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- 「信のまこと」(6)「信のまこと」(6) † 聖書に書いてある。 主イエスの生涯の根拠は聖書に「書いてある」という一事に置かれている。信仰を突き詰めれば、同じように「聖書に書いてある」と言うことが、生命の道なのである。「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある」マタイ4・10)悪魔の巧妙な誘惑に対する、決定的な対処であった。主イエスは、神の子として、神の言葉と一体であられた。それほどまでに、御言葉を根拠とするのが「信(まこと)」なのである。主イエスにお出来になったことが、私達の出来る根拠となる。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」ヨハネ14・12)主イエスの言葉が「書いてある」ごとく、私達にも信じて行う根拠となっている。これは主なる神の、驚くべき憐れみの豊かさである。罪人の私達に、どうして神の業ができるだろう? あり得ないことである。だが神は御子イエスの完全な贖いのゆえに、私達を聖い神の子として受け容れ、御言葉の約束の特権を、行わせて下さるのである。神を畏れかしこむ者には、聖書に書いてある事は「信」であり、すべての根拠なのである。 † 状況倫理と真理。 聖書は、神の霊が書かせた書物である。しかも1500年間にわたり、40人の著者によってである。しかしながら、主旨が一貫している、一筋の流れのように、神の霊が導いているからである。明らかに様々な歴史の中で、聖書は綴られた。ギリシャの神々と文明、ロマ帝国下にある教会の赤裸々な問題について、書簡(聖書)が、状況打開の教えを宣べている。世界に産声を上げたキリスト教会は、腐敗した多神教の道徳と一線を期して、純潔の愛の業を明らかにしていったのである。異教の習慣を持って、教会に入り込んできた女性達(コリントやエペソの教会)には、その時代の状況に合わせた、特別な対処(倫理)が宣べられている。現代に見合わないが、時代に見合う倫理を必要としたのである。聖書の矛盾と捉える必要はない。聖書は、唯一の世界基準である。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」 2テモテ3・16)
- 「信のまこと」(5)「信のまこと」(5) † 御国の心地で生きる。 信仰生活の「信(まこと)」とは聖歌467番「悲しみ尽きざるうき世にありても、日々主と歩まば御国の心地(ココチ)す」の歌詞の通りである。私達の唯一無二の特権が、希望に満ちて賛美となる。確かに私達は福音を聞いているが、先代の持っていた信仰の内容と確信が見られなくなって来たように感じている。自らも含めて信仰を掴み直したいのである。まず、私達は主イエスと共に歩む旅人である。今、主イエスの同行者として、私達は、この罪の浮世を、外国として巡礼の旅をしている。私達は、罪人の住み家「この世」に、縛り付けられていたが、主が滅び去る世と罪から、私達を引き離して、救い出された。信仰の「信(まこと)」は、この世に望みを置いて定住を願い「御国」への旅を避けてはならない。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)主イエスは、私達と同行して下さり、エマオの途上(ルカ24・27)でのように、道々にお語りくださる。私達の心は内に燃えて、地上の何にも優る.平安に満たされるのである。聖歌467番の折り返し「ハレルヤ!罪咎(ツミトガ)けされし我が身は何処(イヅク)にありても御国の心地す」と、これを信仰の「信」として歩みたい。 † 言葉と行い。 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」1ヨハネ3・18)この使徒の勧めは、父なる神の家族としての在り方を示す。ここには、衣食に事欠く貧しい人々がいる。住む家のない人々がいる。遠くから来ている旅人もいる。一方、豊かな環境に恵まれている私達が置かれている。困窮は個人の責任と思うなら、私達は「失われた者」になる。私達が主イエスを愛するなら、今は、乏しくある兄姉に具体的に、愛を施すことで、キリストに、ふさわしい特権を得るのである。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25・40)主に在る友に施す特権として、主に喜ばれたい。私達の教会は「オファリング」と「バルナバ活動」を通して、神の憐れみを現す仕組みがある。それ以上に、私達が主に在る兄姉を、愛し顧みる特権を忘れず、生きる存在でありたい。
- 「信のまこと」(4)「信のまこと」(4) † 理性と霊の啓示。 理性は本来、人間に備わっており、道理によって物事を判断する、知的能力である。私達はよく「神の御心」という言葉を使うことがある。その意味の中に「客観的」という内容が含まれている。使徒達も、神の御心に従おうとした。使徒16章では、アジアに赴くことを、御心と信じていたが、聖霊によって禁じられた(7節)そして、パウロは夢で、霊の啓示を受け、ヨーロッパ(マケドニア)に赴き、宣教を開始した。「信」には、理性的であること、即ち、道理に基づく判断が求められる。しかし、それだけではなく、神の啓示(霊の導き)を求めなくてはならない。当然ながら、物事は私達が主導しているのではなく、主なる神であるからだ。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)このように、私達は、神の御霊から啓示を受け、導かれる存在なのだ。創世記の後半はヤコブの生涯が書かれている。ヤコブの長い人生を導かれ、啓示を与えられた、神の慈しみが明らかになる。目がかすんで見えないヤコブが、死の前に、ヨセフの息子マナセとエフライムを祝福する。右手を弟のエフライムに左手をマナセに、手を交叉したのである。ヨセフは「父上、そうではありません」と、手を換えようとした。ヤコブは「わが子よ私にはわかっている」と言い、祝福を受ける順位を神の霊によって、預言したのであった。 † 手にするまで。 「信」にたどり着く、という意味では、仕事上での改善、改革やシステムの見直しなどがある。「信」を見据え、手にするには様々なハードルを越える必要がある。古い環境を、新しい環境にする機会があった。WIN10をWIN11に移行するのに、今までにない幾つかのハードルがあった。今までのWindowバージョンアップへの移行は知識を必要とはしなかった。しかし、この度は、知らないことを知ることに始まり、幾つかをクリヤーして、遂に「信(あるべき形)」にたどり着けた。私に出来る事は、誰にも出来るわけで不思議ではない。WIN11は高速になっているし、マックのような画面構成となり大きく変わっている。今回の挑戦は、忍耐というか、あきらめないことが、ハードルを越える鍵になった。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」 ヘブ10・36)霊的「信」は、日常の具体的な労苦からも学べると知った。
- 「信のまこと」(3)「信のまこと」(3) † 偽りがない。 「信」とは、偽りがない。信義。という意味を持ち、信仰という内容でもあり、すごく重みがある。人が「信」とするものは、揺るぎないその人の真実となる。それをわかりやすく言う言葉が「イワシの頭も信心から」普段から見れば、イワシの頭は、つまらないものだが、信じる者には、尊くありがたいものとなる。人の信仰を皮肉って言っている言葉でもある。ここでは、人の信じるものが「信」となる事を言い表している。重要なことは、人の「信」とは別に「信」がある事だ。天地創造の神ご自身は、人によらない「信」であり、真実である。私達もキリストを「信(偽りがない)」と信仰しているが、私の信心で神とされたのではない。宇宙の創始者であり、人間を創造された神は、ご意志をお持ちであり、行動されたことで、まことの信義を現された。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」1テモ1・15)神が、罪人である私達のために来られた。これこそが、そのまま受け容れて良い、まことの「信」である。日本人は、対象よりも、人の信心が「信(偽りがない)」となる。この日本人の、信心の構造を解きほぐす力が、福音宣教に必要である。 † 自らが実験台。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)今も、そうなのだが、本当に実感的に神の中に生きているのか?と自らに問うのである。ある意味で実感がなくても「御言葉の言うとおり」なのである。あるいは「主と共にいる」という内容はどうであろう?これについても「インマヌエル(神は私達と共におられる)」マタイ1・23)とある通り、神が共にいて下さるのだ。多くの著名な神の人も、主が遠くにおられるように感じる時があると、告白している。また、主の臨在が濃厚なときには「・・・・手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」 1サム10・7)という、主との特別な蜜月がある。主の近くに住む者は幸いである。いろいろな時が恵みなのだ。渇いているならば、潤す聖霊が訪れる。私達は、神の中に存在し、幸いな実験台とされている。その事によって、永遠の御国の前味を喜び。主の再臨を楽しみ、待ち望むのだ。
- 「信のまこと」(2)「信のまこと」(2) † 主イエスの関心事。 「・・・・イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか」マタイ16・13)主イエスは自分の活動の評判を気にして弟子に尋ねられたのか? 否である。主イエスの言葉と御業を通して、人々が主イエスを「○○だ」と言っている事に関心を持たれてた。神の御業と御言葉をとおして、ペテロのみが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と言った。主イエスの関心は、天の父なる神の霊が、ペテロに、イエスはメシヤであると言わせた事にある。「・・・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」1コリ12・3)一人の魂の救いは、神の御霊のお働きである。アメリカの大覚醒時代は、J・エドワーズ(1703~58年)の牧会から始まる。2ヶ月の間に突然に、次々と300人程の人が回心した。そして、ニューイングランドほぼ全域が霊的革新に巻き込まれた。野外の集会には2万人もの人が集まり、居酒屋ではなく教会に人々が集った。神の霊(聖霊)の顕著なお働きだったのである。ど れ程に低迷している霊的時代にも、聖霊のお働きはある。失われている魂に聖霊が臨むことを祈る事は、私達の責務である。 † 主に栄光があるように。 私達人間は評価を期待しているのではないか? 確かに聖書に「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします」使徒6・3)しかし、選ばれた人々は評判を得るために活動していたのではない。そのような魂胆ある者は、選ばれないのだ。主のために一心に仕えたので、評価されたのである。神の下僕は、主イエスの栄光のために求めて生きる。そこに純粋な心の働く、健全な信仰が見られる。ある牧師が日曜学校の若い先生に言った。「十字架と自分について、考えて作文を書きなさい。主の十字架がわかるまで続けよう」と、十字架の血潮の御力を知らない人に、教える力が無い。と言うのがその牧師の見解なのだ。主イエスとの関係で、生まれるものは、喜びと感謝である。そして、「主に栄光があるように」と叫ぶ。ヨタムのように「彼はすべて、主の目にかなうことを行なった」2歴27・2)と、見られたい。
- 「信のまこと」(1)「信のまこと」(1) † 信の探究。 信とは「信仰」のこと。キリスト信仰のことである。私の生涯は、主イエスの招きに捕らえられた19才から、60年を経てなお、信仰を追い求めている。人間が神を信じるとは、天井知らずの高さを思い知らされるし、底なしの深さを思い知らされる。信仰の真実を求めれば、求めるほど高く深くなる。それは何を意味するか、神と人間の質的な差を知る事であり、神の威光の高貴さを識る事である。人は宇宙を深遠な謎だという。聖書の神は、それ以上に偉大で深淵なお方である。宇宙は神の中にある物と私は思う。神の聖にして義と愛の神格(人格)があるを示され、知るだけでも圧倒される。私達は聖書をひもといて、神を語る事がゆるされるが、同時に言い表せ得ない神が居られるのである。識ったと思うと、さらに奥深くに神が居られるのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリント8・2)私達の信仰の確信は、主イエスとの出会いに与えられる。そして、揺るぎない強固な信仰に成長する。そして、神の全般の真実に対して、私達の信頼のまことを求められるのである。 † 主の心を。 「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。・・・・」ピリピ1・27)私達の生活の在り方を示す御言葉である。また「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」ピリピ2・5)これを文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳す。この方が直接的で、心を心とする、と言うのが日本的に感じる。キリストの心とは、救い主としての心である。また、父なる神を常に仰がれている信仰の心である。私達の信仰のまことは、キリストの心である。色々な人々との出会いや交わりの中で「キリストの心を心とする」それが、最も福音にふさわしい生活となる。主イエスのあらゆる言葉、態度、行為に関心を持っていれば、聖霊はキリストの心を教え、その心を行うように働きかけ、力を与える。それが、まことの聖霊のお働きである。油注ぎは証人となるため(使徒2章)の任職であるように。キリストの心を敬い、その心を生きようとすれば、聖霊はそのために伴われる。
- 「立ちあがる」(7)「立ちあがる」(7) † 屋台から始める。 福音の素晴らしさは、いかような所でも証詞される事である。ヒマラヤの髙地でも、アマゾンの奥地でも福音は、魂を滅びの穴から救い出している。戦後78年を経て、日本は高度な科学技術国となり、生活が豊かになり大きく変わった。そういう中で福音が素晴らしく輝いているか?と言えば、世の輝きと力に、押され気味で精彩を欠き、教会も全体的に精彩が無い。黙示録にラオデキヤの教会について「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」黙3・15)続きには、この世での富と豊かさが、霊的な貧しさと、惨めさを生み出し、盲目にされ、裸にされている事を知らないでいる。と、ある。実は今の時代のことである。教会は生みだされる必要がある。店を持とうと思うならば「屋台から始め」地道に実力を増して ゆけばばよい。教会を立て上げるのも同じである。福音の力が生活に現れている、一人、二人からでも、教会は生まれる。世界のリバイバルが数人の祈りから起こされる。そのような事例は教会史に溢れる。目を実際に向ければ、新しい教会は立ち上がる。 † 結果の恐ろしさ。 自由というすばらしさには、大きな代償が伴っている。人はどの様な生き方をしても良いと保障されている。もちろん反社会的な自由は論外である。その自由の恐ろしさは最終の結果にある。人は一生を掛けて、自分の選んだ好ましい道を歩む。例えば、ある人は資材を投じ、多大な犠牲を伴って、あたかも頂きを目指して登るべき梯子(ハシゴ)を登り続ける。ある人は自分の好ましい趣味に没頭して、楽しみながら梯子を登り続ける。ある人は投資の魅力に夜も日も没頭して喜びながら梯子を登り続ける。やがて梯子は頂上に達する。そこに立ち上がる広場がある。そこに何が待ち構えているのだろう。必死に、これこそが自分の登るべき正しい梯子だと任じていた。しかし登り詰めた所には、何の報いも置かれていない。救いの神はそこには立って居られない。闇が待ち構える、それは地獄でしかない。自由は最大に喜ばしい。真理を探究し、まことの神を訪ね求める自由があるということである。それ以外の自由は恐ろしい結果が待ち構える。
- 「立ちあがる」(6)「立ちあがる」(6) † 限界を持たない。 人の一生には限界がある。茶の間で親しんだ俳優さんや、著名な方々の訃報の知らせには、寂しさを感じる。私達が重要とすべきことは、いま活かされていることだ。主なる神が命を与えて下さっている特権を生きることである。生かされる限り、喜び溢れて精一杯生きる。これが望ましいのは当然である。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)普通に人は、世の中に生きている。だから世の中で、好きなこと、やりたいことを、手がけて生きる事が、喜びに溢れることだと考える。私達クリスチャンは、これを第一義にする事は考えものである。整っていた条件が崩れたとき(健康問題、家族関係、事故など)に、喜びや生きがいを、失うかも知れない。限界のない、喜び溢れる生き方がある。主なる神を「知りたい・見たい」と言う、尽きざる探究(信仰)の毎日であること。生かされる限り、この一つを第一に生きることである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」1ヨハネ1・1)このリアリティが最大の喜びである。信仰を与えられた19才から60年を経ても、なお神を知りたい事において、限界がないばかりか、喜び楽しみは、増し加わってくるのである。 † 新しく立ち上げる。 自分で組み立てたパソコンが10年を越えて現役を続けている。当時は最新の機器であったが、今のWIN-11は動かない。それで、これから15年は望めるインテル11世代の、i9(8コア16スレッド3.50GHz)。メモリ32GB。という新中古品を立ち上げることにした。私の精神年齢は17才なので? 15年くらいは使える。とにかく、前に向かって、真理探究の学びを続けたい。そのためにパソコンは研究のツールである。脳活性化のためにも、キーボードを叩き続けたい。教会のオリジナルな年賀状、暑中見舞いは、何十年と続けられたのもパソコンあってのことである。何よりも牧師の知的向上には、パソコンが最も有効である。30年も前「私はパソコン、デジタル牧師です」と、紹介されて驚いたが、今や総じてその通りなのだ。アナログで本読みをメインにし、神ご自身と福音を知るため、立ち上がる年としたい。
