えられた人間に、最も価値ある言葉の本が聖書である。また、キリストが直接、神の言葉を語られた。そして言われた「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネ14・9)聖書は驚きであり、どの様な人生を生きる人にも、朽ちることのない宝を得させる。まさに道理に満ちている。  † 道理が来られる。 今年もアドベントを迎えた。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」ガラテヤ4・4)父なる神が満を持して、独り子イエスを私達のために、この世におくられるのである。神の偉大な出来事に対して、私達は、ますます大きな喜びを与えられる。なぜならば、神への信頼(信仰)が深まっているからである。これまでの歩みが、何よりも神を知るためであったなら、主イエスの降誕は、新たなる神の恵みと祝福をもたらすものとなる。私達が神に召され、選ばれた神の種族として生きるからだ。神が人となられるクリスマスは、特別な恵みであり、私達への栄光となる。私達の信仰の確信が強められ、祝福を直接に与えられる。尊い主の生涯に目を注ぎ、御言葉を学び続けたい。主に倣い歩む事を、聖書が命じている。それが私達の道理であり、私達の立ち返るべき道だからである。そのような私達に、主イエスは幼子の様にへりくだり、私達に仕えて下さるのである。
  • 「道理に立ち返る」(6)
    「道理に立ち返る」(6)  † MVP (most valuable player) MVP「最優秀選手。ある期間を通じ最も活躍がめざましくチームに貢献した選手に与えられる賞」に太谷翔平選手(27才)が満票で選ばれた。投手として、打者としての二刀流が最高の現実を生みだした。野球の天才選手達の競う、本場アメリカで達成したことは大きな意味がある。先日も、植村直己が日本人で初めて冬季単独登頂に成功したことで有名なアメリカのアラスカ州デナリ(マッキンリー山)の6190メートルから、南西壁を佐々木大輔さん(44才)が、世界で初めてスキーで滑降したNHK特集番組を見た。驚くべき精神力、技量とセンスである。恐らく何らかの欠ける所があっては達成できないものと思わされた。太谷選手、佐々木スキーヤーは、努力と鍛錬の賜物による成果を現された。その全てが、道理に適っているので、偉業に繋がったと言う見方をしたい。私達は凡人だが、偉業に繋がる事は出来る。私達もMVPとされる道がある。私は欠けたる不完全極まりないが、キリストが身代わってくださるのだ。私がキリストと共に死ねば、私はキリストの生命に生かされる。この御霊の真理(道理)に従えば良い。この道理だけが、私も、あなたも間違いなく、永遠に続くMVPを与えられるのだ。  † いのちの御霊の原理。 「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ロマ8・2)上掲の補足だが、私達はこの世で、MVPの生き方を求められている。それは「私達はいのちの御霊に生かされている」からである。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 ロマ8・14)私達は積極的に真理の自由を生きる事が、クリスチャン生活を、成り立たせるのである。いのちの御霊は、私達をキリストのようにし、私達を導いて強い確信を持つようにして下さる。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」ロマ8・32) キリストのために耐え忍ぶ事が「・・・・圧倒的な勝利者となるのです」 ロマ8・37)なぜなら、この道理に立ち返れば、いのちの御霊の原理が、私達の中に流れ込んで働くからである。
  • 「道理に立ち返る」(5)
    「道理に立ち返る」(5)  † 盲目と好み。 動物と人間の違いについては色々な事が言われる。その中で、とりわけ、わかりやすいのは、どんなに原始的未開にある人間でも必ず宗教があり、信仰がある。と言うものである。私達は既に神を信じている者であるから、神による人間の創造を当然としている。しかし、それが当たり前ではない。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ・3-4)このように、道理(当然性)は、二つの要素に影響されている。一つは聖書の神の啓示(キリストとの出合い)であり、もう一つは「この世の神」の影響力(覆い)である。人々の盲目は「福音の光」を知らないことだ。当然、好みの方向が違っている。学問にしても、読書にしても、神なき世界の高みでしかない。唯一、主イエスを宣べ伝える事でしか打開はない。緊急にして最重要事項である。  † 振幅と妥当性。 学問というものは、なんであっても理論が成っておれば認められるものである。「黒は白である」という論拠が通れば学として認められる。奇抜な発想が論じられていてもである。キリスト教の学問(神学)は、二千年の歴史の中で、数多(アマタ)の学説が興った。人間の歴史の中で生まれる哲学、思想、革命、戦争による人間の影響である。その時代の波は当然教会にも押し寄せる。そのための新しい神学が生まれる。そこに人間の考え方による論拠が這入りこんでくるのである。今、この時にも、およそ聖書の真実と、かけ離れた使徒像、キリスト像、聖書観の学問が発表されているのである。これらの問題は、教会の羊飼い(牧師)の研鎖(ケンサン)によって、健全に福音と教会が守られてゆくのである。新しく常識となって書き換えられる学説も当然生まれている。同時に不偏的と認められた学説は光りを放ち続ける。学問は幅広い振幅を持つが、それを振り分けるのも、揺るぎない真実の軸を持つ学問の力なのである。道理とは、妥当性でもある。真実な神の意図(ご計画)が、霊感された聖書によって、人間と世界に道理(妥当性)を与え、永遠をもたらすのである
  • 「道理に立ち返る」(4)
    「道理に立ち返る」(4)  † 私はちり灰に過ぎません。 「アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」創世18・27)滅亡するソドムからロトの家族が救われるように、神と対峙(タイジ)したアブラハムの執り成しである。主はアブラハムを重んじ彼に知らせないでは、事を起こされなかった。アブラハムの全力が「私はチリや灰に過ぎません・・・・」という神を畏れるへりくだりとなった。先日、軽四トラック二杯分の枯れ草を、許可された田で燃やした。残ったのがチリ灰だ。なんと少量の灰となることか。家屋にしろ、焼けてしまうと灰のみである。造られたものはアブラハムの言うように「チリと灰」に過ぎないのだ。「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」伝道3・20)私達が人間としての道理を考える時、このアブラハムの「私はチリと灰」であるという理解で生きる事が、最も優れている。それは同時に、主にあっては「祝福の基」であり、「神に選ばれた特選の民」で、神の宝とされた、現実を生きることが出来るのだ。アブラハムのように「私はチリと灰に過ぎない」と自認し告白できる人に、鮮明である。  † 「ノーベイン・ノーゲイン」 「犠牲なくして、成功なし(ノーベイン・ノーゲイン)」と言うのが、旧約聖書の教えている重要テーマである。大切なものを失わなければなにも得られない。と言う意味である。この道理には、多くのクリスチャンでさえ、抵抗を感じるのである。今様は、犠牲なくして儲けること、失う事なくして幸福になる事が、思考の中心になるからだ。イスラエル民族は、エジプトから脱出するには、着の身着のまま、持てるものだけを持って、全てを置いて(犠牲にして)自由と解放を手にした。新約聖書を見れば、我らの主イエスは、神である栄光を犠牲にして、人となり命をも犠牲にされた。まさに、救い主イエスは「犠牲なくして成功なし」の原型である。人間としての成功者は、主イエスに倣う人である。犠牲を惜しまない人が、真の成功を手にするのである。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」ルカ6・38)教会に真の成功者を見るのは当然である。主なる神に、自らを聖なる犠牲として与える事で、成功への道が開いている。    
  • 「道理に立ち返る」(3)