- 「立ちあがる」(5)「立ちあがる」(5) † 立ち位置によって。 私達の心(魂)は不思議な神の作品である。百人いれば百の違った内容の心がある。個性としは当然のことだと思う。私達クリスチャンは信じると言う共通の立場を持っ。その上に、心(魂)が成り立つようにされている。聖書は神を信じる人々の心(魂)が、いかにあるべきかを指し示し、教えている。それで「御言葉に立つ」ということが、私達クリスチャンの大切な立ち位置となる。私達が、御言葉に立つと同時に心は、成長する方向性を持つ。また「・・・主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」2テモテ4・17)とあるように、主イエスは、御言葉に立つ者のために、共に立ち上がって力を与えられる。心(魂)が、神の生ける言葉に立つ事が、クリスチャンの生きる偉大さ「世の光り」となるのである。確かに、世に在って生きる私達は、様々な試練と、困難な問題、身体的な弱さなど、心(魂)は揺り動かされる。だからこそ、生ける御言葉がある。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」 ロマ8・28)御言葉を信じる心(魂)は、揺るがされる事はない。 † 健全な願い。 健全なモチベーションとして、私達が持ち合わせていないものを御言葉によって気づかされる「・・・・神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」2ペテロ3・12)主イエスの再臨を早める行動を促している。この世の終わりを早めることなのである。同節に「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます」とある。主の祈り「御国を来たらせたまえ。みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ」これが私達の心からの願い、望みである。信仰ある者の尽きざるモチベーション(生きる動機・やる気)となる。世界滅亡の終末時計は、2023年「残り90秒」と、最短時間に更新された。神のみがその鍵を握られている。問題は、神のしもべ達が無関心ではないのか?「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」1コリ16・13)この世の喜び楽しみも生活に必要である。ただ、私達は健全なモチベーションで、破局の時代に立ち向かえるのである。
- 「立ちあがる」(4)「立ちあがる」(4) † 理屈抜きに。 私達の持って生まれた特長は、罪を合理化し正当化することである。要するに「言い訳」をして、我(ガ)を通すか、言い逃れるかである。私達が持ち合わせている、身びいきな正当化は、聖書の随所に見いだされる。主なる神のアブラハムへの約束により、イスラエルの民は、カナンの地に向かって進み、遂に目前にした。12部族の代表による偵察が、主なる神の選ばれた「乳と蜜の流れる地」に行われた。所が、二人を除いて10人の代表は、この土地のことを「悪く言いふらして言った」民数13・32)そこに住む人は巨人で自分たちはバッタに過ぎない。我々は剣で倒されてしまうだろう。と、全会衆はその夜、大声で叫び泣明かした。ヨシュアとカレブが「神の御心であること。まことに乳と蜜の流れる地であること」を訴えたが、全会衆は彼らを石打ちで殺そうとした。信仰とは「神の言葉通り」の事実にある。人間の見る目や、感じたことには無い。神は反逆した会衆を、荒野で死に絶えるようにされた。理屈を設けて、神に従わない自らを見せられる思いである。主の言葉「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」ルカ9・24) この厳粛な事実を受け容れ、立ち上がう。 † 幸いな約束。 聖書に、幸いな人を大勢見る。本当に嬉しくなる幸いな人、シメオンを心から尊敬する。シメオンは「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」ルカ2・26)すばらしい驚くべき幸いなお告げである。そして八日目に赤子のイエスが両親によって神殿に現れたのだ。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」ルカ2・30)激動する荒波の世界の中で、神の真実は、救い主を世に生みだされた。神からの幸いと喜びは、すべての人々に与えられている。シメオンのような生涯が、私達にも開かれたのである。キリストの中に立ち上がることである。キリストの信仰の中に、自分の救いを持つ事。十字架の上にキリストと共につけられ死んでていること。それだから、キリストの命が私の生命となり、キリストの復活の中に、安らかに生きられるのである。
- 「立ちあがる」(3)「立ちあがる」(3) † 模範(ヒーロー)を目指す。 私達は気付かないままに、方向づけられている。子供の頃いつも言われた事を思い出す。「あの子は偉い子や」要するに見倣えというわけである。学業が進むと、先人の偉業や人柄について教えられる。常に倣うべき模範が見据えられている。スポーツにしても活躍した名選手を模範としてトレーニングに向かわせられる。特別な人を除いて、ほとんどの人が、誰かしらを模範にして大成を目指しているのではないか? この模範に倣うことは、確かな方向性に、自分を立ち上げることで、重要な習慣となる。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」1コリント11・1)キリスト信仰は、一つに方向づけられている。主イエス・キリストのようになれ、と言う事だ。誰しもキリストのようには成れないが、使徒パウロを模範として、信仰の生き方に立て、と言うわけである。私達は、現代に名だたるキリスト者の一人「ベンジャミン・フランクリン」をヒーローにして倣えば、クリスチャンとしても、実業家としても、政治家としても、著作家としても、一流となるための、倣うべき品性と知恵に満ちている。身近に、その誰かを見たいものだ。 † 満足に留まらず。 聖書の明訓「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」1コリント8・2)人間も年を重ねると、何かをやり遂げたとか、これ以上求めるものはない。と、落ち着き、満足しやすい。しかし、クリスチャン人生は、それとは全く違う「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)本当の満足は、神の創設した確実な希望(神の栄冠を得る)に向かって走り続ける継続にある。人間は、満足すると成長は止まり、小さく固まってしまう。しかし、聖書の神は、桁違いの満足を私達に見させ、立たせる。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」エペソ1・18)偉大な望み、受け継ぐ栄光の富、神の偉大な力を知り、立ちあがり進むのだ。
- 「立ちあがる」(2)「立ちあがる」(2) † 立ち上がり方。 電源を入れてパソコンを立ち上げる。これが、大方の基本だと思う。何十年もそうやって仕事をしてきたので、それ以外を思いつかない。新年の正月(七日)を過ぎたか、ある日の朝「これでは今年は大変だ」と思うような日があった。幸い、大変さを引きづることなく修正され感謝した。人生を、一括(クク)りに考える事も出来るが、実は毎日の積み重ねである。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリ4・16)この「日々新にされて」立ち上がることは、誰であれ喜ばしいことである。朝の目覚めが悪く、気分も晴れやかでなく、見た夢も混乱している。このまま、今日の立ち上がりが重くて、嫌な一日を予感させる。できれば、ここで「新にされる」電源のスイッチを入れれば良い。具体的には、私の内面(内なる人)を呼び覚ますのだ。私は、祈りのノートを広げる。そして、私が誰であるかを書き留めた20項目の「宣言」を声に出す。その一つ「私は神の子供とされた、大きな特権を与えられて、愛と喜びに満ち、聖霊に導かれます」こういう宣言が、具体的な私になってくる。自分を立ち上げるのみならず、主なる神も、身近におられる事を、感じられるようになるのである。 † 近づくこと。 ボクシングを見ていて感じるのは、相手との距離である。打たれないための距離と、攻撃するための距離を瞬間的に替えることである。人間関係にも見られることは、その人と距離を置き続けると、親しくならないし、その人柄もわからないままである。問題は自分の中に、恐れの心や偏見があるからだ。諺に「人には添うて見よ、馬には乗って見よ」がある。人の本質(人柄)を知るには、自ら近づくことである。私達は、この年「神に近づく」ことにある。神との距離を置くものは、全く神を知らない者、祝福を拒む者になる。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4・8)神を知らないで、本当に私達は立ち行くのだろうか?主なる神は、あなたの握っている物など一つも欲しくもない。ただ、この世の物に握られている「あなた」を失いたくないのである。神に近づくことで、信仰が生まれ、神の中に「立ち上がれる」のである。
- 「立ちあがる」(1)「立ちあがる」(1) † この日志に立つ。 元旦を迎えた。聖書は「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2・13)と語る。私達への特権として神は「事を行わせてくださる」のである。物事は神が始められる「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」イザヤ43・19)この日、神の前に静まる時を持て、あなたを通して始められる神の御心が、新しい志として示される。救われた、あなたは神の御心を聞き続けてきたことを思い出せ。あなたの持つべき志が、すでに起こされている。あなたを通して行なうのは神である。あなたは志しに立ち上がる使命を託されている。荒野とは、あなたの志を通して切り開かれる「道」であり、造られる「川」である。私達が志(神の御心)に立ちあがらなければ神は、今年も「事を行う」ことができないのである。私達が立ち上がれば、荒野で滅びる人々が救われる。志に立ち上がる私達によって、元旦から、今年は大躍進の年となる。 † 立ち上がられる神。 偉大な指揮者であっても、演奏者が楽器を奏でなければ音楽を成り立たせることはできない。教会も同じように、主イエスに倣い、従う者によって、福音は神の品位を現し、愛の力強い命を現す。指揮者は楽員に対してタクトをかざして演奏を始める。「今、わたしは立ち上がる。」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう」イザヤ33・10)私達の教会を通して、主なる神が、ご自身を高められ、多くの人々に崇められるように、立ち上がって下さる。聖夜に、神への賛美が全地に響きわたったようになる。私達の麗しい交わりが、十字架の救いを通して生まれていることを、人々が知るようになる。しかし、果たして:、私達は真心から、神の立ち上がられることを望んでいるだろうか?自分の時間を優先する者、神への愛(犠牲)を厭う者、人々の救いに無関心な者、ではないのか?主なる神は、審きの神で在り続けることを捨てて、十字架にかかるため人となられた。今年もクリスチャンでありたいならば、自分に固守しない、という覚悟が、第一に私達の必要なのである。
- 「幸いの根拠」(7)「幸いの根拠」(7) † 最善を選ぶ。 主イエスの降誕を限りない喜びを持って迎える。この日は神ご自身が、神であることを固守されず、卑しく人となられて生まれて下さった日である。このような選択をどうしてできるのか?およそ人間には想像もできない。聖なる神ご自身ゆえに出来たことである。この神のご意志に、私達は畏れて身が震える。人となられた神は、肉体を持たれたゆえの、大きな制約の下に生きられた。世界を自由に動かし支配される全能の権威を行使せず、人間を贖う犠牲の道を選ばれたのである。ゲッセマネの園では、主イエスを捕らえるために、ユダを先頭にロマの軍人や、ユダヤの役人達がやって来た。その時ペテロが剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした。主イエスはペテロを制止して言われた。「私が願えば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さる。それができないと思うのか?」(マタイ26・53)と言われた。また、私が「有りて有る」者(神)だ。と言われると一団の彼らは、後ずさりして倒れてしまった。(ヨハネ18・6)それほどに神としての権威を持ちながら、また、天の軍団をも願われなかった。主イエスは私達のために十字架への道を選ばれたのである。神の聖さと義と愛の業である。神の最善が、滅ぶべき私達を救われるのである。 † 最も幸いなこと。 「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」 ピリ1・20)成熟した人間ならパウロに同調しアーメンと言えるだろう。パウロは死に急いではいない。「キリストのすばらしさが現されること」が中心的な重要性である。幸いの根拠はこの一事「キリストのすばらしさ」であり、それを「私の身によって」現すことである。このような人が最も幸いな価値ある人である。与えられている尊い一日一日を、キリストのすばらしさを現すために生きよう。それが、かえって自分のために最も幸せな人生の毎日になる。自分のためにのみ生きる人は、最も惨めな貧しい自己を刈り取る事になる。だから、心せよ。「将来と希望」は、キリストにおいてのみ実現する。それ以外は焼かれ燃え尽きる。
- 「幸いの根拠」(6)「幸いの根拠」(6) † 本物の感情。 私達を揺り動かしているものは何か?何が情熱的感情に至らせるのか?私達が生きるために、最も喜ばしいことは、抱いた情熱に生きることである。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)クリスマスから始まり、主イエスが十字架を通して、与えて下さったのは罪からの救いのみではない。臆病の霊ではなく、聖い情熱的な、力と愛と慎みの霊である。前節では「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と言っているように、神によって与えられたすべて(賜物)を、再び情熱的に働かせよ。と、促している。私達が最も幸いな者であるのは、罪と死の現実から、神の愛によって救い出された、この揺るぎない真実にある。神の愛の御業に結ばれた私達の魂は、この最も価値ある真理に、心を動かされている。即ち熱い情熱的な感情に活かされている。もし、そうでなければ、信仰は不活発なものである。信仰は感情(情熱)を生み出し、人生を行動へと向かわせる。私達がどれだけ幸いな神に支配されるかは、どれだけ神によって、感情が動かされているか、によって決まるのである。 † まことの礼拝者。 私達の終局の目的はなにか? この世(現世)でも、神の御許に生きる天国でも、私達は神を礼拝する幸いに、おかれているのである。被造物(私達)の最大の喜びは、創造者で唯一の神を礼拝し、賛美し、神とまみえるのである。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、人々はその民となる。また、神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」默21・3)私達の主が大きなラッパの音と共に、天に現れるとき(マタイ24・31)地上の礼拝者と天上の礼拝者が、一つにされる。私達はキリストに目を向けていないと、自分の事だけに関心を持ち、被造物としての自分を忘れる。即ち、神を礼拝する尊さを失うのである。自分自身の中に尊さを見いだすのは、神を畏れ、敬虔に神への礼拝を守る事において、見いだすことが出来るのである。幸いの根拠には「神を礼拝する」こと。人間に必要なことは、敬虔な信仰があることである。そのために選ばれた私達である。被造物であることを忘れず、神を畏れる、生きた礼拝者であることを続けよう。
- 「幸いの根拠」(5)「幸いの根拠」(5) † 達観した精神。 達観(タッカン)とは、将来の情勢を見通すこと。全体の情勢を見通すこと。また、「達」には成し遂げる。目的地に到達する。と言う意味が込められている。アドベント第二週を迎えるに及んで達観した人物ヨセフを取り上げたい。マリヤと婚約し、高揚した幸いの毎日を与えられていた。所が、受け容れがたい知らせを受ける。婚約者のマリヤが妊娠したのである。ヨセフは「正しい人」マタイ1・19)とある。この事態は、神が始められたこと。この「躓き」を乗り越える手段は、慈しみを持ってマリヤを受け容れれること。ヨセフは、神の御手によって、行われる「未来を達観した」のである。ヨセフこそ、クリスマスを成功させた功労者である。ヨセフは神と神の約束を疑わなかった。神はそのヨセフを選ばれたのである。ローマ皇帝が全世界の住民登録を命じる初めての勅令が出た。税金の徴収と兵役のためなので、全世界の住民は嫌嫌ながら、不平を言いながら従った。しかし、ヨセフは違った。神がイエスをマリヤから生まれさせる事を知っていた。ベツレヘム(マタイ2・6)は、メシヤの出る村なのだ。ヨセフはすべての男性の「幸い」の模範である。信仰による達観した精神を持って生きる事の幸いを現している。 † 幸いへの勇気。 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」 申30・19)前後の御言葉を読むと、死と呪いがなぜ起こるのかがわかる。「あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら」 17)である。私達は、直接偶像を拝むことはない。しかし「心を背ける」ということ「聞き従わない」ということは、どうだろう。世的なものに「誘惑される」と言う事も身近な問題である。信仰はヒロイック(雄々しく英雄的)なものである。キリスト信仰には勇気を伴う。「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる」 申30・14)このようにして、キリストにある者は「いのちと祝福」の中を歩み続けるのである。一回の勇気が、続く百回の勇気に繋がる事を覚えよ。