    「道理に立ち返る」(3)  † 必要が不必要に。 20年前はラジカセ時代であった。それで様々な大型のラジカセが登場した。CDを登載したラジカセが主流になった。子供達が欲しがるので当時の評判のラジカセを買った。手元から離れて、何年かして帰って来た。故障したのだ。相手はデジタル機械である、ボタンを、むやみやたらに押し続ければ故障の原因となる。デジタル機器の道理もあるのだ。大事なリモコンも紛失されては、もう、不必要と言うほかない。大枚を叩(ハタ)いた覚えのある身には、簡単には捨てられないので放置していた。つい最近電源を入れてみた。カセットデッキが動かない。CDテッキも動かない。ラジオは3バンドとも生きている。これをどうしょう?不必要を必要に代えられるのか?とにかく電源を入れっぱなしにしてみる。これを繰り返す内に、カセットテープのモーターが動き出した。CDデスクは一週間後に表示だけ出たが「NO desk」それを放置していたら、突然CDが音楽を奏でた。何かの偶然で作動したにすぎない。あきらめずに触れて係わって行こうと決めた。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」イザヤ42・3)折らないこと、消さないことが、道理にはある。  † テストされる。 「巧言令色すくなし仁」人前に立ち、表情豊かに、巧みに言葉を操る。これは人のする常套手段である。牧師もそういう立場にある。非のなき神の言葉を、語るのだからなおさらである。しかし、生ける神は、ご自分の言葉を語る者を「テスト」される。御言葉の重みにふさわしく語って欲しいからだ。ここに道理がある。即ち、人としての「徳」のない者に、神の言葉は、語るにふさわしくないからだ。人の評判や人気のために動機があっては「テスト」にまず受からない。「自分の義と賢さにすぎて」伝7・16)生きることでもない。次のことが出来る事である「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」 1コリ6・7)迫害者をも愛して祝福する。そこを現実に生きる事で、合格するかも知れない。福音の道理に立ち返る時にのみ「仁」あり、徳ありとされる。
  • 「道理に立ち返る」(2)
    「道理に立ち返る」(2) † 人の好まないこと。 人の好む事は何だろう?第一に「道理に適うこと」である。しかし、これには注意が必要である。私達の性情には、四角四面である事を好まない傾向がある。要するに真っ正直では、面白くない。歪んでいたり、イレギュラーする事に興味を持つのである。著名な小説家が言うのには、破天荒な人物こそ小説の題材である。と、真っ正直な道理に過ぎる人は、面白く書けないと、言うわけで、まさに好まれていないのである。私達は自分に即して、なにごとも都合良く振り分けて生きているのだ。社会や政治に期待することは、道理に適った正義を主張する。しかし、身近な生活では四角張った道理を求められるよりは、あれも、これもあっても良い緩やかな、アドリブのある生活が気楽なのである。しかし、根本には道理を置いていて、自分と家族の規範としているのである。私達の主イエスは、真理という道理に生きられた。しかも全き自由であられた。これこそが私達の立ち返る「道理」なのだ。全く片苦しくなく、笑いと喜びに満ちておられたのである。イエスは言われた「私の言葉にとどまるなら、あなたがたは本当に私の弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32-32)まず、この御言葉にまず立ち返りたい。  † 面白いことから。 時代が進むということは、どういうことを意味するのか。思うに低年齢化することである。私が主イエスと出会った60年前の常識は、前世代の蹈襲(トウシュウ)で、幾らか封建的であった。徒弟制度が生きており、男というものの尺度があった。また、男の遊びというものも公認されており、27才まで位に卒業し、所帯を持つために身を慎む。それが地域の目であり、監視のようでもあった。その中に若者の私もいた。しかし、私はキリスト者として、世的な男の遊びには赴かなかった。それで、その地域で珍しい男として知られたわけである。社会が容認する男の遊び、その面白さに浴した青年達は、心の内容が変わってしまった。どの様に福音を伝えても「にやにや笑った」男には別の世界がある、と言わんばかりであった。人間の道理(真理)が、ばかばかしく思えてしまう。この事が低年齢化している。男が一旦、面白い事にはまると、救いから遠くへ弾き飛ばされてしまうのだ。私はそういう多くの男達を見たのである。
  • 「道理に立ち返る」(1)
    「道理に立ち返る」(1)  † 人間的な道理。 信仰を持つ私達は、立ち返る必要があるのか?即ち、なにに、どこに、立ち帰る返るべきなのか?ということなのだが、ある人は、もはやそんな必要はない「なぜなら神は私達を救われた」からと言うかも知れない。しかし、私達は救われた後の生活の方が、誘惑と戦いに満ちており、その戦いに勝利するように聖書は書いている。確かに、主イエスの救いは完全である。イエスと共に十字架につけられた、極悪な強盗が「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」というと、イエスは言われた「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」ルカ23・42-43)要するに救われて、すぐに天に召されれば、この世の誘惑も、戦いもない完全な救いの中に住まう事が出来る。しかし、この世に生きる私達は、試練や誘惑を乗り越えるための信仰が、与えられている。それで、いつも神に立ち返る事が信仰なのだ。これを私の「人間的道理」とすれば、迷うことなく、正しい道筋を生活の中に思い起こし、勝ち進めるのである。  † 最大のチャンス。 今年は、世界で初めて無観客のオリンピック、パラリンピックが日本で行われた。内容が競技である限り、順位がつきものである。まず、参加する事が出来た一人一人が名誉ある選手である。メダルを獲得した選手は、勝者として、その名が世界に知らされた。思わされるのは、四年ごとの競技に、それほどのチャンスがないということである。さて、私達は神に召され選ばれた者であるが、主イエスに期待されている事は「勝利を得る者」となる事である。四年の間にと言う様な期限はない。不断に神を信じ、御言葉に聞いて従っているなら、勝利者の道を歩いているのである。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」 默3・21)私達には、この世で生きる最大のチャンスが、与えられている。主が招かれる場所が「主の御座」とは、何という名誉であろう。明らかに、主が自ら歩まれた道筋を言われている。召され、選ばれたと思うものは、主が伴われる勝利を得る道を、歩もうではないか。
  • 「不動の錨により頼む」(7)
     † 点ではなく線。 点の繋がりが線であるならば、違いを区別するのはヤバイ事かも知れない。しかし、考え方として「点」としてか「線」としてか、では大きな違いが生まれてくる。人の一生を点として見る事も出来る。聖書も「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい」詩103・15)と、短さを、はかなさを「点」のように訴えていると思う。唯物論者には、人には永遠がないので、人生は火花の様なものと見る。物質の一部である人間も、その命も、点としか言いようがないと思える。しかし、私達は人生を、その生命を「線」と見る。人間の地上での時間は確かに短いが、それが終着だとは受け取らない。「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。・・」申命33・27)私達の人生や生命が、いかにも点の如く見られ、思われようと、永遠という住み家である神と、その腕が下にあって支え続けているのである。私達の不動の錨は、神が住み屋であること。永遠の線の如く生かされる事だ。今の人生の様々な節目を、大事な「点」として生きよう。あの事、この事の一つ一つを、大事にして全うしょう。  † 安息日がユダヤ人を守った。 AD70年より、ユダヤ人は祖国から諸外国に追放され、1800年間も異民族の中に住んだ。しかしユダヤ人である事を失なわなかった。この驚くべき事実は、5000年に及ぶ聖書の掟を、守り通してきた結果である。神を礼拝する安息日が、ユダヤ人を守ったと言うのである。トーラー(旧約聖書)とタルムードの教えを聞き続ける、このような習慣を「かたくなに」守り続けたのである。私達はクリスチャンであることを、頭で考える事は優しい。しかし、主日礼拝を守り、聖書の掟を守り、真理を学び続ける事は優しくはない。ユダヤ人のように「かたくな」に、掟を守り、礼拝を守る習慣を堅固にしなければ、何世代にも続くアイディンティテイ(同一性)を持つ事は出来ないだろう。「曖昧な日本人の私」(大江健三郎著)にある曖昧さを美徳としては、達し得ないと思うのである。最後に言える事は、不動の錨を創り出す賢者(私)になるには、実証したユダヤ人から学ぶべきだと思う。その、かたくなな習慣は、信仰生活を堅固にし、これからの教会の発展と宣教の不動の土台であるからだ。
  • 「不動の錨により頼む」(6)