- 「幸いの根拠」(4)「幸いの根拠」(4) † クリスマスにある。 今日までの、膨大な知的文献を、AIの働く量子コンピューターに集約したとしょう。そして「人類最大の幸せは何か?」と検索する。人間の様々な幸せの定義を網羅(モウラ)すると「クリスマス~イエス・キリストの誕生」となる。と私は確信する。クリスマスは、明確に神の計画と実在の力を、明らかにされた事実である。日本サッカーが、この度ドーバーで、二度の奇蹟を起こした。と世界が驚くような程度ではない。主イエス・キリストの誕生は、人類の幸せの全てをカバーする(覆う)真実な出来事なのである。幸せの根源であり、幸せを、永遠に保証する救い主(メシヤ)について「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2・7)御子イエスは「神であることを無にし」人になられたのである。世界のあらゆる悲惨と暴虐に、あらゆる人間の苦しみと悲しみに、その憎しみと恨みに、主イエス・キリストは打ち勝たれる。世界も人間も、決して与える事の出来ない「神の平安」を人々に、どん底に落とされた魂に、植え付けられる。その人々は、神を見上げ、神を友として、神の生命の中に生きられるのである。 † 真理を原則とする。 真理とは「いつどのようなときにも変わることのない筋道」で、神の言葉(聖書)が、それである。原則とは「一貫した生活の中心になり得る唯一のもの」であるから、真理も原則も内容は同じ事をいっている。身体で言うならば骨である。見えないが私達の身体を支えている。クリスチャンであるならば「筋が通っている」ことが大事である。ある人は状況によって、コロコロと価値観や使命が変わってしまう。これでは「幸せな安定性」を生み出せない。真理を原則として生きる人は主体的に生きられるので、周りの人々の言葉や行動に影響されることなく、真理の御言葉に従って、幸いの中を歩み続ける。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩1・1-2)この人々は、この世の称賛や誉れなどに惑わされず、真理の喜びの中を歩む。
- 「幸いの根拠」(3)「幸いの根拠」(3) † 試練という幸い。 「人が若いときに、軛(クビキ)を負うのは良い」哀歌3・27)軛とは、自由にするものではなく束縛するもので、苦しみを伴うものである。なぜ、それが良いのか?すぐ思いつくのは忍耐が鍛えられること、人間としての内面が鍛えられ、深められることである。今、一流のスポーツ選手達も才能があるだけで出来ているのではない。人一倍厳しい課題(軛)を課せられ、それを超えてきた結果である。私達のように信仰による霊性を、人生の中心におく者は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」1テモテ4・8)とある通りである。要するに主イエスの神聖な品性に、自らの魂を換えて行く努力が、敬虔な生き方なのである。「アブラハムは、神から試練に会わせられた」創22・1)とある。神がアブラハムを試みられたのである。約束の一人息子イサクを全焼の生け贄として、あたかも羊と同じように捧げられるのか?という、とてつもないテストである。アブラハムには、神を全きに信じる信仰があった。神はそれを認められた。今、試練に置かれているならば逃げるのではなく、神を信じ勇敢になる事である。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7) † 私の幸いはどこに? 「何に」「どこに」幸いはあるのか?これが、単刀直入に答えられる事が大切である。これが、はっきりしていない人は、幸いとは何かが漠然としているか、全くわからない人である。「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」詩16・2)まさに私のことである。言い得て余り有る。聖書には、旧約も新約も同じほどに「幸い」という語が用いられている。幸いという内容の全てに言及しているわけである。突き詰めて、究極の所は幸いは「主イエス・キリスト」以外にない。それ以外が「幸せ」の対象であるならば、なお魂の成長が期待されているのである。若い頃「まだ修行が足りん」と言われたが「幸い」のストライクに至っていないのである。私達を惑わす者と、惑わす物が、溢れている中で人生が曲げられては「亜流の幸せ」を得るだけである。そのためには「幸せ」を真剣に考え、真剣に、神と福音について考えることだ。
- 「幸いの根拠」(2)「幸いの根拠」(2) † 過去の革命。 本来革命は現在と未来に向かうものである。しかし、あえて人間の「幸いの根拠」は過去の変革(革命)にあると信じるのである。普通に言われることは、過去は変えられないというものである。しかし、過去が換えられるのである。その人生には、天地異変に等しい幸いな激変が起こるのである。人生をやり直す、と言う言葉はよく聞く、しかし、過去が換わる、と言う事は余り聞く言葉ではない。現実は、多くの人が、自分の過去を原因として、現在も未来にも希望が持てないでいる。だが、キリスト信仰は、私達の過去に係わり、解決するのである。現在とは過去によって成り立っている。2千年も前にキリストは十字架の贖い(罪過からの解放)を、神の永遠の保障の御業とされた。この神の歴史的御業を信じるのが信仰である。それは過去からの現在の私が、キリストと共に葬られてしまうことである(ロマ6・4)過去の革命とは、キリストと共に死ねるという喜びである。この信仰による現実が、現在と未来を神の生命で生きる事となる。そして、キリストの復活とも同じようにされるのである(ロマ6・5)いかなる過去も死んで、革命的に新しく生まれ換わるのである。 † 希望に繋がれている。 希望に繋がらない生活は、尻すぼみで暗く、悲しいものである。今ウクライナは仕掛けられた戦火で、町を破壊され、難民となった人々が1500万人に達している。この国の希望は、決して敗北しないこと。第二は、母国を復興することである。この希望がなければ、この国は生きる力と意味を失うだろう。希望は未来に確信を与える事実である。目に見える世界だけが本物ではない。まことの本物は、神が与えた「見えない永遠の命」であり、「見えない神の実在」である。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11・1)信仰は、古い過去を新しく換え、信仰は「望んでいる事柄(希望)」を保証し、確信させる。現在が、どんなであっても、神はキリストにより永遠の報いを与えられる。信仰は希望を包含(ホウガン)している。この信仰と希望は、神の愛で覆われている。神の愛は信じる世界中の者を、キリストの一つの身体として力強く連帯させ、苦しみにある者を支え励まし、希望を共有するのである。
- 「幸いの根拠」(1)「幸いの根拠」(1) † 幸いの起原を知る。 「我思う故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、「自分の係わる世界に、疑わしいと思う余地のあるものを取り除いて行くと、残るのは、確かではないと疑っている自分自身である」と言う事だ。ここには「確かではない、疑わしい」という要素がある。人間には確実に信じられる真理の真実が必要なのである。神の創造世界を信じる事は、私達に重要な幸いの起原である。神による創造は「生命の創造」を意味する。人間は、神の創造による生命なのである。聖書は、現代の科学文明の中で「信じられる」確固たる根拠を持っている。総論的に云うならば、人間を最も克明に言い表している聖書にこそ、人間の知り得る「幸いの根拠」がある。その中に生きているのが私達である。確かに教会に集いながら、幸いの確信を持てない人もいるだろう。私達は「神に似せられて創られた」創1・26)それは、私達人間が、神に似るほどに、幸いな存在である事を意味している。信仰生活とは、幸いな「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)という目的を生きることで、キリストからの神聖な人格に成長する。 † 厄介な人間に終わらない。 私達人間は、生き物の中で最も厄介な存在である。今日のコロナウィルスの厄介さに私達はうんざりしているが、それ以上である。人間は自由意志を持っているからだ。ウイルスは状況に応じて変異して行くが、意志をもつ人間は状況に関係なく、どのようにも行動する。問題は、意志をコントロールする自己である。この自己は、神につくことも、悪魔につくことも出来るのである。そのように人間は、自己中心的に意志を働かせて生きており、手に負えない要素を持っている。自己中心的意志は、神からも、悪魔からも「得」になる事にくみする。「敵は心中にあり」とは言い得ている。自由意志が自己中心的に働くとき、最も非人間的な未形成な人間になる。幸いの根拠を「自分」という確かでないものに置いてはならない。人間は神の手(愛)の中で活かされる者として創造された。神は羊飼いとして、私達は羊として描かれる。これが「幸いの根拠」なのだ。独立した羊は迷子である。徹底して神に牧されることを選ぶ意志が、人間の最高度の存在となる。キリストは囲いの中に私達を養い守られる。
- 「揺るぎない世界をつくる」(7)「揺るぎない世界をつくる」(7) † ここは神の御国。 私達は38年前から、ビンヤード・ワーシップソングを用いて礼拝する教会になり、今日に及んでいる。近年は多くのオリジナル曲も用いられている。そのため賛美歌や聖歌を賛美する機会が少ないが、自分自身の中で、賛美歌90番が心に彷彿(ホウフツ)する。「ここも神の御国なれば、天地(アメツチ)御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞ現れたる」信仰の結果として生じるもの、それは、今の「ここも」神の御国である。という、大いなる喜びである。天の賛美が地の賛美と饗応(キョウオウ)している。神を頌(タタ)える賛美の中に、天地万物が神の栄光の御業を証詞しているのだ。私達の「揺るぎない世界」は、まことに身近にある。信仰が生みだす、まことの喜びの実感が「神の御国」なのだ。主は言われた「・・・・わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11・20)神の支配する「神の国」は、私達も信仰によって創り出す必要がある。私達の今「ここも」神の御国である。私達が五感で感じる世界が、神の中で御国なのだから。 ハレルヤ! † つくる「世界」がある。 私達夫婦は裸一貫で、独立自給の開拓伝道を始めた。今や47年を経たが、まず信仰がこのような無謀とも思える決断をさせた。なぜか?夫婦共に、神が生きておられ、働かれるお方であるという信仰があった。神依存の生活を第一として楽しみ、また辛苦を共にした。ゼロから、一が生まれると、二に繋がり、五に繋がるように、神に祈り、全精力を傾けることであった。誠心誠意を尽くしても、上手く行かないことは承知の上での、人との係わりである。そうして伝道を続けた。経済的な支援がない中でも、家族5人を養われたのは神である。教会のない町(可児)に十字架を建てる、この志が、可児福音教会を「つくる」事に至った。「つくる」と言う事は、神の御業を成らせる。と言う事である。信仰があるというなら、神のために生きることである。信仰があるというなら「行う」ヤコブ2・24)ことにある。信仰を美辞麗句とせず、詭弁とせず、主イエスに従う事が「つくる」ことなのだ。それが、企画やプログラムを立て行動する以上に重要なのである。「つくる」のは、神の生命と力にあるからだ。ハレルヤ!
- 「揺るぎない世界をつくる」(6)「揺るぎない世界をつくる」(6) † 鬱(うつ)的世界。 鬱(うつ)という心情の苦しみは、ある人には縁のない話かと思う。だが、ひとたび鬱の世界に陥ると、世界は一変する。鬱の原因は究明されてはいない。そのような中で、うつ病患者は情動行動を制御する神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に用いられる分子)のなかのセロトニンやドパミンの機能低下が関与している可能性が示唆されている。セロトニンは心を落ち着かせ、ドパミンは活動性を高めて楽しみを感じさせるとされている。さて、揺るぎない世界に生きていたとしても、鬱に捕らわれる事も起こりえる。キリスト信仰があっても、人間である以上、鬱にも遭遇する。「老人鬱」と言うものもある。ある時期(70才を過ぎて)体験したことは、言葉に現せない「虚しさ」の心情に支配されたことだった。キリストの福音によって、揺るぎない世界に踏み入っているのに、肉体にある私は、言い知れぬ不可解な思いに悩まされた。大きく環境が変わったのでも、大きな事件が起こったわけでもない。一つ思い当たる事がある。自分が自負する存在を無能化され、用無しのように見下されたと感じた時「肉なる自己」は、行き場のない鬱の心情に落ち込みやすいという事だ。主に在って、とてつもなく強く、また弱い自己なのだ。 † 神の世界を実現させる。 これは不可能なことである。しかし、ペテロが不可能な水の上を歩く事を可能とした。その秘訣は、神の約束の言葉を、とり付ける事であった。「・・・・私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・28)私達も神の生ける御言葉を、とり付ける事が出来れば、神の世界を実現させることは可能である。だいそれたことだが、主キリストは「望んでおられる」のだ。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」ルカ・17・6)私達にとって、これほどの喜びはない。主イエスを識った者であること。次に、信仰を識った者であること。そうして、次のことがあるだけだ。条件を満たして、私が「言う」ことなのだ。神の世界は、私の「言いつけどおりになる」のである。これは信仰の極意である。そこにまで到達したいと、主を賛美し喜び踊る思いでいる。
- 「揺るぎない世界をつくる」(5)「揺るぎない世界をつくる」(5) † 実感している世界。 人間が機械のように操作されて、造り変えられると、特殊な目的のために生きるようにされてしまう。マインド・コントロールとは、そう言うものである。自分の自由意志や選択権を失い、コントロールされている世界に、全てを献げてしまうのである。その手段は最先端の科学的で、心理学的な高度な方法であり、段階的に行われるという。要するに「カルト」である。世界制覇をもくろむ、集団「破壊的カルト」もある。基本的な人格と人権を、完全に従属させられる、奴隷状態と言わざるを得ない。しかし、本人には理想の世界に生きているという感覚であり、それ以外は「悪」の世界であると、決定ずけられているという。脱会したり、挫(クジ)けることは地獄に落ちる事に決まっているのである。この巧みさがマインド・コントロールなのだ。私達の信仰はそう言う本質はない。信教の自由の中で、私はキリストを救い主と信じたし、強制されて、あるいはコントロールされて、教会に縛られてはいない。完全な自由と権利の中で、神に仕えることを選び、兄弟姉妹との交わりを、喜びとしているのである。 † 神が創り換える。 19才で聖書を読み出した。当然キリスト教全般を知りたいと思った。当時は社会的である事と、科学的である事が私の関心であった。罪からの救いのみで、人生の問題全般は解決しないと考えていた。要するに、私自身の問題意識が中心にあって、その解決が聖書から、どの様に与えられるに関心があった。私が、神に創られた神のもの、という世界は見る事が出来なかった。しかし、神はイエス様をとおして、私の世界を創り変えて行かれた。この世界に生きるための信仰が、神の御心と永遠の世界に、生きる事へと換わってきたのである。たぶん、日本人なら誰もが同じような過程を通るのでは?それで、世捨て人になったのか?よりこの世界を愛せるようになった。この世に生きる意義も与えられるのだ。神の慈しみは、私達の魂をキリストの心と信仰に、創り換えて、神ご自身を示して下さるのである。そのように、知れば、知るほどに、驚きよろこび感謝でしかない。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1・21)誰でも、このパウロの実感を得ている。
- 「揺るぎない世界をつくる」(4)「揺るぎない世界をつくる」(4) † 捨てたら世界が出来る。 聖書的用語には、罪を離れる。罪を悔い改める。罪を捨て去る。がある。一番強い印象は「罪を捨て去る」で、罪の世界との絶縁の意味を持つ。新しい生活は、罪との絶縁が必須であり、神の国と義は、その場所に成り立つ。さらに、揺るぎない世界のために前進がある。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・」ピリピ3・9)ここでは、新世界(主イエス)を知っているすばらしさのゆえに、一切のことを、ちりあくた(糞土)として、惜しみなく、捨てることが出来るのである。人格的な主イエス・キリストを知っている事。それは、永遠の生命を与えられ、復活の栄光を与えられること、それは永遠に、直接にキリストと交わりを与えられることである。私達に与えられている信仰が、神の愛の御業(主イエス・キリスト)を知る方法(道)である。幾らかでも主イエスを知っているなら、勤勉と熱愛を傾けて、主に近づこう。地上のものが「ちりあくた」となり、捨て去るまで。主イエスは豊かに導かれる。 † 永遠の生命は不可知ではない。 永遠の生命について「明確な確信」があって、クリスチャン生活は成り立つのである。確かに感覚的に実感出来るわけではない。トマスのように、復活されたイエスの脇腹の傷、手にある釘の傷に触れる事はないであろう。主は言われた「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」ヨハネ20・29)不可知論者とは「永遠の生命に関して、私はなにも知っていない」というクリスチャンや指導者のことである。全てが、ばく然のままなのだ。揺るぎない永遠の生命こそ、福音の中核、キリスト信仰の土台で確実な真実なのである。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ロマ8・39)私達の永遠の生命は、何ものも、死でさえも、神の愛から引き離せない。キリストの人格的な愛の交わりが、永遠であり、永遠の生命なのである。この確実性は希望となって私達の内に生きている。「死は勝利にのまれた」1コリント15・54)として。
- 「揺るぎない世界をつくる」(3)「揺るぎない世界をつくる」(3) † 揺るぎないという事。 旧約聖書では、神がダビデを「揺るぎない王」とされた。2サムエル5・12)と、記している。また、息子ソロモンも「私を揺るぎないもの」として、ダビデ王の王座に就かせ、1列王2・24)と言っている。これらは、神の後ろ盾があっての出来事であることは、言うまでもない。主なる神によって、造られるものは「揺るぎない」と言う事である。「安全で確かな錨」ヘブル6・19)は、神がキリストを通して創設された、私達への永遠の希望を保証するものである。神が創り出して下さるものは、王であれ、王国であれ、希望であれ、信頼であれ、揺るぎない性質を持つ。それが、私の中の出来事であるなら、私の中に生まれた、神の世界なのだ。これから、世の中と渡り合って生きてゆく時には、主イエスが植え付けて下さった、御言葉(真理)によって生きるのである。神(真理)の価値観こそ、揺るぎない私達の道だからである。この道からブレないで、神であり主あるイエスを崇め、従う事が、揺るぎない強さを生みだすのである。神に頼るという弱さこそ、最も強い者にするからだ。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」2コリ12・10) † 人間の盲目度。 「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです」2コリ4・3)おおいが掛っている、とは見る事が出来ないという事。次節では「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」とある。私達クリスチャンも、世の価値観を人生に受け容れて生き続けると「おおい(覆い)が掛る」その結果、キリストの栄光(福音の光)が、ぼやけ、霞(カス)むのである。神から、何を聞いても、言われても悟れず、神が見えない盲目度は深く、大きくなる。人間の本当の盲目については主イエスが語られている。主の御名を信じない人々に対して「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである」 ヨハネ12・40)
- 「揺るぎない世界をつくる」(2)「揺るぎない世界をつくる」(2) † 決定される事。 その人の明確な方向性が示されて、素晴らしい決断がされているので感動する。所が違った課題になった時、その方向性が姿を消しているのだ。なぜなのか?聖書は、神の健全な教えと敬虔(神聖)を生活全般に適用する事を求める。これは厳しいのではなく、サタンとこの世の誘惑と罪から守られて、揺るぎなく私達が満ち足りて生きるためである。そのために一貫した方向性(決断された決定)が、信仰の人生なのである。例えば、地域の人間関係の中で、家族の中で、教会生活の中で、方向性が同じである。賛美を献げることも、犠牲を献げることも、同じ方向性に従うのである。これが、ぶれていない、方向性が一貫している事が健全さを示すのである。私達の常にある問題は、神に聞き従うか、自分の思考と都合に従うかである。この事で、私達は明確に決断し、決定する事が求められる。神のしもべならば「・・私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意・・」2テモテ6・3)することである。神と伴(トモ)にある、満ち足りた、喜びの生活を願うならば、神に喜ばれる一貫した方向性を決定することである。実は、それがクリスチャンの義務なのである。神への忠実さとは、健全な御言葉への誠実さなのである。 † 主イエスの世界と私。 主イエスのお働きは、世界中のすべての神の子供達、一人びとりの中に、ご自身の世界を築かれることである。なんと驚くべき巨大な世界であろう。神の似姿である人間にしか与えられない。パウロや、ヨハネやペテロは、固有の存在だが、私もその一人である。パウロの中に主イエスが、ご自身の世界を築かれたように、私の中にも、主はご自身の驚くべき世界を築いて、さらに大きくし、高くし、広くして下さっているのである。主イエスが見ておられる世界を、私は自らの世界として与えられている。いち早く、主イエスに実存し(依存して)生きたならば、いち早く主イエスの世界を与えられ、主イエスの世界のすばらしさを賛美し、父なる神を崇めたに違いない。幸いな事は、誰でも、心を開き、キリストに留まる人には、キリストの世界が、その人の中に築かれるのである。この世に在りながら、主イエスの世界を知り、見て喜び、神の子の特権に驚き、感謝するのである。
- 「揺るぎない世界をつくる」(1)「揺るぎない世界をつくる」(1) † 揺るぎない世界。 プーチン大統領は自分の理想とする世界を創り出すために、都合の良い理論を正当化し、戦争を起こした。世界の二極化を狙っているのである。権力を持って弱者をねじ伏せ、人間の自由を抑圧する世界である。そのためには核兵器を用いると脅しをかける始末である。戦争放棄、主権在民を掲げる平和憲法の日本は、とても容認できない。特に、私達クリスチャンは、神の義と愛を持って、世界の人々の平等と自由を目指している。キリストが旧約聖書の預言の成就として、世界に来られ、揺るぎない神の国を創り出されたからである。現代の権力者は、自国や世界の歴史解釈から、自己(自国)を中心とした、新しい歴史への野心を持つ。その動力は権力(軍事力・経済力)である。人間の固有の自然法(真理)には、目もくれない自己欺瞞の中に生きている。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」ヨハネ15・12)これこそが揺るぎない世界なのである。曲がった時代も、狂った世界も、この戒めに依って審きを受ける。また「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7・12)と、神の御声が鳴り響くのである。 † 自分から始める。 人間には主軸となる世界観がある。これが曖昧ならば人生も曖昧であり、自己自身も曖昧である。私達クリスチャンは、主イエス・キリストを核においた世界観を持つ。天動説から、真実な地動説に換わったように、私達は「唯一の神」を中心にした生き方をし、この世界を理解する。私達が世に生きるとは「国籍を天に置く」ビリピ3・20)事であり、大転換(パラダイムシフト)をしているのである。小数であっても日本に「神の民」が居ると言う事が、神の事業(お働き)なのである。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」ルカ12・32)大勢の中で、私だけがクリスチャンであることが、揺るぎない世界を成り立たせているのである。その自分が世になびき、信仰を失えば、日本から光りが消えるのである。いま与えられている救いを堅固にしよう。私達があって、日本は神に立ち帰れるのだから。
- 「領域を意識する」(7)「領域を意識する」(7) † 信仰の領域を選ぶ。 信仰の領域とは、神の支配する領域に入るということである。「それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。・・」出エジプト14・13、14)聖書には50箇所以上に「恐れるな」と書かれている。この背景ニは恐れるに足る原因がある。エジプトの押し迫る軍隊を目の前に見ていたり、大国の脅やかしの言葉であったり、敵軍との戦いの直前であったり、未知の事柄に不安を抱える時などである。また、孤独で意気阻喪(ソソウ)している時「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」イザヤ41・10)危機の現状に「恐れない」で神に依り頼むなら、神の支配する中に、生きる信仰の選択をしたのである。私達は、恐れと不安を感じていないか?その時こそ、神の御声「恐れてはならい」に聞くのである。その時が一番神の助けを必要としている時、主なる神が、戦われる時だからである。「恐れるな」と神の力強い御声が今日も響いている。 † 見えない領域を見る。 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」2コリ4・18)これは科学的な常識である。しかし、信じる事を通して、見えないものが見えるようになる。御言葉が告げる内容は信じなければ現実を生まない。御霊の働きにしても、与えられている賜物も、信じて用いられるのである。自然的に溢れ出るものではないというのが私の認識である。神の約束の事実の全て、永遠の御国(天国)や再臨のキリストは、未知なることなのか?事実はそうであるが、聖書は神の御霊(聖霊)が、私達の魂に現実のこととして啓示されるのである。四千年前アブラハムは「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」「その都を設計し建設されたのは神です」ヘブル11・10)彼ははっきりと見ていたのだ。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」 ヘブル11・1)
- 「領域を意識する」(6)「領域を意識する」(6) † 今より高い領域へ。 「真理は驚きである」この言葉に捕らえられ生きている。その真理に驚き(驚愕)することで、真実に私のもの(財産)となる。神に召された、その時から、私達は神の領域に生きる者にされている。その私達に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33・3)と約束された。私達には考えられない驚くべき、神の至高の領域に入れられるのである。それには「私を呼べ」と言われる。奥まった部屋に入り祈るのだ。ヤコブのように御使いと格闘する(創32・24)与えられるまで、執拗(シツヨウ)な熱心さが「神を呼び求める」ことである。神の偉大な恵みは「彼らの叫びに傾けられる」1ペテロ3・12)神のみが、私達を高次の恵みの領域に入れて下さる。今の低いレベルの経験に留まらず、高い領域を目指して、キリストの御名を呼び求めよ。熱心な祈りは、今の怠惰を打ち破り、天への窓を自ら開くことになる。モーセがビスガの頂き(申34・1)から、乳と蜜の流れる全地を見渡したように、私達にも信仰の高嶺に上るように招かれている。 † 聖霊の領域。 「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」 マタイ12・32)イエスは悪霊を追放し、しるしと不思議を通して神の国の到来を宣言された。パリサイ人は、イエス が「悪霊を追い出しているのは悪霊のかしらベルゼベルによることだ」24)と、言う事で、イエスの中に働かれる神の霊(聖霊)に逆らい、冒涜した。しかし罪人は無知のゆえに、神やイエスを冒涜するが赦される。「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい」ヨハネ14・11)業とは、聖霊のお働きである。その聖なる現れを冒涜し、逆らう者は赦されない。イエスは「数々の力ある業を行われた」マタイ11・20)が、悔い改めなかったコラジン、ベッサイダ、カペナウムの町々をソドム以上の災いが臨むと言われた。聖霊に逆らうとは、神の働きの本質に逆らうことで、この世でも来るべき世でも赦されない。聖霊の領域は、聖なる神の神聖な現れとお働きなのだ。
- 「領域を意識する」(5)「領域を意識する」(5) † 領域がゼロになる。 大きな教訓を得たのは、車に欠かせないバッテリーからだった。いつもの車が、電池切れで始動しない。それで、ブースターケーブルで、他の車を通してエンジンを始動させた。普通はこれで、急速充電する。安全を期して4㎞位走行し、ガソリンスタンドで、燃料を満タンにした。所が始動しない、バッテリー電源がゼロである。ここまで動いたのは、車の発電電流であったのだ。急遽、無効のバッテリーを、スタンドのガレージで新品に取り換えた。バッテリーは劣化し蓄電する能力「領域」を失う。他の車からの電気でエンジンは始動するが、もはや、電気を蓄えられない。止めたら最後、車は動かないのだ。このことは、私達を表しているかも知れない。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15・5) 主イエスに「とどまる」ことで、神の生命と実を結ぶエネルギーが私達に注いでいる。30倍、60倍、100倍にまで実を結べる。霊的な電源(キリスト)から離れると、何も出来ない死んだ枝になる。 † 御座という領域。 神の御座という場所は、聖徒にとって麗しさの極みでしかない。「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです」詩84・10)神の居られるとこしえの御座とは「・・・義とさばきが御座の基である」詩97・2)ヨブは「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい」ヨブ23・3)と、心を向け、慕い求めている。御座に近づきたいという思いが、私達の信仰生活の中に生まれる事は、高い領域が開かれたことを意味する。御座は至高の栄光に満ちている所で、父なる神がおられる。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」 マタイ6・6)父の御座はあなたの近くにある。御座は、あなたの奥まった部屋に入って祈る時、隠れた所(御座)で、神はあなたを知り、見て、報いて下さる。
- 「領域を意識する」(4)「領域を意識する」(4) † 熱いのか、冷たいのか? 熱い、冷たい、には区切りがある。領域が違うことを意味している。この区別がつかない「生ぬるい」と言う領域がある。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。主は言われる「このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」黙示3・15-16)神に召され選ばれた者として、熱く福音に生きているだろうか?主イエスを熱愛し救いの喜びに踊っているだろうか?・・・・ともすると「そんな人は異常か、特別な人では」と声が聞こえそうである。生ぬるい人の特長は、神と、信仰と、教会と、世とのバランスを無難な、やりやすい「自分の領域内」で決めている。これでは、自分の堅い殻を破ることは出来ない。熱くも、冷たくもない中庸(チュウヨウ)は、勝利者イエスからは「吐き出される」だから、熱い神の愛の中に、篤い信仰の情熱を燃やすのである。神の愛の御業と聖霊の働く「領域」に飛び込むことが神に受け容れられる「生ぬるくない」クリスチャンである。 † 暗闇の領域。 現代人は、時代の科学的で実証的な世界を常識として生きている。その行き方を突き詰めて行くと、人間は行き詰まる。なぜなら人間は霊的存在だからである。私達は人間についての研究から神に到達しない。神は「無からの創造者」で完全な善であり、世界を造り人間を造られた。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」創1・31) 完全な善なる世界が全てであった。しかし、悪が出現する。人格的な悪魔の奸計(カンケイ)によって人間は罪を犯し、悪の世界に繋がれた。神は悪(罪)を善なる世界に置くことは出来ない。それで、悪魔と悪に属するものの領域「地獄」を用意された。神は悪魔の支配下にある人々を救う十字架の福音を与えられた。「・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」2ペテ3・9)主の再臨されるのが遅い理由である。今、大きな力を持つ暗闇の勢力は全世界に及んでいる。しかし、神はご自身の善なる世界の外に置いた「地獄(火の海)」 に、とこしえに投げ込まれるのである。
- 「領域を意識する」(3)「領域を意識する」(3) † 来なさい。 イエスの招きは「私について来なさい」マタイ4・19)ということが本命である。信仰は主イエスに倣い、従う事だからである。このように主イエスについて行く信仰が、健全な私達の領域である。主イエスはご自身(神)の領域に、来なさいと招かれたことがある。「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・18)すると、イエスは「来なさい」と言われた(19)水の上に立ち、歩かれる領域は、超越的な神のものである。ペテロは賢明にも、主イエスに「お命じになってください」と言った。これがなければ、人間は神の領域に入る事が出来ないからである。この事から教えられる重要なことは、ペテロのような信仰のセンス(感覚)を、私達も持って良いことだ。もし、主イエスとの親密な交わりがあるなら、親密な会話も生まれる。「来なさい」という、主の御声を聞く事もあるのである。主に愛される子供には、限りない神からの特権があるのである。 † 安全確保。 現在の深刻な問題は、コロナ感染の拡大である。安全の領域を意識して守っていた。三年間を守られてきた、ワクチンも四回接種した。コロナがBA・5に形を変え、感染率が非常に高いことを聞かされてきた。いつもの生活の中で軽い頭痛がおこった。冷房のない暑い部屋であったが、体温は37度をこえていた。教会の牧師室に引っ越して、次の朝、抗原検査に行ったら陽性とわかった。風邪を引いたな、というのが自らの感覚で、まさかコロナに感染したとは思えなかった。翌日の朝の体温は36・5度で普通なのだが、自宅療養となると、行政の経過観察という管理下におかれる。まさに、個人としての、コロナに対する安全の領域が崩されたのである。家族が被る負担は大きく、社会と暮らしの構造を破壊した、恐ろしい見えない敵である。見えない敵は他にもいる。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6・12)私達キリスト者しか理解できない、人間の最大の脅威である。しかし主に従う人は打ち勝てる。信仰は、見えない敵を見させるからである。
- 「領域を意識する」(2)「領域を意識する」(2) † まことの自由奔放。 私達は神の子供である。と言う観点から見ると、罪と世の桎梏(シッコク)からの自由が思い浮かぶ。自由とはあらゆる束縛からの解放である。奔放とは、どういうことか?一般的な意味では「思うままに振る舞う」「常規に従わないで自由である」「ほとばしること」などの意味を持つ。「・・・・あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32)ここには、奥深い自由が宣べられていると思う。神の特権を与えられた子供としての自由と奔放さである。例えば、父親に子供がわがまま放題だが、父親が愛情深く子供を受け容れている。ほとぼしる子供の姿が好きなのである。このような情景が、天の父と、私たちの生きた交わりであり、関係である。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます」ロマ8・15)神の子供は「天のお父ちゃん」に、無邪気に走りより、振る舞う特権を持つ。私達は、まことの天の父にまとわりつく、自由奔放の領域の中におかれ、生かされている。 † 境界線と人間。 子供の頃、村に騒動が起こった。山の地境(杭)が不法に移動されており、その分の木材が切り出されていた。いわゆる地境のトラブルである。「『隣人の地境を移す者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい」申命27・17)このような地境の問題は、今日では国際的な問題である。日本は竹島、尖閣諸島、北方領土に問題をもつ。ロシアの固有の領土宣言で、ウクライナは戦争を仕掛けられ、領土を奪われようとしている。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4・1)人間が神の恐ろしさを認めないならば、自分のために地境を移すような事をする。欲心のために領域を守れないならば、神からの悲劇が見舞うことになる。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています」ヘブル10・30)あるべき心の領域を守ろう。自らの行動の領域を、神の御心として、実践して行こう。神を畏れつつ歩み、確実な永遠の報いを得るように生きて行こう。