    「不動の錨により頼む」(6)  †不動の証拠。 この世の中では、証拠がないと真実と認められない。刑事ドラマを見ていると、証拠がないのでアリバイを崩せない、と言う筋書きが多い。そして、科学捜査班が登場し、厳しい鑑定を通して証拠を突き止めて不動の証拠となるわけである。私達クリスチャンの告白している 「 地獄からの救い、永遠の命、死からの甦りの証拠はなにか? 」 と 問われるだろう。もちろん、主イエスの十字架と復活が揺るぎない証拠だと私達は言う。歴史的な神の出来事として揺るぎない証拠である。信仰とはその事実を信頼していることである。また、主イエスを生きている神 メシヤ と信じている私達には、神からの生命と力が与えられている。この事も揺るぎない証拠である。さらに神の与える揺るぎない証拠は、聖書の御言葉 神の言葉 と、聖霊 (神の霊) である。主イエスがメシヤとして、死から甦られた証拠は、それを語られていた神の言葉を その御言葉どおり、主イエスを死から甦らせた神の霊 (聖霊) の力である。現代の私達も 使徒達と全く同じ証拠を提出するのである。「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました」 2 コリ 5 ・ 5 )私達の不動の錨にハレルヤ!  †理論と実際。 私達の生活を司る時間は、いつから始まったのか? 物理学者は 言 う「無の状態から約 138 億年前の時点において、突然宇宙が出現した時からである」  それ以前には時間がないと言う事になる。私達は、神の創造としての宇宙が瞬間に造られたことを理解する。神は地球を選び、整え、ご自分に似せて、完全なる人間を創造された。だが、人間は罪を犯し死ぬべき存在になった。神は実際に人となって人間の罪を背負い 、 血を流し死なれ、人間を完全にするために、墓から甦り復活された。それは人間と、人間に狂わされた地球を完全に新しく創り直されるためである。新し くなる地球と宇宙の関連は、私には今の所わからない。ただ、神は「初めであり終わりである」永遠なるお方なので、完全な贖いである 神の審判 の後には、新しい天と地の永遠のみが存在する。神は、ご自身の息 (魂) を吹きこんだ私達人間を地球に造り、限りなく慈しみ、愛して永遠の存在にされるのだ。
  • 「不動の錨により頼む」(5)
    「不動の錨により頼む」(5)  † 見えない錨。 聖書で語られている「錨」は、船の錨のような不動のものだが、目に見えるものではない。その理由が書かれている「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」2コリ4・18)人間は、その命と、その人生に、一時的なものを不動の錨としてはならない。しかしながら、この世では、「不動の錨」とは、見える財産、通帳の金額、金庫の株券や金塊ではないか?聖書は、それが一時的で失われるものだから、執着すると、人生という船はバランスを失い沈没すると言う。聖書はさらに「・・・・私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)神は「無」から「有」を呼びだされた。私達の生活で、富が錨のように見えるのだが、神は空の鳥を養われるように、私達の生活の必要を知り、備え、与えられるのだ。見えないが真実の不動の錨は、神の御言葉と御業を信頼することが不動の錨なのである。(マタイ6・33)  † 救い主イエスの信仰。 著名なスボルジョンが記している「私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんな事をなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある」(朝ごとに)使徒パウロも「[されど]人はイエス・キリストの信仰によりてにあらざれば、掟(オキテ)の行(ワザ)にて義とせられざることを知り、・・・・キリストの信仰にて我らの義とせらるるためなり。(永井訳)」ガラテヤ2・16)大方の聖書は「キリストの信仰(主格的属格)」を「キリストを信じる(目的的属格)」としている。信仰が義とする(私が神に受け入れられる義人になる)その信仰は「私自身にはない」即ち、主イエス・キリストの信仰である。私達は「キリストの信仰を信じる」ことが「不動の錨」となる。キリストの信仰が、私の中身になる事が重要である。キリストを信じる事が「目的」であると、罪の赦しと信仰義認が中心課題となる。しかし「キリストの信仰を信じる信仰」は、私達をキリストと質的に同じ内容にする。聖さ、品性、従順、キリストの持たれた力と権威にも預かる者に成長する。これが世に打ち勝つ信仰である。
  • 「不動の錨により頼む」(4)
    「不動の錨により頼む」(4)  † 人間の知恵と賢さ。 単純明快であると言うことは、愚かさを意味しているようにも取れる。賢さとは、重層的な複雑さにあるように思いこむ。単純である事をさけるのは、本当の賢さなのだろうか? なるほど、余りにも単純明快な小説では、面白くないと言われるだろう。ここでは賢さは重くて複雑である事なのだ。単純明快である事は、思慮に欠けている事を表すのだろうか?「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」マタイ11・25)これは、すごく面白い言葉である「賢い者や知恵のある者」と「幼子」が対比されている。これは今日でも同じではないか? とすれば、この世で賢くなり、知恵に富んで、いかにも重々しい人が、盲目にもなるのである。神の真理は、幼子のように単純明快に信じてる人に、明らかにされるのである。不動の錨とは、単純明快に信じた人の中に、主なる神が据えられるのである。年季(ネンキ)が積まれた賢さや知恵が深く重くても、それは不動の錨とはならないと言う事を、主は言われているのである。  † 信じる根拠。 使徒達は、聖書を私達に伝え書くときに、常にイメージしていたことがある。それは私達一人一人が、神の御前に立つ時の有様である。私の本当の終末は「死」ではなくて「神の御前で」評価を受ける時である。聖書は、そのため信仰に生きる道を教える。御言葉は、このように「終末(論)」の立場から語りかけているのである。ゆえに教会の使命と、宣教の在り方が確立してくる。所が、悪魔はそれを邪魔をする。私達に「世に在って幸いであること」の信仰を求めさせる。なぜならば、その様な教会と信仰は、この世の事柄と生活に置かれるので「神の国」を築けないからだ。私達の信仰が「神の御前に立つ」終末的であるならば、使徒的な信仰が教会となり、コロナ時代にも、神の国は力強く前進する。不動の錨の力は、悪魔の支配するこの世の誘惑と試練に対して、戦う私達の中に真価を現す。揺るがされることがなく、私達は神の御心を行い、主イエスの復活の福音を喜び、聖霊のお働きを、私達の交わりの中に見るのである。
  • 「不動の錨により頼む」(3)
    「不動の錨により頼む」(3)  † 畏れを知ること。 「恐れる」とは危険を感じ、不安を感じる。恐怖心を感じる時に恐れることである。誰しもが体験してきたことである。もう一つの「畏れる」は、近付きがたい畏敬の思いで「かしこむ(恐れる)」ことである。私達クリスチャンは、神を畏れる人種なのである。・・・ある信徒が語ったことであるが、旧約の神は罪に対して厳しく、罰を持って報いられる恐ろしい神だ。新約の神は、罰する罪を赦される、優しい神だ。なるほど当を得ている。しかし、この発言の中にあるのは「恐れ」である。愛が恐れを取り除いた如くであるが、私達は、これほどに愛を注がれる神を、近付きがたい神として畏れる。そうでなければ、まともな信仰生活は出来ないのである。主イエスに対しては、私の救い主であるが、身近な友達のように受け入れて愛している。「気さくなイエス様」なのである。恐れの対象では全くない。・・・救い主(メシヤ)に対して「畏れる」こともなく信じており、愛している。この安易なキリスト教(福音主義)は、神を畏れるという重み(錨)を失っている。ゆえに魂も軽い。主イエスへの真実な畏敬を回復するには、静まって自ら、思い巡らす必要がある。「神を捨て人になる」とは、・・・畏れかしこまなければ、見えない世界である。  † 告白と宣言。 どの国も法律を持って国事を行っている。自らの国は法律の文言の如くであると、宣言し告白しているわけである。この法律が要となり、国家は成り立ち安定する。ゆえに「不動の錨」となる。法律が機能しない国と社会は、暗黒に包まれる。クリスチャンであると言うことは「聖書を読む、礼拝を守る、祈る、献金する、証詞をすること」などで正当性を表している。しかし、それだけで安心してはならない。あなたの人生(信仰生活)の使命宣言を明確にし、明記することである。自分に対し、世に対し、悪魔に対しての、自分のミッション(使命)を明記し、神に捧げるのである。自らの成長に応じて、使命宣言はさらに書き換えられ、キリストの身丈に近付くのである。洗礼を受けていても、この宣言文が書けない事に気が付く、「私を、私にする」それは、自分の宣言である「使命宣言(ミッション・ステートメント)」を書くことだ。それによって、信仰を表明し確かな、揺るぎない魂の錨を、人生の中に持つようになるのである。
  • 「不動の錨により頼む」(2)
    「不動の錨により頼む」(2) † 人は錨となり得るか? 親しい未信者の方が、自分が好きな音楽CDを貸して下さる。古関裕而全集を始め、美空ひばり、小椋佳始め、自分が応援している新進の歌手達も含まれる。それに二枚組の歌謡曲全集も多々あり、何百曲にも及ぶ。子供時代はラジオから放送され(当時は蓄音機もない時代)耳で憶えて歌が親しまれた。戦後は、朗らかで明るい調子が多く、今も心に染みこんでいて歌えるのが驚き。現代の多くの歌の中心には慕うべき人がいて、その心の思いに命を掛ける。と言うような熱愛が人々の共感を呼ぶ。人は人との関係で生きるのだから真理なのである。人は純粋に愛する(Platonic love[プラトニクラブ])肉体的要求を離れた精神的な恋愛が出来る。お借りしたCDの中に「愛と死をみつめて」があった。実際の物語があって、本にも映画にもなった。その歌詞に「まこ・・元気になれずごめんネ。みこは・・もっと生きたかったの、たとえこの身は召されても、二人の愛は永遠に咲く・・みこの生命を・・生きて・・まこ」涙に誘われるが、それ以上に愛の絆が強く重く迫る。人の心の潔さ、人の真の愛は錨のように重いのだ。   † 失敗から学ぶ。 不動の錨の意味するところは、揺るぎない真理を指している。そして、真理を会得するには、自らの失敗はもとより、世の中の出来事に見る失態、聖書に記されている人々の失敗から学ぶ事だろう。十戒を見れば「・・・・ならない。」と否定的に言われていることを、踏みにじるところに失敗がある。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4・1)信仰生活を長年おくっていても、欲望の力が、真理である神の義を踏みにじるのである。欲しがる心、むさぼる心が、義人をも神の審きに向かわせるのである。日常の生活の場は、欲望が赤裸々に現れる。しかし、あなたは不動の錨のようであれ。人がたとえ不義な欲望で動くにしても、動かされることのない、神の義を畏れ、主の在り方に従うのである。多くの人々が、最後に陥るのは、神の義(真理)を錨とせず、欲望の誘惑に心をゆずっためである。聞くこと、見るものに気をつけ「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」 箴 4・23
  • 「不動の錨により頼む」(1)
    「不動の錨により頼む」(1) † 安定させる力。 台風シーズン到来と共に、いつも思い浮かべることがある。荒れ狂う海と、船のことである。小舟は港にロープで係留される。大きな船は沖に出て錨を降ろし、暴風や波に流されないようにする。紀元前に鉄製の錨が既に作られていたと聞く。聖書には、使徒パウロの乗る、ローマ行きの船が嵐に遭遇し、14日間なにも食べずに276人が嵐に翻弄された。その後にパウロの勧めで、全員が食事を摂ったとある。この記事の中で「四つの錨を投げおろし、夜の明けるのを待った」使徒27・29)事が書かれている。そして「錨を切って、海に捨て、」40)風に任せて、砂浜に向かったが座礁したこと。激しい波に打たれ、船尾が破れ始めた事。兵士達は、囚人達が逃げないため皆殺しを相談した事。しかし、百人隊長はあくまでもパウロを助けようと思い、その計画を抑えて、全員が陸に上がるようにした事。まさに、神のお告げ通り全員がマルタ島に上陸した。この島でのパウロの宣教は神の御力を通して、酋長を始め島民から尊敬を受ける事となった。この一連の物語の中で「錨」も、大きな役割を担っていたのである。   † 魂の錨とは。 「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです」ヘブル6・17)約束の相続者とは、私達クリスチャンのことであり、私達への計画とは、既に救われている私達の希望が、悉く完成され実現されることだ。主なる神には、ご自身以上の者が誰もいないので、ご自身に誓って確実である事を保証された。神ご自身は偽る事が出来ないので、私達の希望は「・・・・私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」ヘブル6・19)主なる神が、私達の希望の保証人であり「安全で確かな錨」として、永遠に不動の希望とされた。では錨はどこにあるのか?「幕の内側」とある。天の聖所に繋がれている。魂は「船」であり「海」は現世の人生である。信仰者は荒波と風に放浪されるように見えるが、神に祝福された現実は「錨」で、天に固定されている。私達クリスチャンは「天の聖所」が真の現実であることを宣言する。地上に造られた聖所は、私達への「型」としてあるのである。 
  • 「霊的センスと生活」(7)
    「霊的センスと生活」(7)  † センスとエッセンス。 エッセンス、英語の《essence》は本質、最も大切な要素の「精髄」「本質的なもの」を意味する。センスは、感覚や感性のこと、才能と似た意味でもある。もう一つエッセンスは「霊的実在」「神髄」という意味を持っている。私の霊的エッセンスは、今になって使徒達の言葉(教え)であると思うようになった。その他にいろいろな霊的エッセンスというものがあると思う。神(イエス)の御声である。とか、祈りの中での悟りとか、聖霊の導きであるとか、預言の言葉とか、その他に多くがあると思われる。しかし、私は使徒達の言葉(教え)に、今まで知らないでいた、霊的エッセンスを感じるのである。基本の基本のような、当たり前に過ぎないが、やはり主イエスと寝食を共にし、主の言葉と御業の目撃者の言葉(教え)は私達に一番力強い、そして直接的な証言である。また、最も力強い聖霊の油注ぎを受けた使徒達の聖書理解は、現代の神学者を凌駕している。私は、霊的センスを身につけるべく、使徒達の教えをエッセンスとして、使徒達の信仰の確信と、喜びと希望を共有したいと思っている。  † 混迷の時代のセンス。 今がとても幸いだと感じる人は、このまま変わず続いてゆくと思いやすい。しかし、有頂天になっていたり、感覚が麻痺していると、取り返しのつかない逆転を招く。イソップ物語の「蟻とキリギリス」は、まさにそれである。「勝って兜の緒を締める」こそが重要である。私達は漠然と、世界に期待している事がある。それは、この世界は「末広がり」に良いことが待ち構えている。と、しかし問いただされるべきは「その根拠はなにか」と言う事である。冬に備える蟻のように、備えるセンスが必要である。世界は、聖書の言う患難時代に突入している。この時代を勝ち抜くための武具を身につけたい「邪悪な日に際して・・神のすべての武具をとりなさい。・・しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。・・信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」エペソ6・13-17)混迷の世界ゆえに、神からの武具(知恵とセンス)を身に着けたい。
  • 「霊的センスと生活」(6)
    「霊的センスと生活」(6)  † 巧妙なメカニズム。 メカニズム(mechanism)は、「機械装置」「機構」「仕組み」を意味するとある。その上に巧妙となると、巧みな、工夫を施した、さらなるメカニズムとなる。その驚くべき姿としての人間(私)が居る事に気が着く。昨日、人間の筋肉の働きを、専門の大学教授を交えての特別編、それこそ最新のメカニズム解析機器を通して学ぶ事が出来た。私達が何気なく歩いているが、体内では情報伝達機能が働き、様々な筋肉が連動し、歩行を支えて居る事を知った。当たり前が、巧妙なメカニズムに支えられおり、知るほどに驚嘆した。次のように結論漬けがされた。人間は幸せを、労力なくして楽をする事に代えてきた。それは筋力を退化させ、人間の精神(心)の健康も弱めるものになった。世界的統計によれば、コロナ禍で運動量が極度に低下し、うつ病が劇的な増え方を示している。霊的な健康も肉体の中に宿るのである。クリスチャンも筋肉活動を増して、より健全な霊的持久力を保ち、健全な霊的センスを維持出来ることになる。    † 受容能力を養う。 受容体と言えば、私達の体内にあって、細胞外からのシグナル分子(神経伝達物質、ホルモン、・・・・)を選択的に受容するタンパク質で細胞内にある。これは私達の生命を守るための、ハイ・センスな働きである。しかし、私はそのように生かされていながら関与不能である。しかし、意識的、感覚的な世界に於ける、受容能力は自力のうちにあって、コントロール可能である。聖書では良く「頑(かたく)な心」 マルコ16・14)への厳しい主の譴責(ケンセキ)がある。頑なな心(魂)は、自分を閉ざし、自らの受容能力を無効にすることである。これを最も警戒することがクリスチャンに求められる。神はロバの口を持って頑ななバラムに語られた。民22・28)人は「私はこれにしか興味が無い」と言う。それも良いが、主なる神の御心は広い「兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」 ビリビ4・8) 受容能力は謙遜に伴う。年齢には関係ない。常に心が開かれている事が「センスを取り込む」のである。
  • 「霊的センスと生活」(5)