- 「領域を意識する」(1)「領域を意識する」(1) † 残溝(コウ)が少ない。 自動車のタイヤには縦横の溝がある。長く車を使い続けると、当然ながら、タイヤが摩耗して、その溝が浅くなる。タイヤの大きさにもよるが8ミリの溝がある。前輪の溝が4ミリになったら取り換えるよう勧められる。後輪は3・8ミリとされる。その理由はブレーキを掛けた時、止まるまでの距離が長くなる。濡れた道路などでは、さらに停止距離が伸び、スリップも起こる。タイヤを替える気がなかったのだが、前輪がパンク(破裂)で取り換えざるを得なくなった。溝が4ミリを下回っていたので、前輪の2本を取り換えることで「領域」を守る事に落着した。このタイヤ問題は小さいと思える。しかし、ブレーキが利かず事故でも起こした場合には、不良タイヤを使用していた。となり、大きな代償を求められることになる。聖書も、何事にも守るべき領域がある事を教えている。「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました」ユダ1・6)国際的な「領空」「領海」も同じく、領域を無視する行為には、世界からの手厳しい評価に晒(サラ)される。私達も霊的領域を堅持して平安を守ろう。 † 危険の基準。 世界中で起こっている事は、干ばつと大洪水である。世界中で山火事が起こるのも、極度の日照り(乾燥)による。この季節に毎年聞かされる気象用語がある「線状降水帯」である。東北では、今までに無い豪雨となり、河川の氾濫によって洪水に見舞われている。危険水域の基準が、いとも易々と越えられてしまう時代になってしまった。安全の領域を今までよりも高くして、見合った対策と生きてゆく生活の場をより安全にする事を余儀なくされている。日本列島は全域で、台風並み、それ以上の、長時間の線状降水帯が発生する。伊勢湾台風では電柱も家も倒れ、元通りになるには大変だった。日本の各地で河川の氾濫による浸水被害にある方々を思うと、その大変さに心が痛む。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」ロマ8・22)自然界は人間の罪の結果、混乱し秩序を失っているのである。
- 「入れ換える」(7)「入れ換える」(7) † 換えた生き方。 変わったでも、代わったでも、替わったでもない生き方が、換えらた生き方だと思う。元に戻れない「入れ換え」がされてしまった。という意味で、とてつもなく喜ばしいことなのである。これは「私の福音」であり思想であり、哲学でもある。この思想と信仰はもともと聖書に明確に書かれていることで、何も独自のことではない。信仰という内容の幅が広いので「キリストを救い主として信じる」という言葉が信仰の公称となる。私は「換えられた」という意味を信仰に持ち込んでいるのである。「・・・・私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・・」ガラテヤ2・20)ユダヤ教にも、イスラム教にも、仏教にも、もろもろの宗教にもない、新しい人間の「様(在り方)」が、唯一、ここにある。神の御心は、御子の十字架に、使徒パウロと同じく、私をも完全に十字架につけられた。何が換わったのか「キリスト我にありて生き給うなり」 に換わったのである。死んだ者が元に戻れないように、十字架に死んだ者の中に、キリストが生きられるので、キリストの信仰の中に生きられるのである。 † 世界は入れ換わらない。 もの凄く否定的な表現が聖書にはされている。「・・・・全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」1ヨハネ5・19)日本のみならず某国のみならず、全世界は「悪い者の支配」の下に置かれているという。最善で悪のない全能の神は、この悪の世界に打ち勝つ「善」を行われた。それが永遠の定めをもたらす、超大な神の業としての、神の受肉、十字架の罪の身代わり、永遠の勝利としての復活であった。これからも地球には未曾有の大災害、悪の憎悪に満ちた覇権、遂には互いの愛が冷えてしまう。「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」ルカ18・8)主のご心配は、再臨の時に「神への全き信頼を保つ」という信仰があるのか?と言う事である。この世の者であった私達だが、今は「神の御国の生命」の中に、入れわっ換わったのだから、どんな時にも信仰の火を燃やし、備えの油を絶やさず「イエスから目を離さない」ヘブル12・2)ことである。
- 「入れ換える」(6)「入れ換える」(6) † キリストの花嫁。 花嫁になるには、一人の夫となる花婿のために、添い遂げる覚悟が出来ていること。即ち、夫以外の愛の対象を排除し、潔く備えることである。花嫁が、これを堅苦しいと感じるようならば、結婚生活は相当に困難である。「・・・・私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」2コリント11・2)この御言葉は、地上の男女の結婚を否定しているのではなく、地上の男女は、キリストの花嫁となるように想定されている事を現わしている。地上の結婚生活は、天上での婚姻の前味として尊い要素を含んでいる。その生活で傷つき、苦しんだにしても、大きな価値に繋がる。私達は悲しみや痛みを、キリストの血潮に癒やされて、潔い者にされる。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」默19・8)主なる神を崇め、主イエスに従う生き方が、正しい行いである。全ては、天上での婚宴に招かれる花嫁になることである。キリストに真実ならば、真実の花嫁に換えられる。 † クラウド(雲)。 例えば、牧師が聖書の註解書50巻を購入すると、大きな書棚を用意しなければならない。別の註解書や様々な辞書を揃えると書籍に囲まれることになる。費用も膨大で、特別な収入でもないと必要な本が買えない。このような出版物が「紙」から電子データーとなって、インターネット上の「クラウド・サービス」に載せられている。主に、英語版であり、日本語版の註解書が電子データーになっているのを、まだ聞いていない。この様な、入れ換わりは、近年の大きなメリットを教会にもたらしている。電子化された本は紙媒体の書籍の五分の一になる場合もあり、貧しい牧師にはありがたいことになる。何十冊分のデーターを用いていて、クラウド仕様になっている事を知らない事もある。実は机上ではなく、クラウドの中にあって動いているのである。「クラウド」 は見えない。同じように、私達の全能の神も見ることは出来ないが真実である。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン」 1テモテ1・17)
- 「入れ換える」(5)入れ換わり(5) † 神の神聖に置き換わる。 神の質と人間の質は同じではない。私達は主なる神に圧倒的に愛されているのだが、神の質と同じになる事ではない。神の子とされる特権を持っているが、神と私には明確な「質的差」がある。この理解が「恐れとおののき」を、私の中に生みだすのである。驚くべきは神の御心である。「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました」2ペテロ1・3) 生命と敬虔(神聖)が「主イエスの神としての御力」で、既に与えている。と宣言している。その第一は信仰なのだが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」エペソ2・8)わかることは信仰も、神からのものなのである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です・・・・」2コリント5・17)神の神聖(質)は虹のような七つの色彩の輝きをクリスチャン人生に加える。そのために主イエスに依り頼む生活を求められる。神の御心は、あなたを主イエスに似た人にする事であり、新しい力を 与えられた人として、生きることである。 † ふさわしい家。 独身生活では一部屋でも過ごせるが、家族を持つとも成れば、部屋数のある家に移り換える必要がある。また、就職や学校のために移住すると、今の環境は置き換わることになる。主イエスは「・・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」ヨハネ14・2)といわれた。主が復活後に行かれる天国に「私達の場所(住まい)」を備えられている。私達は国籍を天に持つ(ピリピ3・20)だけでなく、住まいをも与えられる。その「場所」は愛に満ち、喜びと平和に満ちている「住まい」なのである。わかっている事は「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」マタイ22・30) 私達は天の御使いのように性別に支配されず存在し、その姿にふさわしい場所へと入れ換わる。復活した幾億万の聖なる証人と共に私達は喜び歌い、永遠に御神をほめたたえるのである。
- 「入れ換える」(4)「入れ換える」(4) † 入れると元に戻らない。 注意書きに書いてある。「これを入れると元に戻りませんご注意下さい」慣れ親しんだ環境がなくなって、新しい環境に成りますよ、と言うわけである。そんなことが多々あったのがプログラムのグレートアップ(バージョンアップ)である。全体が更新され、新しくなり、進歩しているのだ。しかし、あるものによっては以前のままの方が使いやすいと思う事がある。時代が進むにつれて、セキュリティ(危険や脅威から守るための段取りや手段)が高度に必要になってきている。そうすると古いものを新しいものに入れ換えねばならなくなる。メーカーが古いバージョンのアップデートを中止するからである。何とか別の方策を見つけ出して、今のままで使い続けるようにして行きたい。人間の創り出した物は常に「新しい物への」入れ換えを求める。しかし、人間を創られた主なる神は、信じる者の中に住まわれる。かえって内側からお働きになって、私達を新しい者へ、キリストの似姿に換えて行かれる。キリストに関心を持てば持つほど、誰でも新しくバージョンアップして行くのである。 † 告白、宣言の力。 私達はキリスト者として、使徒達の教えに従って今日を生きている。信じている事を明確に本物にするのは、告白であり宣言だと心に強く留めている。「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」ロマ10・8)もう一つは「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます」マタイ10・32)公に告白されない信仰は、確たるものではない、と思うのである。私の人生の入れ換えは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2・20)の信仰宣言にある。この「入れ換え」こそが、生きる事の素晴らしい現実だと確信できる。この事を恐れる人の原因はなにか?生きる事が「自分が在ってのこと」と思っているのではないか? しかし、人間は神にあって死んで、生きられるのである。それを与えて下さるのが主イエスキリストなのである。
- 「入れ換える」(3)「入れ換える」(3) † 連続の非連続。 「通る」と言うことはいろいろな意味で用いられる。著名な学者に対しても「彼は○○を通っていない」要するに、重要な学説や、人物について未学である事を指して使われる。学者ともなると、多くをマスターして、落ち度のない論理を求められるわけである。学び舎で、教授が特に強く訴えた重要事項が「連続の非連続」であった。幅広く用いられる言葉のようであるが、信仰の内容について語られたように思い出す。私達は生き続ける事を連続しているという。しかし、キリストの救いを信じた時、連続は断ち切られた、非連続が発生した。キリストを知らないで連続して生きていた自分は、十字架の救いを基点に、キリストを知る神の子に「入れ換わった」これが「連続の非連続」である。その儀式が「洗礼式」で「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」ロマ6・4) 「葬られた」とは連続の終わりである。「非連続」の意味がわかれば、新しい歩みを主なる神が導かれるのである。 † 自分でない自分を見る。 これは二重人格の話ではない。主なる神が聖書で約束されている「新しい人」としての自分である。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5・17)このように入れ換えられた自分を「見る」と言うことは驚きである。最たる実例は主イエスである。全き人間でありながら、神であることを生きられた。今や信仰によって、私達も人間でありながら「神の子」という特権を持って生きるのである。そこで大事なのは、主が父なる神に倣って生きられたように、私も主を見上げて聞く事、見る事、行う事、語る事に努め、悟りを広げ、知っていく事である。そのようにして新しい自分を見れるのである。それを一番の務めとして喜びながら、主の知恵を頂き、主の生命と御力を解放し、真理の奥義を教えられ、新しいことをやりだして行く。まさに、老いることを忘れてしまう新しい挑戦である。そして、今まで以上に神の子の特権を行使できると思う。
- 「入れ換える」(2)「入れ換える」(2) † 真実が上塗りされている。 聖書はなぜ「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」ヤコブ4・9)と、語るのであろうか?それは新約時代の一世紀も、今日も教会は同じ問題を抱えているからである。現代は特にそうだが、教会は人間の好むことに逆らわない。人間の嫌う言葉を封印し、楽しさと喜びを提供し、素晴らしい音楽に招き入れる。これが未信者のための招きの集会で行われるのなら理解されよう。しかし、終末時代に生きている私達を、忘れさせるような喜びと楽しみの教会は、どうなるか?「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」マタイ25・3)のような教会になる。笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。とは、「喜び、楽しみ」の自己欲求の生き方から、悔い改め、砕かれた心で神に従う生き方をせよ。すなわち「変えなさい」→[英] turned→[ギ]メタストレフォ「変換せよ」となる。クリスチャンは、人間の真実のために「泣き・悲しみ・嘆き」に変換された人種なのである。だからこそ、主なる神の慈愛の中に私達は生かされる。また裁きの座にあって、勝ち誇れるものとなるのである。 † 主イエスが私を変換された。 単に変えられたものは、またもとに戻る。どんなに美しくメッキがされても、いつしかメッキは剥がれ地金が現れる。「新しく生まれた人」は、御子イエスの御業を通して、新しい質に変換されているのである。問題は、変換された内容がわからない人間である。罪から救われた事を信じているが「神の宮に、神の子供の特権」へ質が変換された驚きや、真理の喜びが爆発しない。これは、豊かな現代の中に生きるキリスト者の持つ信仰の障害である。今まで思うように生きてきた事が、安全の保証となり、神への全き信頼をはぐらかしているのである。しかし主なる神は、その様な私達を知っておられる。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12・6)変換されている「質」そのものが現れるように、火を持って精錬される。すると、「・・・・私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています・・・・」 ピリピ3・8)と心から、告白できる者になる。
- 「入れ換える」(1)「入れ換える」(1) † 確実に換える。 換える、代える、替える、変える。という言い方がある。これから用いるのは「換える」である。換えるは「交換」の意味で使うのが、ほかの「かえる」との違いに挙げられる。「あるものと引き換えにあるものを得る」 「あるものを手放すことによって、別のあるものを手に入れる」さて、新会堂も献堂から17年が経ち空調の経年年数を超える時期になった。今後の故障に部品の調達が出来なくなるのである。この度、最終的な点検と部品交換を行い、3~5年をめどに機器の入れ換えを求められる。ガスの空調機から電気の空調機に換えることになる。小さな一室で冷房を使うと、大きな室外ユニットが稼働し大きな燃費のロスが生まれる。これが今の現状である。このロスを解消する入れ換えの手始めとして、3階の三つの部屋に、個別の電気エアコンを設置する。ガスからの電気への入れ換えである。燃費の軽減を図る第一歩である。なぜか?今のガス空調機を、新しい同じ機器に取り換えると700万円の見積もりである。私達の教会としては、新しい発想による転換で、設置経費も安い電気による空調に切り換わる事になるのである。 † 自らを手放す。 あるものを手放し、あるものを手に入れる。その、あるものを自分にする。そして自分を手放す。誰に?主なる神にである。何が想像できるか?どの様な「あるもの」を手に入れられるか?真実の「愛」を考えてみるとわかる。愛は、自分の一切を与え尽くす(手放す)ことなのである。主なる神は御子を私達に与え尽くされたのである。だから、これが愛の中の愛(無償の愛)アガペーである。この信仰の知識に従って、私自身を神に手放すことは、主なる神への真実な応答となる。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」ルカ24・27)自分の十字架を負うとは、主なる神の真実に答えて、自らの全てを、主イエスに「手放した」姿である。自分の「あるもの」を手放すとは、一部分を意味する。弟子になれないでいるとすれば、未だ自分は自分として生きて、主なる神に、全てを手放していないと言う事である。主に全てを手放せば、主なる神が、私に換わって、生きて下さるのである。