    霊的センスと生活(5)  † オリンピック。 2020オリンピックの最中である。これに触れない理由は無い。コロナ渦での開催、しかも無観客である。この開催には賛否両論が今も続く。会場に足を運べるにしても、全世界的に見れば極々一部の恵まれた人だけである。多くの人は日頃の勤務のためテレビも見る事が出来ない。しかし、メデイアの時代の今、充分にオリンピックを楽しめるているのではないか?・・・聖書は競技を取り上げる。ボクシング(1コリ9・26)マラソン(ヘブル12・1)日本男子体操では橋本選手が個人総合で金を、種目別の鉄棒でも金。男子総合で銀を獲得した。技が高い、安定力がある。これらは「センス」の良さである。日本の世界一選手が20人を上回った。厳しい環境の中、耐えながら、自らと戦った出場全ての選手を讃えたい。神の作品である人が、さらに全ての面で、神の似姿としてのセンスを磨き続けて欲しい。・・・・私達は霊的にはキリストの身丈までに達するセンスを身につけたい。求め続ければ、主は近づいて下さるに違いない。  † アイドリング・ストップ この度、大騒動になりかけたことがあった。私達夫婦の乗っている車のことである。前日に妻が前照灯をつけたまま放置、当然バッテリー切れとなった。コードを繋いでエンジンを始動し、少し乗り回してバッテリーを回復させた。問題は妻が出先で「エンジンが止まり、しかし、エンジンを始動出来るが、また止まる」とパニックになって電話をしてきた事である。エンジンが止まる、と言うことは大ごとだ。一応出先までワゴン車を走らせた。エンジンはすぐにかかったので、バッテリーではない。別に異音を発してはいない。なんだ?そして、すぐに思いついた。アイドリン・ストップ機能である。車が停止すると自動的にエンジンが止まる機能で、妻は全く無意識に車を運転していたということである。たまたまゴミ収集場で、エンジンを掛けたまま停車していて自動的にエンジンが停止したのだ。素晴らしい機能を「センス」に見立てると、人は無知のままなのに、優れたセンスが支えているのだ。神の真実(真理)の奥深い神の配慮と摂理が私達を守っている。しかしどれ程に私達は悟り得たのであろうか?知らないために感謝もせず、畏れも抱かず、崇めもしない、それなのに私は全てを知っているかの如く居るのである。
  • 「霊的センスと生活」(4)
    「霊的センスと生活」(4) † 慣れの落とし穴。 バスに揺られて昼食会場に案内された。石段を登ると、眼下には太平洋が広がる眺めの良い場所だった。名物の海鮮料理が素晴らしい評判の食堂である。初めに案内人が中に入ろうとしたが、引き戸が50センチ位しかスライドしない、驚いて一人づつお入り下さいと、戸惑いながらの案内。私は力任せにギシギシと全開の90センチまで押し広げた。全員が席に着いてみると、なるほど盛りだくさんの海鮮料理が列べられていた。もう一つ驚いた、エアコンが全然効いていない。コロナのために南側の窓が開けてある。ならば扇風機ぐらいはあって欲しいのだが無い。しかもメインはシャブシャブで、これまた熱いわけである。多分、毎日訪れるお客さんは、この状態で食事をしていると言う事だ。提供する料理に力が注がれている。それはとても良いことだ。ただ、それ以外のことに、おもてなしの気配が感じられない。玄関の動かない引き戸や、食事会場の環境について、いつのまにか、気にもならない当たり前になり、慣れてしまっている。もう少しのセンスを利かせれば、格段にこの店は素晴らしくなると思う。私達も乱雑さになれると、それが当たり前となる。きれい好きのセンスがここでは眠ってしまうのである。  † センスを継続する。 夏休みになると、リズムが変わる。ひごろ我慢していたゲームに、はまりこんでしまい習慣を失うことにもなる。学生は日頃のルーティーンを変えなければならい。・・・・私達の霊的なセンス(霊性)を保ち続けるには、身体の健康を維持することと同じ原則が必要となる。健康には安全な食品による栄養バランスの利いた食事と、充分な睡眠、衛生管理、適切な運動が必要である。霊的センスが維持され、進化してゆくためには、食事に相当する、御言葉(いのちのパン)を良く読む事を通して、自ら黙想し実践する。心の清潔を守り、主イエスと同じように祈る事である。自分の信仰像となる、模範者に追随することで、霊的センスがさらに引き上げられるのである。この霊的健康のルーティーンは、古今東西変わることは無い。最重点は「霊」である。次に心(魂)となる。夏休みや職場の長い休暇にあっても、霊的なルーティ-ンが守られていれば、クリスチャンとしての全てが、祝福に守られる。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2
  • 「霊的センスと生活」(3)
    「霊的センスと生活」(3) † やり遂げるセンス。 聖書の中には、センスの良い人に倣えと(真似る)事を教えている。改めてセンスとは「感じ方、理解の仕方、表現の仕方」である。卓越した人柄(人格)には、洗煉されたセンスが溢れているのである。私のセンスは、自分には適していても、卓越性の無い、魅力に欠けるセンスなのである。センスの無さの第一は、自分のセンスが、いかほどか、わかっていないことである。その事に気付けば、理想の模範者を求める。松下幸之助がトーマス・エジソンを模範しあこがれた。新渡戸稲造はW・S・クラーク博士に感化され、勇躍、著名な人物になった。このように倣う事は、神の御心であり、私達も誰かの、何かの模範となるように求められているのである。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」1テモテ4・12)このようにキリストに生きる人ならば、優れたセンスを現しているのである。私達が神を畏れ、愛の行いを続けていくと「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」ピリ3・17)このように人生を飾りたい。 † 仕事の良さ。 初めは良いが終わりが悪い。要するに「仕上げ」が劣ることである。人は初めは意気込んでいるが、しばらくすると中だるみをし、終わりには意気込みを何も感じない。職場に於ける仕事ぶりはどうだろうか?結婚生活はどうだろうか?教会生活(信仰生活)はどうだろうか?続ける中に、徐々に成長し、仕上がりに向かって順調である事を祈りたい。「仕事ではなく遊びたい。それが人生だ」と言う人もいるのである。しかし、遊ぶためには潤沢な資金なくして遊べない。良い仕事を通して、その代償としてゆとり(遊び)がある。それが大方の生き方であるはずだ。「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」2テサ3・10)その働きには、その人のセンスが現れる。「感じ方、理解、表現の仕方」という内面が現れるのである。仕事を仕上げるとき、気持ちをそらすことなく、最後までを確実に行う事である。その人は霊的なセンスにも、高い同質性を持つのである。
  • 「霊的センスと生活」(2)
    「霊的センスと生活」(2) † どう在るべきなのか? 子供は子供らしく。青年は成年らしく。ということの中に、求められているもの(精神性)がある。社会が要請する「らしさ」人間の歴史から求められる「らしさ」や、家に伝わる格式に求められる「らしさ」があったりする。そういった中で、私達は神との出合いを体験した。聖書の神は、私の造り主であると信じて、神の無い私の存在はあり得ないことがわかった。神の「真理」を知らない私が、自分に依存するなら、絶望を生きることで、まさに「死に至る病」の中を生きる人間でしかなかったのである。神との出合いを通して、神との関係が生命となり「霊的センス」が生まれ、喜ばしく成長するのである。私達クリスチャンは、神の真理(真実)を通して「・・・・この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ヨハネ11・4)と、このキリストの信仰から、自らの人生に必要な霊的センスを見て学び、味わうのである。御子イエスの信仰の中に流れる、慈しみと愛こそは、言葉に現せない、霊的なセンスの根源であると、私は思っている。  †独りよがり。 これは「独善」でもある。「自分が良いと考えていることを、他人のことを考慮せずに、押し通そうとすること」これはまさにセンスに欠けたる所業である。人にはありがちなことで、良く目にしたり、耳にしたりしていることである。世の中は人の事より、自分の事を優先する事が得する事につながる。人は、自己意識に捕らわれると、一面的な独りよがりになるのである。自分が好ましいと思っていることに、全てを集約させる事は可能である。しかし、そのために重要な80%を棄て去る様な企ては、ひんしゅくを買うことだ。さて、教会は、人の集まり(交わり)であるが、つねに二つのものが鬩(セメ)ぎ合っている。真理に引き出される事を求め、霊的刷新に歩み出したい人と、自己の世界を堅持し、自己の刷新に関心がない人である。それぞれに霊のセンスがある。御言葉が開く新しい真理に、反応する霊的センサーで、驚きと喜びを持って真理に従う。一方は、自己の現実を肯定する霊的センサーで、自分の信仰理解以外の事には拒否的になる。神の思いよりも、自分の思いが重要だからである。
  • 「霊的センスと生活」(1)
    「霊的センスと生活」(1) † 吸収力。 私達はクリスチャンとして生きてゆく上で、求められる大事なものはセンスである。特に霊的なセンスのことである。センス(sense)とは「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの」と言われる。個人差はあるにしても「センスを磨く」とも言われるように、霊的なセンスも磨くことが出来て、成長させることが出来るものである。昆虫の触角のように、私達も霊的なセンサー(関心と敏感さ)を伸ばしておれば、多くを吸収できるのである。まず、聖書を開いて、アダムとエバから、これを惑わす悪魔から、悟ったことを心に留めつづける。悟りが留まっていれば霊的センスとなる。カインとアベルの行為から、感覚的に学んだ(悟った)事を、忘れないならば、礼拝に対するセンスを持つことになる。このように次々と聖書を通して、自らのセンスとして吸収出来る事は事実である。聞くという礼拝においても、神なる主が語り、望んでおられることを、自ら感じられたなら、感性の豊かさが魂に植えられているのである。センスの豊かさは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)という、恵みの豊かさを心に留めている事とも饗応している事も事実である。 † 神なる主への関心。 あなたは何に一番の関心がありますか? クリスチャンならば必ず、主イエス様です。とか、主なる神様です。とか、聖書です。とか、キリスト教です。とか答えるのではないだろうか?人のことは神のみぞ知られる。世の常識は、その人の責任における自由という事だ。最上級の人生を考えたことがあるだろうか?私は、主イエスの復活を体験し、主のために死を厭わず、生涯を捧げたキリストの弟子達が最上級の人生を生きた人々だと信じる。主観的にも、客観的にも、この人々が実在したことによって、世界に人生の真実が明らかにされたのである。私は足元にも及ばないクリスチャンだが、最高のセンスは、十二使徒を初めとするキリストの弟子達の持ったセンスが最上級であると確信する。主イエスと父なる神への関心が、私達の人生に最重要ではないのか? その関心の強く、強烈ならばその人に与えられる霊的センスは、最も豊かになるのは必然である
  • 「不遇と優遇」(7)
    「不遇と優遇」(7) † 成長の目的。 先日、大勢の壮年との交わりの中で「最終的には、どのようにして信仰が成長するかです」と、最長老が締めくくって提言した。私はその答を求められたわけである。それで、正直に申し上げた「私の事を振り返れば竹の節を次々と超えて来たと言うような、明確な成長の行程を宣べることは出来ません」 と。「しかし明確に別っている事があります。それは、御言葉に応答し、悔い改めた人は成長します。どんなに信仰歴があり、教会で重んじられている人でも、悔い改めをしない人は成長しません。そのまま横ばいを続けているだけです」と、長老は深くうなづかれた。信仰の成長の目的は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペ4・15)そのためには、キリストにふさわしくない自らの全てを数え上げ、それを一つ一つ悔い改めてゆく事が、キリストの御姿になってゆく成長である。それを迂回して避ける人は、キリストの御目の外にあると思えば良い。胸を打ちたたいて、嘆きながら悔い改めに取り組む人は、キリストご自身が、ご自分に引き寄せられるのである。   † 優遇を確実にする。 今、生きている者が、神の創造世界のすばらしさを、十分に楽しみ味わいながら、なお、キリストの御顔を拝する御国に、旅立つことが望みである。と、言う人がいるなら、最も優遇されている人生を生きている人である。最も幸いな人生は、世を去る真実を含まなければ本物ではない。だから聖書は最高の願いを語る「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」ピリピ1・20)死を持って終わる自分自身を、そのまま、全ての終わりのように見たり、感じたりして、生きているだけの人(クリスチャン)は多い。一つは、時代の世俗的「地上天国」が謳歌(オウカ)」されているからだ。人生を、地上生活の豊かさに限定し、成功や楽しみの実現を求めている「イエスよ神ならば私達を富ませよ」と、神の必要に聞く信仰から、人の必要に答える神(偶像)とし求めている。だからこそ、私達は世俗の栄華を圧倒し「ちりあくた」ピリ3・8)とする神の栄光の福音に、自らを浸透させるのである。「神に近づきなさい」ヤコブ4・8)とは、真理の中に入る(歩む)ことである。太陽のように主イエスを見る事を、最大の優遇として望んでいる。
  • 「不遇と優遇」(6)
    「不遇と優遇」(6) † 真の後悔について。 「天路歴程」バニヤン著にある話だが、ある男が自分の道だと公言する天国への道を歩いていた。しかし、七つの悪霊が九つのひもで彼を縛り、彼を引き戻して地獄の裏門から彼を投げ入れた。その男は信仰を公言しており、良き信仰者と思われた。しかし、悪霊どもは隠れた偽善と背信を見遁さず、彼を捕らえたのである。こんなことが最後の「終わりの大いなる日」2ペテロ2・20)に、私が吟味され、暴露されてはならない。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。・・」2コリ13・5)信仰に立つとはどう言うことかを真剣に考えよう。私達が正しくあるべきは、自分を裁くときである。なぜならば、自分には寛大な裁きを下すからである。厳しく、真理の岩の上に家を建てているか確認しょう。曖昧な土台(砂の上)では、その倒れ方は壊滅的で最大の不遇を招くことだからである。救われた者の生涯とその生活は、神の御力と愛に支えられる勝利の歩みである。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」1ヨハネ5・4   † 優遇される道に立つ。 果たして、優遇される事が決まっているような生き方が本当にあるのだろうか?私達に即しての話である。信仰を得るまでの19年と、その後の60年を通して証明出来るのは、神の優遇である。聖書は人間の創造者である神が、全ての人の人生を握っている事を示している。神の優遇する人も聖書は公言する。アブラハムやその子孫であり、歴史の変わる度に、優遇に選ばれる者がいる。また、神の恵みと優遇が約束されているのは、神を恐れキリストの血による救いを信じるアベルの系列である。この世の世俗的な勢力の中に生きるカインの系列も現実である。 まず言える事は、私達はアベルの系列の中にいる事である。私達を優遇するために、神は私達に試練を与えて鍛え、優遇を受けるにふさわしい信仰を持たせようとされる。全き神への依存が出来るようになるためである。これが主なる神に優遇される道に立つことになる。主なる神は御子イエスと共に、私達に愛と聖霊を注いで平和の中に生かし、恵みと憐れみを惜しまれないのである。神に優遇される道に置かれていることを互いに喜ぼう。
  • 「不遇と優遇」(5)
    「不遇と優遇」(5) † 土の器に徹する。 世界に最大の影響力を及ぼした人物が、自らを「土の器」だというのである。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)古代においては高貴な宝飾物は土の器の上に載せられた。質素そのものと高価そのもののコントラストが強調された。極端に優遇されるもの、その反対におかれるのが土の器である。土の器は載せている宝をより際立たせる役目を担うわけである。同じ人間でも差別がある。王もおれば奴隷もいる。地上の王は支配するのに権力を用いる。使徒パウロは「測り知れない力が神のもの」であり、土の器である私達の中に「入れられている」と驚嘆している。なぜなら、世界を造り変える神の力であるからだ。私達は罪深さにおいて、聖なる神の御手で打ち砕かれ、火の中に放り込まれる価値なき「土の器」である。しかし、神の憐れみで、神の御子が十字架に私の身代わりに死なれた。今や私達(土の器)の中に御子イエスが住まわれ、いける水となって私達から流れ出ている。また、測り知れない力が「土の器」である私達から神の権威として、神の慈しみと憐れみとして現れるのである。   † 何を信じているか? 人は信じている事、確信していることによって生きている。私達クリスチャンは世俗世界の影響下で生きているのであって、信仰を酷(ヒド)く打ち叩かれる事もある。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」 1コリ10・12)要するに私達は、生ける神を信じ、約束を確信し、願っている事を生きる。倒れないためには、絶えずそのエネルギーを必要とする。善を継続し具体的に習慣化したことが本物になる。受身的な信仰で行為がないと、エネルギーを生みだす事が難しく不遇を来す。なぜなら信仰を前進させるための習慣(行為)が無いからである。救われる為には何の努力も求められない。しかし世俗的な力、肉の欲望、悪霊の誘惑には「神を信じ」確信にもとずく、絶えざる行為が「倒れない」事に繋がる。信仰が形骸化する原因の一つは、積極的で肯定的な信仰の宣言を失い、愛の業(行い)を忘れ、想像的な信仰で生活しているからではないか?