- 「両刃の剣を握る」(7)「両刃の剣を握る」(7) † 安心の土台。 人は安心を得るために懸命に生きて、安心の実態を得たいのである。私達がキリスト者であると言うことは、その確実な安心のためであると言えよう。但し、必ず大金持ちになるとか、必ず病気にはならないという保証付きではない。それ以上に重要な「安心」の事実が約束されているのである。「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ヨハネ11・25)罪の赦しが伴い、地獄の刑罰が免除されている。そして何よりも新しい「安心の人生」が与えられるのである。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)神の子供とされ、神の御霊に導かれるので、確実な「安心」がある。このように、キリスト者は、この世の生において、神の御霊に導かれることが最重要なことなのだ。その結果、生活が祝福されるのである。では、何が両刃の剣となるのか?偉大な安心を与えられた私達が、神の御霊に導かれることよりも、自分の考えて求める安心に、導きを求める事だ。神は義の審判者として、その不従順を裁かれる。その人はかろうじて「・・・・自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」1コリ3・15)一方、神の御霊に導かれる人は天に宝を積むのである。 † 人を活かす両刃の剣。 両刃とは、私達の現在の「生と死」であると考えたい。今の生は、既に死を克服した「生」である。その実証は、私が生きているのに「死んでいる」という事実がなければ成り立たない。でなけれは、私達は口先の信仰を唱えているだけである。「自分が明確に死んでいる」事実を提示しない信仰は「死」の欠けた信仰ともなる。キリストも「死」があって「生(復活)」があった様に、キリスト信仰には、私が明確に死んだという奥義を実証すべきなのである。サタンはこの奥義の明確化を恐れている。キリストの命が、信仰に、教会に爆発的な力を現すからである。「私はキリストとともに十字架につけられました。・・」ガラテヤ2・20)同じように、私達は最大級の喜ばしい事実として「自らの死を」宣言する。父なる神は御子の死を最大に評価された。私達も十字架に自らを「つけている」なら、あなたと人生に神の生命が現される。これが生と死の両刃の奥義となるのである。
- 「両刃の剣を握る」(6)「両刃の剣を握る」(6) † 楽あれば苦あり。 江戸のいろはかるたにある言葉で、苦あれば楽ありとも言われる。人生を言い当てた言葉として知られている。楽をする、と言う意味には「怠ける」と言うことも含まれていて、そのお返しとして「苦しみ(厳しい要求)」がやってくる事を警告している。パナソニックの創始者の松下幸之助は、家内工場から辛苦を糧として、努力に努力を重ねた。経営の神様とも言われるほどになった。その経営の土台は、従業員を家族として苦楽を共にする精神にある。苦労が多かったことが、楽を共有する事を理念とした。高度成長期に事業が繁栄した若き事業家が大勢いた。そのような楽な時に、次の時代に備えなかった者は、時代の波にのまれて破綻してしまった。景気が糸偏から金偏へ、今やデジタルとかハイテクと言うのだろうか?いずれにしても、人生には知恵が求められる。「知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ」箴言4・7)それは永遠に生きるための知恵である。持てる財産に執着し、永遠に生きられる知恵に盲目になるなら、永遠の苦も刈り取るのである。 † 神のみが知る人の未来。 戦争を仕掛け、近代兵器で都市を壊滅させ、当然ながら限りない人命を死に追いやった。人間が、自身の正当化を訴えて出来る仕業である。ローマ帝国時代後期に、カイザル(皇帝)を礼拝する法律を作り、これまでの宥和(ユウワ)政策の信教の自由を撤廃した。それによって、ロマ帝国内のキリスト者を、カイザルへの反逆者として、あらゆる方法で迫害し死に追いやった。こういった法律も非常に個人的な邪悪な心情によって作られるのである。大義名分のもとに、行動の理由ずけをし、根拠として大量殺戮も平然と行う。救い主キリストも裏切り行為によって捕らえられ、死刑を宣告される。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」マタイ26・24) このユダは極みまで神に愛された人だった。しかし、神の真実と正義に逆い、自分の立場を楯に暴虐を行う者は、神の 審きで地獄行きの罰を受ける。「そういう人は生まれなかった方が良かったのです」 そこに落着がある。
- 「両刃の剣を握る」(5)「両刃の剣を握る」(5) † 規制か自由か? アメリカには痛ましい事件が多い。この度の銃による乱射事件である。米テキサス州南部ユヴァルディの小学校で、小学生19人と、教師2人が犠牲になった。銃の規制を叫ぶ民主党と、銃規制に否定的な共和党の対立が、平行線のまま続いている。共和党は保守的キリスト教団体を基盤とし、銃規制に強く反対するNRA(全米ライフル協会)会員数500万人も有力な支持団体としている。設立されたのは1871年の南北戦争直後という歴史の古さである。キリスト教国としての、クリスチャンの役割は大きいはずだ。福音に根ざした論理が影を潜めるようでは、人々は立ち上がる力を失ってしまうだろう。身の安全のための銃の所持が、銃を所持していない、多くの人々の命を奪う絶え間ない事件が社会現象となっている。その原因を「銃が人を殺すのではなく人が人を殺すのだ」と言い逃れるのである。「そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」マタイ26・52)アメリカはいつまで、身を切るもろ刃の剣を握り続けるのか?・・・・代償の余りの大きさに痛みが伝わってくる。 † 霊的な両刃とは。 教会は霊的な実績を求めている。教会の具体的な成長を見ることであり、教会の増殖(セル活動の拡大)である。教会施設以上に福音宣教の実質が重要である。霊的な力が、力ある教会(兄弟姉妹)を生み出し、宣教の実際に至る。第一に、イエス・キリストは神の具体的な力である。第二は、信じる信徒(私達)が、神の力を身に帯びる事である。世の力に対抗出来る証詞力があることだ。私達は、聖書を学ぶ信仰の理解者であるが、それ以上に隣人に福音の影響力を与えるのである。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」1ペテロ5・6)へりくだるとは、私の中にある、キリストの神聖にふさわしくない欲望や、性質を切り取られる事を、神に許可を与えることである。神の両刃に切られるなら、キリストにある、恵と力に満たされる。贈り物として偉大な約束を与えられる。これが力ある霊的なキリストの資質と力とを身に帯びるのだ。
- 「両刃の剣を握る」(4)「両刃の剣を握る」(4) † どんでん返し。 コロナウイルスによるバンデミックが三年に及んで、未だに終息のめどが立たない。全世界で627万人もの人が亡くなった。人間の文明が進むことによって、地球の自然環境は侵食され、破壊されてきた。自然の環境の中に息づいていた原生ウイルスは、破壊者によって目ざめるに至る。ウイルスの逆襲が人類を襲うわけである。このようなことは、これからも起こることに違いない。人間は被った打撃にはしばらくは静かにするが、またもや欲望に駆(カ)られて動き出してしまうのである。甘い汁を求めることは、両刃の剣となる、自分も大きく傷つくリスクを背負うことだ。オゾン層の破壊現象も、人間の消費文化と利便性を優先する人間の欲望が生みだしたものである。自然環境を侵略すれば、その、お返しが必ずある。日本が、時の勢いにまかせて侵略戦争を起こしたが、その、どんでん返しは、いかほどに大きな代償であったか。ロシアのウクライナ侵攻によって、どれ程の代償を負わなければならないか見物である。 † 車輪は回転する。 車輪の頂点にある所は、一回転すると最も低い位置(下)になる。その逆も然りで、最も下にある所は頂点に達する。世の中を見渡せば、このような現象が人生に起こる出来事だとわかる。「私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」 伝道10・7)賢いソロモン王はこの現実を見て、戸惑いを感じたのだ。第一に不条理過ぎる。しかし、現実に、ずる賢い者が世の中の高い地位について、時代のために有能な人が、かえって日陰の目立たない所に置かれる。だが、全世界の神であり全能者は、時が満ちるまで、ご自分のしもべである私達の中に働いて、ご自身を現される。まことに、神に選ばれた私達が、王として、祭司として「神の国」を築き上げているのである。間もなく、王の王のキリストが王座につかれる。そのために、私達はキリストの来臨に備えているのである。今や栄華を誇るサタンの支配も、終わりに近いのだ。私達は、キリストに義とされた兵士でもある、聖なる武具を身につけ、惜しみない名誉と価値を与えられ、信仰に立って歩みを続けている。そして、神の摂理の車輪は確実に頂点に向かって動き続けているのである。
- 「両刃の剣を握る」(3)「両刃の剣を握る」(3) † 刃を砥ぐ砥石。 「研(ト)ぐ」目的は鋭く切れるようにすることである。両刃であっても研がれないと切れない。包丁でさえ刃先が摩耗(マモウ)すれば、切れないことにイライラする。木を切る鋸(ノコギリ)も同じで、扱いを知らない人が無理をして使ったり、刃先を痛めたりすると、真っ直ぐに切れず歪んでしまう。本職の職人は常に手にする道具(鑿(ノミ)、鉋(カンナ)、鋸)などの切れ味を鋭い状態にしている。鋸は専門の研ぎ屋(目立て職人)に委せるのが普通である。それほどに高度な技術を要する。カンナやノミは砥石を持って研ぎ上げる。鋼(ハガネ)の硬さや性質によって、刃先の仕上げ方がある。このことから学べることは、主なる神は、個々の私達を「研いで」鍛えて、建て上げられる「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル12・11)人生を神に研がれて鍛えられ、役立つ者にされるのである。その人の信仰は切れ味鋭く、その人は暗闇を切り裂く福音の使者とされる。 † 自らが切られる。 切られる。と言うことは怪我をする、または痛いという事だ。しかし、切られるとは死を意味するのではないか? 私達は聖なる神を信じる。また、神の義(正しさ)を信じる。このことは必然的に、神に似るように求められる「それは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです」1ペテロ1・16)そうすると、私の内容のふさわしくない部分は「切り取られる」対象である。私の肉の性質がありのままであり、私の内容に悪魔の要塞となる部分があるならば、私は聖でも義でもない。神の愛を、十字架の赦しを隠れ蓑(ミノ)にしているに過ぎない。このことに気づいて覚悟した。自らを晒(サラ)して現そうと。神の聖と義の両刃の剣に切られることを受け入れたのである。それが私のキリスト信仰の内容になった。十字架と復活と聖霊の力の福音が、私とオーバーラップ(重なり合う)自然体が生みだされてきた。国籍を天に持ち、今は地上で福音を喜び、楽しみながら生きる事を赦されている。主なる神の幸いなご計画に感謝し、御名をほめたたえるのである。
- 「両刃の剣を握る」(2)「両刃の剣を握る」(2) † 懲らしめられる幸い。 母の日である。母は子を教え諭して、賢く育てる。「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す」箴言5・23)懲らしめがない、とは、叱られたことがないほどに甘やかされ、心が成長していない子供のことである。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12・5-6)私達が教会に集う目的は、年令に関係なく、神の子供として、聖なる父(神)から訓戒(懲らしめ)を受け、世の中の罪悪の力に屈しないで、正義を重んじ人々を愛する生活をして行くためである。母は賢く我が子の心を見抜いて、正しく叱り、愛情を注いで勇気を持たせてくれる。神は、聖書の言葉を通して、全ての人に自信と力を与え活かして下さる。このように人生を切り開き、知恵と知識の鋭い両刃の剣を握る者となる。母が聖書に従い、子を育てることは、最高の人生を与えることである。 † 慈しみと厳しさ。 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです」ロマ11・22)「慈しみと厳しさ」は、相対する言葉だ、まさに鋭い両刃の切れ味を感じる。私達が受け取った、神の慈しみの中に留まり続ける限り、神の厳しさに切り落とされて、倒れることはない。私達は、神の御言葉を軽んじないよう注意しよう。「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」出エ34・6-7)父は私達に憐れみと、恵みを千代までにも与えようとされている。私達は十字架の愛で罪の刑罰を赦された。その恩義を忘れず、この父の慈しみの中に生き続けるのだ。そうすれば三代、四代にまで続く神の呪いの罰を、私達から、永遠に追い払う事が出来るのである。ハレルヤ!
- 「両刃の剣を握る」(1)「両刃の剣を握る」(1) † 聖書の両刃の剣。 世の中の常識的な「両刃の剣」と言う意味は、相手を切ろうと剣を振りかざすとき、自分も傷をおう可能性がある。また相手に打撃を与えても、それなりの打撃も受けること。日本刀と違って片刃ではなく、自分に面する裏側にも刃があるので、危険性を持つのである。聖書にも、この両刃の剣が出てくる。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」ヘブル4・12)神の言葉は、私達の救いを保証する約束の言葉である。しかし神の言葉は、今も力強く活きて働いている。しかも両刃の剣よりも「鋭く」私達の霊と魂を刺し貫く。誰が刺し貫かれるのか、現在の私達クリスチャンである。では、私達は神の言葉で傷つき打撃を受けるのであろうか?・・・・決してそうではない。ただ、キリスト信仰を公言しながらも、主イエスに対する「心の信仰」を実際に発揮していない人々の、不誠実さや勤勉さの欠如を、刺し通して明らかにされる。誰も隠しきれないのだから、悔い改めよ。と、言われるのである。人間の肉性には鋭く刺し通す両刃の剣なのである。 † 聖書のアイロニー。 聖書は実に機知に富んだ書である。要するにアイロニーに富んでいる。先頃もヤコブ書3章の御言葉を暗唱した「私たちは、舌で、主であり父である肩をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです」9-10節)自分の実態を言い当てられて、誰も返す言葉もないわけだ。私達は日常生活の中で、両刃の剣を握らせられている。上記の「舌」である。善の世界を生みだすことも出来、悪の地獄を生みだす事にもなる。常にキリストの支配下にある事が、私達の最善である。と、いうことが語られているのである。人間の努力で、舌(唇)を制する事など出来ないからである。善と愛の最高位にして、最も恐るべき審判者である主なる神を畏れる事が、最も知恵があり、分別のある人なのである。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」箴言1・7) 知恵が分別となり、自己を制御する力となるので、舌もまた制御されるのである。
- 「喜びの極みとなる」(7)「喜びの極みとなる」(7) † 主なる神をほめたたえる。 春になると、宣教師が語ったことを思い出す。「新芽が出てくると、枝に固まっている枯れた葉は、すべて落ちる」いろいろな意味を持つ事実である。救われた人の新しい生命の実体でもある。キリストの復活の生命が実現した新世界秩序でもある。神の神聖は被造物に顕されているのである。創世記の49章にはヤコブの死が、50章には、ヨセフの死が詳細に記録されている。旧約の聖人の求める死は「自分の民に加えられる」ことで、先祖アブラハム、イサクと同じ墓に入る事を強く望んでいる。彼らは地上で神の語りかけを受け、豊かな導きを与えられた。しかし、自らが復活し新しい身体になる信仰は告白していない。所が、私達は驚くべき事実の中に招かれている。復活した主イエスは40日間、弟子達と共に地上におられた。その主イエスのお姿こそ、私達の新しい身体なのである。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)そのために、私達は召され選ばれた。そのゆえに、ひたすらに、ただ、ただ、測り知れない恵みのゆえに、主なる神をほめたたえる。 † 人間の求める究極。 私達は:どのようにも生きる自由を保証されている。だから私達はキリスト者である事を選んだ。それは、真実で最も理に適った生き方だからである。だから、この福音を恥としないで証詞をすることが最も重要なのである。日本の現代小説家として知られる、川端康成と、三島由紀夫の生き様を探訪するドキュメントを、テレビで観た。川端は平和主義に、三島は、武士道の懐古主義に突き進み、最後は、日本の未来を期して割腹自殺をした。川端はノーベル文学賞を得たが、自分の理想とする美学が、衰えによって追究できなくなり自殺した。これは何を意味するか? 自分の理想を極限まで追究する人間の姿である。この二人が代表するように、いかに優れた能力を持ち、作品を残したにしても、それだけでは人間の完成ではない。と、言うことだ。人間は既にある社会(世界)から生まれたのではなく、無からでもなく、神から創造された事が、全ての究極なのである。この事が根底にない人生は、最後に自分の納め処が無いのである。
- 「喜びの極みとなる」(6)「喜びを極みとなる」(6) † 死からよみがえる。 人間が万物の霊長であろうと、最も優れた能力を持っていようと、人間は死を究極として終わるのである。素直にこれを喜ぶ人がいるだろうか?古代エジプト王は、巨大なヒラミッドを自らの墓とし、永遠の命のために、死してミイラになった。中国の始皇帝は、死に抗(アガラ)い、不老長寿の霊薬を捜しだすように、国の隅々にまで命じた。 彼が病になると、宮廷の医師たちのすすめる不老長寿の薬として、水銀を飲んでいたという。人間は、やむなき自然の死に定められたのであろうか?明確な答えは聖書にある。人間の始祖が神に不従順の罪を犯した結果、人間は「死」に定められたのである。聖書は人間の究極の敵を「死」とする。悪魔の策略は、人の死を美化することである。死を忘れさせて、キリギリスのように、我が世の春を歌わせることである。キリスト者はだまされてはならない。神が独り子を十字架にまで従わせられたのは「人間の死」を征服するためである。死への勝利として、主イエスは死の墓から甦られたのである。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます」1コリ15・25-26)宣教の重要性は、敵である死から人々を救い出す事である。 † 聖なる感覚。 尊敬する師が病床に伏され、その時が来た時の事を日記に残された。「私の時が来た、厳粛な時だ」71才の若さで主の御許に行かれた。地上での私達の喜ばしい生活や感覚は、天国での前味として捉えたい。見る美しさ、聞く妙なる調べ、愛の強い結び合い、喜びの甘味の味わい、など。この幸いな感覚は、永遠の御国で新しい身体で生きる私達の内に引き継がれる。信仰を与えられたならば、造り主の創造の御業に感動し、あらゆるすばらしさに心を向けて、神を崇めたい。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」 ロマ1・20) 地上の事柄に埋没していると、その感覚は死んだようである。しかし、神を崇めて全ての御業に感謝し、心を向けるときには、永遠に繋がる聖なる感覚を甦らせるのである。