  • 「不遇と優遇」(4)
    † 自分を識る事。 夏の日差しの中を、虫が飛んでいる。夜には蛍が飛び、カブトムシさえも外灯に見られる。のどかな平和が感じられる。所が、ある人が見ていて気がついた。夜たき火をしていたら、火の中に虫が飛び込んでいた。「飛んで火に入る夏の虫」である。この虫たちは本能的な回避能力がなく、身を滅ぼす火の明かりの中に飛び込んでしまうのである。これは「自らを知らない」悲劇である。バビロンの王ベルシャツァルは、自分の大いなる権勢を誇り、傲慢にも主の神殿の器で、貴人から側女まで酒盛りを行った。すると、その場の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・バルシン」と文字が書かれた。王と、その場は恐怖に襲われた。ダニエルがその言葉を解き明かして言った。メネとは、あなたの治世を数えて終わらせられたこと。テケルとは、あなたが、はかりで量られて「目方の足りないことが解った」と言うことです。王としての器量が足りない。これがバビロン滅亡の原因である。私達も、自分が今の順境と優遇を作っていると思いやすい。しかし、主なる神のはかりに量られると「目方が足りない」とされる。これが最も不遇をもたらすのである。本当の自分を識っていない事にある。高慢を退けて、謙遜を身に纏う学びをしよう。 † 地上は神の御国。 賛美歌90番「ここも神の御国なれば」 (This is my Father’s world)は愛唱歌の一つである。神は「世を愛された」ヨハネ3・16)この私達の世界を慈しみ愛しておられるのである。神の子である私達は、この世界に生きることを「神の御国」とし、全てに神の御業を見て、感謝し賛美するのである。今、学び教えられている所では、悪魔がこの世を用いて、人々の欲望に訴え、人々を神から引き離している。けれども、次のように、歌うのである。「よこしま暫(シバ)しは 時を得とも 主の御旨のややに成りて あめつち遂には 一つとならん」私達は世界に起こる不遇の悲惨さを見ている。しかし、私達は、御子イエスを信じる勝利者として、神なる主を誉め称える。それは感謝と賛美の力である。私達が主にあって「ここも神の御国」である。という喜びと賛美を大きく現してゆくならば、その甘味な香りは人々を引きよせる、世のオアシスとなる。これは、主にある者しか出来ない使命であり、日々の務めである。
  • 「不遇と優遇」(3)
    † 終わりが善いこと。 地上の生活には、初めと中間と終わりがあると見極める。初めとは生まれである。どこで誰から産まれたかが、大きな出発点ともなる。出生と共に将来が決定している人が大勢いる。このように既成の環境に左右されるのが人間であり、不遇の中に置かれる多くの人もいる。このように世の中に全ての人が歩み出すが、世の中は曲がりくねり、人々は翻弄(ホンロウ)される。戦争があったり、天災に見舞われたり、急激な経済社会の動向に行き場を失ってしまうのである。今日のコロナ感染による経済的打撃は測り知れず、不遇に巻き込まれた人々は測り知れない。これが人生の中間である。「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい」伝道2/22-23)王に生まれても奴隷に生まれても、同じ結末「死」に行く着くことをソロモンは「これもまた虚しい」2・15)しかし、これが人間の全てではない事をソロモンは語りたいのだ。この世の優遇と不遇を一掃する、救い主イエスが地上の栄華の全てに優る、生きる喜びを与えられる。メシヤ・イエスを信じる者には「笑いが絶えず愛が溢れる」救いの優遇を受けるのだ。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」伝12・1 † その日まで。 その日まで善かったと書かれている「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」マタ24・38)我が世の春、と言うほどに人々は、神の警告など意に留めないで楽しみ喜び、幸せの追求をしていた。神の警告など、人間には不遇であり、あってはならないものと言うのが人々の理解であった。しかし、人間の都合が優先する事はないことを覚えたい。私達には神の業「主イエスの十字架」があるように、ノアの時代の人々には、徴(シルシ)があった巨大な箱船である。洪水など起こらないという常識は「その日まで」までであった。箱船の戸は開いていたのに、人々は誰も入ろうとはしなかったのである。人は快楽と欲望の中にいる時は、神の言葉は、自分に不遇をもたらすと感じる。しかし「その日」は必ず来る。審き(洪水)が来る、その日である。
  • 「不遇と優遇」(2)
    † 世界の不遇を思う。 世界のトップニュースがNHKのBSで流れる。総じて言える事は、生きている人間の悲惨さである。「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人」ルタ13・4)の記事があるが、その拡大版が現代である。火山噴火、地震と津波、洪水と干ばつと火災。この世界的現象で、不遇に見舞われる人々は数え切れない。平和な日常の集いに向けられる無差別の銃撃。人の自由を脅威として同族民を弾圧する様々な国々。そこには、億単位の人々が、不遇を強いられている。対岸の火事のように眺めているなら私達も問題である。イエスは言われた「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」ルカ13・5)神なる主の観点は「悔い改めていること」で、不遇を一蹴する「永遠の生命」を持つ事である。神なる主は、この不遇の世界を見つめて言われる「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている」1ヨハ5・9)悪しき者(サタン)が関与する世界は、悪しきことも通常となる。不遇の中で優遇される人生は「・・・・人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4・7) † 愛せる者が勝つ。 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」1ヨハ5・5)信仰があっても世に勝てないと思うなら、主イエスに救われた自己に関心を持て。全世界を手に入れるよりも優る、朽ちない命を、神なる主は、あなたに与えられている。(マタイ16・26)それほどに神に愛されているのに、神への愛が乏しいと、神の賜物である信仰が泣いている。また、神の子供とされたことを、自分自身で認めて喜べないならば、主イエスは嘆かれる「私が彼に特権を与えたのに、喜こんで生きていない」と。人が自分自身を神の愛の中で受け入れることも、自分を愛する事もしていない。これでは、神の子供として、世に向かって勝利宣言はしづらい。サタンの要塞(ヨウサイ)は、個々の人の内にある。主イエスは真理の自由をあなたに与えたのだから、人(あなた)が神の愛で自己を赦し、自分が自己の全てを受け入れるのだ。それでサタンの要塞は砕かれる。解放と真の自由が生まれる。自分が自己を愛し受け入れると、世に勝つことと優遇された世界を持てる事になる。
  • 「不遇と優遇」(1)
    † 人間の目には不可解。 「私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」伝道10・7)この情景は知者であるソロモンにも奇異に思えた。この世に起こる悪の一種だと言う。この世の君(サタン)の支配の中では、このような不遇は、当たり前の世界なのだと考えた方が良い。オートマチックに人格者が優遇される世界ではないのである。 「この世に引き出されたいならば、目立つことをしなければならない。現場では、目立つ服装をして監督の目に留まるようにし、人一倍働くことである。そうすれば監督の印象に残り、新しい仕事を任せられるようになる」というアメリカ版の話を思い出す。現実の世界は、愚か者が非常に高い位に就いていたりする。裕福なナバル(1サムエル25章)は高慢な愚か者であった。流浪の王ダビデと部下は、ナバルの下僕たちの難儀を誠実を尽くして助けた。ダビデ王は謙遜を示し部下をナバルの許に表敬訪問をさせたが、ナバルは酷(ヒド)い侮辱を加えて追い返した。神と伴なるダビデ王が、ナバルの一族の聖絶に歩を進めたとき、聡明なナバルの妻が身を挺(テイ)してひれ伏し、赦しを求め釈明をした。ダビデ王゙は血を流す不遇の状況から、この上ない神に優遇される状況に変えられたのであった。まさに、不遇に終わらせない神の摂理(干渉)があることを教えるのである。 † 不遇のまま終わらない。 「マイナスはプラスになる」また「悪いことは良いこと」これらは私達の常套句である。この世界は一面識な世界ではなく、多面識な世界であることを、私達は体験的に知っている。不遇(試練)は何を生みだすか?信頼である。 それは忍耐である。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」 ヤコブ1・4)忍耐は、私達の神への信頼(信仰)によって全うされ、欠けのない成長と、人として全き者になる。これは現実的な不遇(試練)の目的だと聖書は語っている。今、不遇の真中にあると思える人は、主なる神が共に働いておられる。あなたの信仰(神信頼)が確かなので、地上の価値では測れない、天上にある主イエスの宝(価値)を手に入れるのである。そして、地上で真の勝利者となる。勝ち得て余り有る者となる。ハレルヤ!
  • 「変換される歩み」(7)
    † 終末への変換。 この5月の山野は、新葉が日に日に盛り上がるようにして私達の目に迫ってくる。公園に一週間ごとに訪れるが、この季節は生命の旺盛な変化に驚くばかりである。木々はこれを何百年も繰り返し大樹となる。生命の輪廻の姿であり神の御心とされるところだ。子供の頃の思い出にあるのは、すぐ裏山に楢(ナラ)や樫(カシ)の生い茂る原生林があり、巨木が立ち並んでいた。かくれんぼにも良く、国定忠次気取りで、チャンパラをしたものである。しかし、人間は良き管理者ではない。森林を伐採し、花粉を撒き散らす針葉樹に変えてしまった。大地はどうか世界的な大規模農業と化学肥料によって深堀りされた大地は痩せ細り、実を結ぶ力を失い続けている。旺盛な力を持つ大地も不毛に変えられつつある。美しい空気も経済のための工業化優先でCO2(二酸化炭素)は、地球規模の気候変動を生みだしてしまった。ウイルスの脅威も原生林を開発することによって起り、人間の欲望から引き起こされるものである。管理の出来ない人間は、この先も同じ事を繰り返すのだ。終末への変換は、ずっと以前から進んでいる。 † 喜びへの変換。 真理は驚きである。発見が驚きであるように、真理は驚きを伴う。驚きを伴わないものは、本当の財産にはならない。知識にとどまるものである。聖書を持つ人々、聖書の解き明かしを聞く人々は幸いである。なぜならば、真理に出会い驚き、驚愕するからである。その真理こそ永続する喜びに変換されるのだ。真理とは神ご自身であり、秘義なるお方である。このお方について、絶えざる関心を持ち、自己の全てのセンサーを動員して、神ご自身に、そのお言葉(聖書)に正面から向かうのである。日々に新しい発見をするはずである。そして驚きを得るためには自己自身が静まっていなければならない。潔く謙虚であるということである。それとは反対に、自己意識が旺盛で、自分の才能や能力に重心があると、真理は単なる知識であり、道具である。真摯な喜びには変換されないと思う。真理は喜びに変わり、真理は真の自由に変わる。愛される神の子供として、アバ、父よ。と、神のふところに飛び込める人となれ。その父のふところには、慈しみ深い驚きと感動のみがあるから。
  • 「変換される歩み」(6)
    † 昇華か卑賤か? 人間は、常に今より上を目指して生きる事、頑張ることを当然としている。世の中は進歩しているのだから、見合った成長と進歩を求められているからである。昇華(ショウカ)という言葉は余り使われないが、霊的分野、心理学では重要な意味を持っている。物事が一段上の状態に高められることで「霊的に引き上げられる」に相当する。 情熱や執念、熱心さが飛躍的に信仰、学問、芸術を昇華させる、と言う事である。私達クリスチャンは、神との関係が深まる、即ち神の愛に満ちて生きる事によって、世界が変わってくる。主イエスの見ておられた世界に近づけるのである。社会の中で、人が上を目指して頑張り、生きいくのとは違った見方になる。聖書やイエスについて学んで解ったことと共に、神の愛の偉大さに昇華されると、主イエスを「私の主。私の神。」ヨハネ20・28)と、新にされるのである。 卑賤(ヒセン)とは、身分や地位が低いことで、私達の主イエスは卑賤の下僕と言われる。私達は人間として霊的に成長するならば、主なる神の愛に昇華され霊的視野が開かれることで、その人は卑賤のイエスに等しくなるのである。神の人は、自分の立派さなどどこにもないと言うだろう。神の御心に生きる人の卑賤の特長なのである。 † 見せない私。 「私は私である」当然のことながら「我が輩は猫」ではない。しかし、私は見せている自分と、見せていない自分がいるのではないか?見られている自分が、見せていない自分であるならば本望といわなければならない。どの様な場面でも表裏(ヒヨウリ)一体である事が理想である。自己評価の高い、低いとかに関係なく「正直な人」として、ありのままである事に優位性を感じるのである。「見せる」ということは、別の何かの自分を、見せたくないのである。人間は常套的に見せていない自分を変換して「良く」見せているのである。これは霊的には成人になれない姿である。確かにクリスチャンの道徳的・倫理的品性は聖書に準じ、主なる神の聖さに準じている。それを保持しているように見せることはパリサイ的な律法主義である。真実に神の恵みに浴したい人は、ありのままの自分を現さなければ、主は通り過ぎて行かれる。問題のある自分を立派に変換し「ふり」をして生きる事は、とてつもない無駄な遠回りをしてしまう事だ。自分の全てを主に見せる事が真の変換である。
  • 「変換される歩み」(5)
    † 変換する力。 人間を変えるというレベルで感嘆するのものが聖書にはある。語るに語り尽くせないわけだが、これだと思う事は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)信仰という領域は、過去も現在も未来も、実際の「永遠」にあるということだ。私は過去の私ではなく、現在の私でもなく、将来の私ではなく、全てを合わせ持つ私であることを聖書は言っている。こんなことは初めて書くことだが、私が変換されている真実の世界なのである。信仰により、イエス・キリストにおいて、ともに私は天のところ座っている。私達の生活の基準はどこにあるか?と問われるならば、いかに答えるか?「キリストによって国籍である天国であり、天にある栄光のもろもろの衝動です」と言ったらどうだろう。そう考えると、私達は天の栄光と御力を、信仰によって現実の今に呼び求め、エリヤのように天と繋がる事は不思議ではなくなる。信仰においては葬られており。信仰においては主イエスと共に天の座に着いている。その霊的現実に生きられる事が最大の変換なのである。天の歓喜を地にもたらすことにもなる。 † デジタルパソコン牧師。 今から33年前(1988年)ある牧師さんが、私に自分の事を「私はデジタルパソコン牧師で、神の言葉のみです」と紹介したのであった。この先生から多くのパソコン応用について学んだ。今時は、ほとんどの牧師がデジタルパソコン牧師である。恐ろしい程の進化を遂げているのがデジタルの世界で、パソコンの性能は著しい。40年以上もパソコンに係わっているとよく解る。このように道具が善くなったら、よいものが創出されるはずである。アナログよりはデジタルというわけだ。しかし、人間の頭は機械化されてはまずい事になる。人間は関係によって生きるアナログ(物理量)的である。人間関係の現実は、心を伴った愛であり、誠実さである。世の中がAI(人工知能)やデジタル化が躍進しても、人間そのものは変換されない神の作品(エペ2・10)である。人間はデジタル化に大きく影響され、人間性を疎外される時代になるだろう。しかし、人間は「愛」を必要とするアナログである。教会の使命は、人の生きるのは「いのちのパン」神の愛であることを、世に高らかに示すことである。