- 「喜びの極みとなる」(5)† 決着をつけないまま。 学校でテストがある。誰もが答を出して答案用紙を提出したいと思う。中には答がわかっているけど、あえて書かないという、特別な理由を持つ人もいるかも知れない。私達は幼いときから、答にたどり着くことを学習してきた。それが生きるために正しい判断力となるからである。学習能力が即、人間の幸福に直結しているというわけではない。学習に賢かった人が、人生の幸福では道を外れてしまった人を多く見る。私達は、人間である自分について答を出さなければならないのである。人間である自分を、どのように何を持って学んだか、それによって明確な答を出すことが人間の責任となる。私達は聖書の神から、人間の由来となる事を学び、未来を教えられたのである。自分が誰なのか、結論となる答を与えられたのである。保証として、主イエスの十字架の事実と聖霊の証印「・・・・あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」エペソ4・30)をいただいている。ただ、多くの神の聖徒が、自分である事への明確な答を知りつつ、その通りに生きる決着をつけないで、曖昧のままに生きて、喜びの極みに達しないことである。 † 新しい発見と喜び。 結婚50周年とは長いようで、いつの間にかそうなった。それほど私達は共働し伝道と教会形成に一心だったからだと思える。その記念の旅行として東京に出かけた。妻は修学旅行で一度、私は二十代の時にスクーリングで一週間と、代々木での聖会、その後の武道館での聖会以来で、互いに何十年と東京に行ってはいなかった。三日間のツアーでは、天皇陵から皇居、迎賓館や築地や浅草など、東京を縦横無尽にバスで見学できた。中でも:ホテル・ニュー・大谷の大きな日本庭園内に可愛いチャペルがあり、牧師のボブ夫妻と交わりが出来たことである。ビリー・グラハム東京大会で、このホテルに、グラハムが宿泊した事を機会に生まれた教会で、全世界からの宿泊する方々のため、毎日教会はオープンしている。もちろん、宿泊以外の方も礼拝に参加できる。東京の著名な大ホテルが無償で牧師夫妻を住まわせ、教会の必要を認めている姿勢に感動を覚えた。東京に行ったら、是非、日本庭園にあるチャペルを訪れて貰いたい。
- 「喜びの極みとなる」(4)「喜びの極みとなる」(4) † 既にあるもの。 「長寿遺伝子は誰もが持っている」今や100才以上に長生きして元気はつらつと人生を横臥している人々が珍しくない時代となっている。このような人々は特別な遺伝子を持っているのではないか?と思われがちだが、長寿に関する遺伝子は2011年段階で30個以上発見されて誰もが既に持っている。Sir2(サーツー)遺伝子と呼ばれ、レオナルド・ガレンテ教授(米)によって発見された。この遺伝子の特徴は「エサガたくさんあって、ぬくぬくとした環境に育った酵母菌には活性が無く、エサが乏しく、外気温も寒い環境(冷蔵庫に2ー3ヶ月)放置された)で育った酵母菌では活性が認められた」要するに、酵母菌が活発に活動していない状態こそ、長寿遺伝子の発現をもたらす、というのである。人間に置き換えるならば、食べ過ぎ、ぬくぬく生活をする環境下では、長寿遺伝子は活発に活動できない、と言う事である。カロリー制限をする事、かっての洋服が着られる迄に戻すようにすれば、百歳長寿者の仲間入りも可能となる。長寿と共に「幸福」も神は与えている。これも霊的なダイエットを求められる。「・・・・あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい・・・・」ロマ12・1) † 立ち上がるだけ。 真理は、本当なのだから認めるだけである。そのように信仰とは真理を本当として宣言(告白)することである。誰もが、そのようにして主イエスを、救い主として信じたのである。次は当然のこととして、信じた真理の本当の上に「立ち上がるだけ」である。これを子供らしいとは言わない。大人の行為なのである。自分の中に、大きな好ましいことがあっても、「真理の本当」は変わらない。また、自分の環境によっても変わらない。だから立ち上がる。立ち上がれば、自分が明確になる。このように立ち上がる事が、キリストと共に歩むことである。私達の生き方は証詞となり、人々に注目される。これが、キリストを恥じない。と言う本当の結果を生みだすのである。主イエスが、父なる神から授けられた、誠の栄光と力は、主イエスと共に、立ち上がっている私達にも与えられる。「主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」 2テモテ4・17
- 「喜びの極みとなる」(3)「喜びの極みとなる」(3) † 幸せで長生きする。 地上の生活を生きる上で「幸せで長生きする」ことは、人間の求める最上級のことである。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です」エペソ6・2-3)先日のベテル幼児園の卒園式でも取り上げた御言葉である。「あなたの父母を敬え」という誡めに、主なる神が「幸せと長生きする」祝福を最初に約束されたのだ。私達は、誰かの子供であるはずだから、あなたは父母を尊敬しているか?と、問われているのである。あなたの中で「父母を敬っている」ならば、とても健全なのである。神が創造者として存在するものの父であるように、父母とは、あなたを存在させるために、選ばれた神の代理者なのである。善い父母、悪い父母に関係なく、主なる神にあって敬われる存在なのだ。私達が新しく生まれ変わっているならば、神を畏れ神を敬っている。だから父母がどうであれ敬うことが出来る。しかし、主なる神を畏れることを知らない人は、父母を敬う事が出来ないか、不十分なのだ。このような関係が、幸せと絡(カラ)んでおり、長寿も絡んでいる。 † 逆説的な喜び。 「逆」 (さからう。さかさま)の意味だが、聖書には人間の感覚的な捉え方とは全く違っている事が多い。極みという領域は、だいたいにおいて逆説的である。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」 ヨハネ12・25,[参]マタイ10・39)人間の感覚のことを聖書では「肉(の性質)」本能と結びつけている。人間の本能は、自己保全、自己尊厳という自我に基づく判断をする。それだから聖書を素直に受け入れられないのである。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」 マタイ1039)このような御言葉は「頭」では理解できるが「本能」には異質物として理解できないのである。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」1コリ12・3)聖霊に導かれている人が、喜んで十字架に死ぬことを選び、キリストと苦しみを伴にできる。そして、この逆説的な大いなる祝福と喜びを与えられる。
- 「喜びの極みとなる」(2)「喜びの極みとなる」(2) † 至りつくところ。 神によって創られた私であり、主イエスによって新しく生まれた私である。それがクリスチャンを言い表す宣言である。問題は実感している内容(信仰)である。その極みとなる内容は「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです」1ヨハネ4・18)である。これは全てのクリスチャンが地上生活で、到達を求められている「喜びの極み」である。旧約聖書には「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」雅歌8・7)と宣言されている。これは、主なる神が私達の内に創造される神の愛(アガペー)なのである。この偉大な私達への御業に、無関心に生きて良いわけがない。愛は「こうすればこうなる」というノウ・ハウの世界ではない。生きている者が、最上級の恵みとして受け取れる神の力は愛である。主イエスから受ける神の愛が、私の毎日の信仰生活を通して完成することである。想像する絵でも、言葉でもない、極められる実態である。 † 家族の中に守られる。 家族とは、年長者から赤子までが共に繋がって生きている。強い者も、弱い者も同居している。教会に属する私達も、同じようにキリストによる家族である。家族には先祖があるように、キリストの家族にも、キリストの使徒達から、これまで名だたる先祖が神と共に生きている。強い信仰で戦い抜いた人も、殉教を厭わなかった人もいる。そのような強い先祖ばかりではない。限りなく弱い人もいれば、人生半ばで戦火に遭ったり、天災や病い、事故で神の御許に帰った家族もいる。キリストの家族の喜びとは何か? それは、全ての信仰の家族の父として、神がおられるということだ。私が強かろうが、弱かろうが、信仰が篤かろうが、:薄かろうが、父なる神は「子」として平等に愛される。「神にはえこひいきなどはないからです」 ロマ2・11)これこそが信仰の偉大な極みである。このような慰めがあるのだから、生きている間に、もっとキリストの栄光に生きよう。もっと信仰の従順に生きて、喜びと平安を体得して行こう。
- 「喜びの極みとなる」(1)喜びの極みとなる(1) † 極みにいたる。 生きていると言う事は「途上」を意味する。極み(物事の行きつくところ。極限。限り。)に達するための道程に私達は置かれている。何事にも極致というものがある。剣術の極致ともなれは、相手の心の動きを見通して勝負に勝つ。感覚が研ぎ澄まされた職人芸による作品には極致に至った逸品が多い。もはや真似が出来ないのである。今日も人間国宝といわれる人々は、極みを会得した人々と見て良いのである。確かに世の中には、そういった特別な人々がおられる。万人が出来る事でも、関われることでもないのである。凡人にはどうしょうもない世界があるということを受け入れる。しかしながら、誰にでも共通して与えられている「幸せ・喜び」を極めることは、人間の特権であると思う。喜びの極みとは何か?喜びの極みと「なる」ものは本当に何なのか?生きている自分に即して考える事は大切な事である。やはり、喜びの極みを会得したい、という思いがある。生ける御言葉と聖霊がお働きである中で、どの様な状況にも損なわれない、極みとなる喜びを得る事はあり得るはずだ。理論ではなく、永遠に持ち込める体験として、極みを会得したい。 † 何ものにも損なわれない。 人間の生活は一瞬にして変えられてしまう。それが、いま見ている戦争である。美しい町並みも、親しんだ景色もミサイルや空爆で壊されてしまっている。生活の場も財産も消失してしまう中で、人間には何が残されるのか?ここでは、生き延びること、即ち生命が最大に優先される。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 創2・7)人間とは魂を持つ者のことである。ここに重要な手掛かりとなる真理がある。原初に神が形づくり、神が生命の息(霊)を吹きこまれたのである。人間を歴史上に見、国の政治や経済産業に見、環境や人間関係に見るのであれば、世界には大きな格差に生きる個人がいる事になる。また、その格差は人間の不平等をあからさまにする。しかし、地上の不均一を乗り越える道は、人間共通の「原初」にある。人間を創られた創造者の父なる神がおられる。一人一人を神は力と豊かさを持って助け守られるのである。
- 「らしく生きる」(7)「らしく生きる」(7) † キリスト者らしい人。 今から100年も前に、内村鑑三は「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」という本を英文で書いた。16才から34才までの体験と精神的成長を綴(ツヅ)たものである。クラーク先生(札幌農学校)の残した「イエスを信じる者の誓約」に、新渡戸稲造達と共に署名した。政府の行政や機関、水産課に勤めたが、渡米し、大学を卒業する。その後、神学校でもしばらく学んだ。今や、この本が現代語に直されて誰でも読めるようになった。光文社「古典新訳」で「ぼくはいかにしてキリスト信徒になったか」である。文語調の日本語のものもある。素直に、現代の私達は「らしいキリスト者」を目の当たりにする。内村鑑三が、キリスト者であるために受けた迫害は、彼が本物であるがためであった。気骨のある彼の信仰は、日露戦争に反対する「戦争廃止論」を発表した。私個人としては、二十代で「ロマ書の研究」上下巻、「求安録」「人生の最大遺物」等を読み、大きな前進を与えられたことだ。内村鑑三の著作全集もあるが、内村鑑三は日本の精神史における、第一人者である事も、知っておくことである。日本の先人クリスチャンから、学ぶ事は誠に「大々」である。 † 悲しみに向かって。 人は生まれながらにして、身に引き受けているものがある。ある人は障害であり、不治の病であり、変えられない環境もそうである。早くして子供や夫を、妻を亡くす事も、心に悲しみを背負って生きることにもなる。今、激しい戦火に見舞われているウクライナの人々は、測り知れない痛みと悲しみを持って、国を離れている。「らしく」とはどう言うことか? 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ロマ12・15)この繋がりで言うならば、当然の怒りをも共有できると思う。理不尽な暴虐を私達は茶の間で見せつけられる。ミサイルや空爆で都市が瓦礫と化してゆく。私達は福音にふさわしく「殺してはならない」 戦争反対と、告白し抗議する。「キリスト者」らしく語り、祈り、行動する。苦しみ、悲しむ人々と一緒になって、神を呼び求めよう。モーセは背後に迫ったエジプトの大軍が、神の御使いによって足止めされている間に、紅海を渡った。後を追ったエジプトの軍勢は海に飲まれた。神は働かれるのだ。
- 「らしく生きる」(6)「らしく生きる」(6) † 試みられて知る。 最近、男性達との交わりで取り上げられた話題があった。主イエスの40日もの断食の後に、神がサタンの誘惑に会わせられた場面である。一人一人がそれが何を意味するのか考え、語り合ったのである。交わされた言葉すべてに意味があり有益であった。主イエスが全き大人として、またメシヤとしての資質を持つ者として試みられたことは言うまでも無い。私達の信仰もそうだが、試練を通して始めて本物であったか、それとも偽物であったかがわかる。逆境の時にこそ、信仰がどれ程のものかわかるのである。主イエスはサタンと対面したが、イエスの信仰を逐一(チクイチ)見つめられたのは父なる神であった。イエスは聖霊により聖なる力の行使が可能であったし、自らが神なのだから自分の意志を行う事もできた。しかし主は、父なる神への絶対依存を示された。また、サタンも承知の神の御言葉を用いて答えられた。主イエスはメシヤとして、ひとときも父なる神から独立しておられなかった。まさに信仰の創始者なのである。父なる神が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」マタイ3・17)と言われたように、正真正銘の救い主なのである。 † 古い革袋にとどめる。 その人が古い、新しいという意味でのことではない。「・・私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)主にある者は、常に新しい人なのである。古い革袋とは、醸熟(ジョウジュク)したプドウ酒にはふさわしいと言う事だ。新しい機能を導入出来ない機器も、古い革袋となる。使い古した道具は、新しい道具には及ばないが利用価値は残っている。「らしく」用いれば十分に役目を果たすことが出来る。過ぎさった歴史もまた、古い革袋のようである。しかし,その革袋の中には、今を判断し、今を学ぶべき全ての宝がつまっているのである。古い革袋を無視したり、むやみに切り裂くと、全ての善いものを失うことになる。新約聖書のために、旧約聖書がなくてはならないのと同じようである。
- らしく生きる(5)らしく生きる(5) † 四苦八苦する。 新しい物がすべて便利ならば、この上ない。しかしながら、その便利さに到達するまでに四苦八苦するのことが多い。自分の手に馴染むのに難しいものがあったり、仕様が複雑で時間を要することが続くと嫌になる。茶の木畑に入る、という言葉を聞いたことがある。茶の木は複雑な枝で絡み合っている事から、手がつけられないときの状況である。らしく生きると言う事は「らしくない」ことを解決しなくてはならないのだが、自分の中に問題があるので、らしくならない。私にはそういうことがある。ある人には、たやすいことが、私には四苦八苦することなのである。その事でようやくクリヤできる。この頃はクラウド(データやアプリケーション等のコンピューター資源をネットワーク経由で利用する)傾向になっている。日頃の使い慣れたプログラムを使うにも変わってきたと感じてしまう。ある人は便利になったと思うだろう。私の様に古い概念を新しい物にするには四苦八苦である。ようやく、らしくなれるのだ。 † 日進月歩してゆく。 日に日に進歩して行くならば、その成長は早いことになる。確かにそういう人がいる。うらやましいことだが、それだけの集中力があると言う事でもある。私達クリスチャンの特権は聖書を読み続けることによって、日々に真理に出会う事である。それが日々の発見であり、進歩なのである。問題は何かと言えば、園人の喜びとする優先順位である。聖書の真理以上に別の喜びが、その人にあるならば霊的進歩は相殺(ソウサイ)されるのである。真理の喜びが優先され、大きくならないと、実際的な霊的進歩がついて来ないと思うからである。朝はあわただしく、主との時間を持つ事は難しいかも知れない。私達には、決めなければならない事がある。主イエスに在る喜びを増したい。という決意である。これがなければ、霊的な日進月歩は生みだす事は、なかなか難しいということである。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12・2)どのような生活の場面でも、主イエスから目を離さないでいること。そして、礼拝の解き明かしに聞く事。自らの聖書から神の御声を聞いて行く事である。霊的な日進月歩は起こる。
- 「らしく生きる」(4)「らしく生きる」(4) † よそおい。 身だしなみのことで困ることがある。年令にふさわしい身なりを考える時に戸惑うのだ。店には溢れるばかりの衣類が売られているのだが、どれが適切か迷うわけである。シニア向けのコーナーに行って買えば良い事になるが、本当に自分に見合ったものかどうか自信が持てないのである。年なのに、年寄り臭いものは買いたくないし、やけに若向きでは、おかしいのでは思ってしまう。こういうわけで自分で買うことに躊躇するわけだ。高齢になってジーパンを普段にはくようになった。これは変革を意味する。なぜなら職業柄おかしいと思っていたからである。ある時、日本人牧師がジーパンで講壇に立つのを見て驚いた。ある教団では絶対に赦される事はないが、形式張らないカリスマ派の人々、我がビンヤードもその傾向を持つ。しかし、公式の礼拝では慎重に装いに気遣う必要がある。若い中高生や青年には形張らない装いが適切だと思える。しかし、心掛けたいことは、私の装いは単に自分のためではなく、隣人への敬意を表すものだと言う事である。これは古い考えであろうか? † 思わぬ事がある。 全てを準備して臨む仕業点検は、どの職場にもあると思う。特に現場では重要である。道具の一つでも忘れていると、はかどりが大変遅れる。このように忘れてしまった、ということは「思わぬこと」なのである。思わぬ失敗が多々あって、今、失敗をしないようになっているのが実際である。思わぬ事というのは、落ち度なく準備し、点検して問題なく確認をして終えたのに、不合格と見なされたり、失格とされることだ。今までとは違った方法での検査によって、オリンピック日本女子選手が失格となった。同情を禁じ得ない。まさに青天の霹靂(ヘキレキ)であった。こういう意味では諦めがつかない。しかし、ここで我が主イエスに目を向けたい。何ら落ち度も罪も、汚れもない我が主イエスが、神の冒瀆者であり、罪人として決定づけられ、地上の裁きで十字架に追いやられた。一言も弁解されず、引かれ行く子羊のようであったという。この地上では、正しい行いをするクリスチャンに、中傷や悪口で批難されることが起こる。思わぬ事ではないのだ。私達は信仰と愛で祝福し打ち勝つのである。
- 「らしく生きる」(3)「らしく生きる」(3) † オリジナル。 一口に「パン」といっても最近は独創的なもの、オリジナルなパンが人気である。その人しか作れない独自のパンという事だ。時間を掛けて研究し、苦労をおしまないで完成させたものである。さて、信仰は人のものを真似したり、盗んで自分のものにしょうとしても全く上手く行かない。要するに体験された福音が、オリジナルな信仰だからである。例えば、早々と聖書を読み通し、教理をマスターしたとしても信仰があるという保証ではない。知ったほどの体験が全く欠落しているのだ。霊的な体験は「身についた信仰」であり、表面的なものではない。サウロは復活のイエスを体験し、180度の生き方の転換をしたのである。主イエスがメシヤである事。旧約聖書の神の計画の実現を体験したのだ。使徒パウロの福音は「主と共に十字架に死んで一つにされた事」この世で生きる事は「神の子の信仰に在りて生くるなり」ガラテヤ2・20永井訳)のように「聖霊と一つにされている」という霊的体験を通して語り出しているのである。信仰を頭に置くのではなく、心に置かないと、30年、40年を無体験のままに過ぎてしまうことになる。 † うらやましいこと。 この年の年賀状で心に残った事がある。故郷の同窓生から「もう魚取りは止めた。川にはほとんど魚がいない」とあった。これほど「恨めしい」ことはない。彼と共に川は人生と共にあったものである。田舎に帰る楽しみは、子どもや孫達と川に行って、魚を釣り:、遊ぶことだった。川が川らしくない有様に驚きを隠せない。それほどに、山の中の川が汚染されているという事なのだ。身近な所に流れる木曽川でも同じ事で、今や夏になっても誰も釣りをしている人がいない。15年ほど前のことだが、浅瀬に行くと泥が舞い上がってきた。水質が悪くなったのた。誠に残念至極である。一方、長良川には河原に人々が群れて、川遊びがされて居る。魚も豊富で、いたる所で鮎釣りが出来る。まさに川は、このように生きているはずである。多くの魚を育んでいるはずである。故郷の川のこと、身近にある木曽川の事を思うと、うらやましい限りなのだ。教会だって形骸化すれば命を失う。どちらも人間の勝手が生みだすものである。
- 「らしく生きる」(2)「らしく生きる」(2) † ホームポジション。 身近な所にも重要な位置がある。毎日お世話になっているキーボードにも「F」と「J」にはホームポジションを示す突起物が設けられている。そこに常に左右の人さし指が位置するためである。その事を意識して文字を入力すると,全ての指を使ってスムーズに文字が入力出来るようになる。これが、あるべき「らしさ」なのである。親指シフトキーボードで、かな文字を打つけれども、ホームポジションに常に人さし指が戻ることが、全ての指を用いる秘訣になっている。私達はいつの間にか我流の打鍵をするように、ポジションを無視しても、なんとも思わないのである。この事が「らしさ」から遠のく事にも繋がるのだ。最も深い霊的生活を持てるのが、私達クリスチャンの特権である。しかし、ある人は自分たちの交わり(教会)に今、与えられている教えや霊的導きをポジションとしないで、自分の関心である、好ましさを求めて、さまようのである。教会的で霊的なポジションが自己流のなのである。次第に、はっきりと現れてくるのは、現実の交わりの中での自分の責務を離れて、勝手で「らしくない」霊性と秩序を持ち、危うさか起こってくる。クリスチャンならば、正しいホームポジションに帰ることで、「らしさ」を取り戻せる。 † 直せば戻る。 施設としての教会には、多くの機材や用品に加え、施設には多くの人々が出入りする。それは壊れるものが多く出ることである。私の出来る事は、建築に関しての修理、水道や衛生機器の修理、電気器具の修理や木製品の修理、その他である。直せる技能があることで、多大な出費を強いられない事もあった。このように物は直せるのである。人間の問題を治せるのは、造り主である神の能力と恵みであり、兄弟姉妹の愛と祈りである。いずれも具体的である事が共通している。人間は「らしい者」から、罪を犯し「らしくない者」になっている。しかし「神には出来る」マルコ10・27)生ける神として聖霊が私達と共にある。救われない罪人がいないように、神の深い愛のもとに癒やされない傷もなく、治らない心もないのだ。私達に出来るのは、徹底的な神への信頼である。御言葉への確信である。人の問題を、物のように直せる事をいうのではない。主イエスの復活の力を受けるならば、暗闇の心も霊も、光りに変わると言うのである。
- 「らしく生きる」(1)「らしく生きる」(1) † クリスチャン以前に。 19才の時に宣教師に出会って、キリスト教会の交わりに加えられた。しかしそれまでに聖書を買い求めて読み始めていた。ガイドブックもなく、ひたすらに修養の書としていた。信じるならキリスト教だと人にも言っていた。「主婦の友」創設者の石川武美著「信仰雑話」を手元に置いて、信仰の一端を知ろうとしていた。なぜかというと、私の内に多くの弱さがあり、克服する必要があると思っていたからである。要するに「男らしくない」自らを鍛えたかったのである。未熟な19才の置かれた環境と、課せられた運命の桎梏(シッコク)に、もがいていたのである。たとえどのようであれ、後ろ指を指されるような男には成りたくなかったのである。今は牧師だが、あの時、一歩間違えば社会主義者になっていた可能性がある。人間の完全な自由と、人間の完全な権利こそ、男として追及すべき事柄であると思っていた。巷の淫蕩や放蕩は、自らを失うことになり、男らしくない思えた。「男」らしくある。ということは、信仰が有る無しに関係なく、良心に恥じない「らしさ」を生きて行きたい。 † ふさわしく在る。 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9・62)らしく生きる事は、ふさわしく生きる。と言う事である。ふさわしいとふさわしくない。らしいと、らしくないが、私につきまとっている。大局的には、上掲の主イエスの言葉が言い表している。神の国にふさわしいのは、うしろのもの(過去を、棄て去ったものを、以前の快楽を、家族愛との別かれ)を振り返らず、前に置かれている、与えられる栄光と祝福に向かって歩み続けるのである。手にある鋤(鋭い御言葉)で現在を新にしてゆく事である。この事で神の国にある喜びと感謝が溢れてくる。「信仰によって前に進んでいる」この「絵」状況が、私達にふさわしい。クリスチャンらしい幸いな進行形である。この人は従順なので、神の国の奉仕が出来る人で、イエスの弟子と言われる人になる。神の国にふさわしい、らしい人には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)が注がれる。
- 「歩み出すとき」(7)「歩み出すとき」(7) † 期待と希望に向かう。 一月も中ばを迎えた。多くの人の歩み出しを聞いたが、特別な歩み出しをしていない人もいるようである。確かに、振り返ってみれば、毎年同じように生きており、決心したことも、日常の事柄に流される経験をしてまうからだろう。三日坊主に終わることを恐れることもあるかも知れない。しかしながら、神を信じる者にとって、期待し希望することは信仰の生命線である。そこには、私という実在が神と係わっているのだから、自分から神と係わらせることが信仰となる。神がして下さるのは、私の信仰があってのことである。この意味で誓願を立てること、嘆願することが年の初めに相応(フサワ)しい。強い教会、力のある教会とは当然、信仰のある教会である。即ち、人としてのクリスチャンが神に願いを持ち、期待し希望している多さと、大きさに現れる。教会の安定期とは信仰がなくても、組織的に事が運び安泰で、成るように成る事である。信仰の停滞期となる。神に期待し祈るよりは、自分の事柄に向かうようになり霊的な衰退が起こる。その回避のため、信仰の刷新を目指そう。 † 一人の救いのために。 私達の教会は「一人の救いのために何でもする」という宣教理念で動いている。そして「人にはできないが神には出来る」マルコ10・27口語訳)という神信頼である。何でもするという人の在り方と、神には出来るという信頼が、同時進行していることを忘れない事だ。可児福音教会の生命線は、当事者である会員の信仰の内容に置かれる。神には何でも出来る事は、ゼロから起こされた、私達の教会の歴史に証明されている。また、聖霊の力ある不思議と徴を通しても証明されている。今までは良いとして、これからも、同じ信仰を継承できるならば、私達と共に聖霊が伴い、神の「何でも出来る」御業が起こされるのである。それを呼び込むのは「一人の救いのために何でもする」という動的な信仰の行いである。このために前に向かって行くならば、この地域における、宣教による神の国はもっと強くなり、大きくなる。ヨシュアとカレブのような戦士となって叫ぶことだ「主が私たちとともにおられるのだ・・・・恐れてはならない」民14・9)私達の目を主イエスに注ぎ、愛と真実を握って、立ち上がろう。
- 「歩み出すとき」(6)「歩み出すとき」(6) † 本物に向かって。 偽物が本物になれる道があるのか?例えば人工ダイヤモンドは本物になれる過程(プロセス)があるのか?可能性をいまだ聞いたことがない。取り上げたいのは、そういった元素的な違いではなく、努力や精進によって、未熟なものが熟達する過程である。この意味での人間は得意分野としている。プロフェショナル(能力が高く、技に優れ、その仕事に確かさがある)要するに本物(プロ) になれる。とても喜ばしいことで、人生の醍醐味でもある。中には人間国宝とさえ言われる超人も生まれる。人間である限り偽物はいない。本物から見れば未熟なだけである。今年の大きな喜びは、未熟さから本物になる事を目指せることである。私達クリスチャンの確信は100年前も今も、2000年前も今も、信仰の世界、霊的世界は何ら変わらない、時代が進んで、多くの信仰の証人が増えたことであり、聖書の真理がより良く解明されていることである。今が最も幸いな時代なのである。それなのに未熟な信仰のままでは、主なる神に申し開きができない。成熟し本物に成ってキリストの香りがただようような者に、向かって行きたいのである。 † 一つである。 「しかし、必要なことは一つだけです。・・」ルカ10:42)人間が生きるためには余りにも多くの必要があるのに、主イエスは「一つだけ」と言われた。これを極めることが私達人間の重要な課題である。主イエスは永遠の価値において言われたし、神としても「一つだ」と言われたのである。「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました」1コリ13:11)思春期になり、壮年になっても、世の執着が支配するとしたら、主イエスとは異なる考えに支配されているのだ。物語を語って説明することと、主イエスの「必要な一つ」に実存して生きる事とは、雲泥の差がある。宗教的な生き方をするのでなく、御言葉の真理に這入(ハイ)り込んで生きてゆくことが、必要な「一つ」なのである。そういった模範者が教会には必要である。私の若く未熟な時に、信仰に熟達した模範者が居られて教えられた。これを誰かに期待するのではなく、自らが、主イエスの言われた「必要な一つ」を喜び、楽しんで歩む事である。
- 「歩み出すとき」(5)「歩み出すとき」(5) † 新に歩みだす時。新年の喜びは期待に心が弾んでいる。「新しい」ことを全てに適用できる幸いがあるからだ。第一に、新しい主なる神のお導きが始まった。なによりも期待して間違いのない祝福があるからだ。第二は、私の志を主なる神が、新に実現させて下さることだ。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2・13)私達の中に生き続ける「志」が、新に実現されて行くのである。それは、家族の救いではないか?親しい隣人の回心への導きではないか?私達がクリスチャンとして、この「志」が新に掲げられるのである。まず、この年の初めに、最も大切だと、指し示す御言葉に従う「志」を強くしたい。第三に、さらに新に、恵みと祝福に成長しょう。私達は日々に新しくされて行く特権を持っている。停滞して留まると「死海」のように命を失う。そう成らないために「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求め・・・・」1ペテ2・2)新に、私達は霊的な命を豊かにし、神の恵みと祝福の一年とされるのである。 † 信頼を捨て去らない。 信仰とは「信頼する事」に他ならない。サタンは神の存在を明確に信じているが、神を信頼してはいない。神を信じていても「信頼していない」という現実を恐れる。私達が人間である限り起こりうるのである。自分でできること、即ち、習熟して持っている能力は、自然にできる力である。世の中は一人一人の能力によって集合された世界である。飛行機に乗るのも恐れず、自分で車を運転するのも恐れない。これは無意識のうちに自然で、信じなくてもできている。神に在るという私達は、神に依存しているということである。私達は全ての事を、主の御名を通して行う。危険でもなく普通の事柄でも、主の御名を通してする。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)神を信頼する人は、当たり前で自然のことでも、主の御名を崇めて行うのである。その習慣ができると、未知の事柄にも、想定外のことにも、自分の力量に勝る事柄にも、神への信頼を持って前進できる。神への信頼を決して捨てない人となる。
- 「歩み出すとき」(4)「歩み出すとき」(4) † 良いことは忘れない事。 いよいよ主の降誕によって、新しい年が始まった。しかし、カレンダーでは年末である。目につくのは忘年会という、お決まりの言葉と宴会である。一年間の労苦を忘れ、親睦のために楽しむのも悪くはない。日本では12月の31日の大晦日に「年取り」の食事をする。この習慣は、新しい年を迎えるために、家族全員が正装し、一年で最も豪華な料理で祝う。そこには一年への感謝があり、祝う思いが溢れている。忘年のためではなく、生きて働き、戦ってきたことを讃えるためなのである。日本の習慣の中に、イスラエル的な感謝の祭りとよく似ている部分があるように思う。民族の歴史的な意味合いでは、イスラエルには及ばないが、私達は「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)と、いう意味で、生まれて今日までの、そして今年一年の全てを、神の恵み(良くして下さった)として、感謝し、主なる神を讃えて、明日を、また新年を生きて行きたいのである。 † さらに真理を求める。 今になってわかることがある。それは年を経ることでしかわからない事だ。今頃、良く聞く言葉は100年時代という言葉だ。確かに今年、私の母は101才になる直前に、苦痛もなく直ぐに召された。認知もなく、寝たきりでもなかった。確かにその時代が来ていると思う。問題は身体的健康のみではなく、霊的で知性的な健康を増進することである。モーセは80才から40年間、霊的リーダーとして、新たな体験と知性を収得した特別な存在である。しかし、自分がそこに立ってみると、生きてきた全て、体験してきた全てが、主との関係でしかないことに気が付く。それが主に従う信仰生活の特典である。山の頂上からは全てが見渡せるように、それが霊的な経年者の実際である。ただ、明日のことは神のみぞ知られる。私達は明日を知らない。言える事はただ一つ、悔いることなく、主を知りたい。世界の全てに優る、主イエスの愛と真理の中に浸かりたいのである。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」 2コリ5・8)これが地上に生きるクリスチャンの極致だと思うからである。
- 「歩み出すとき」(3)「歩み出すとき」(3) † 自由になれる道に。 自由とは、聖書的には広場の意味を持つ。広場を想像すれば、そこには圧迫するものがない。脅かすような何ものもない。物理的には、そういった、穏やかな空間に安らぐことである。また同時に、この広場には比較するものがない事を意味している。自由は「比較」する要素がないということである。自由になれない人の特長は、人との比較によって劣等感を持っている。常に比較によって自己を惨めな者として感じている。せっかくキリストを信じて、罪から解放されたのに、自覚的で感覚的な自由を得られていないのである。しかし私達には、キリストこそが「広場」そのものなのだ。キリストは私達を比較のない世界(広場)に、入れて下さっているのである。確かに人の心(魂)には、過去の様々な痛みや傷があって、自分ではどうにもならないものがある。このような不幸感があると、無意識のうちに身近な人と比較して、惨めさに囚(トラ)われ、不自由から脱出できないようになる。はっきり言えば、死ななければ治らない。しかし、生きながら死ねる道がある。キリストと共に十字架に死ねば、古い自分は過ぎ去り、真理の自由に喜び踊る自己を得るのである。 † 影響を与える人へ。 影響を与えられる人と、反応的な人がいる。どう違うのか?世界で最も影響を与えた人はイエス・キリストである。たった12名の弟子に教えられただけで、イエスの福音は全世界に行き渡っている。しかも、弟子達は高名な学者でも博士でもない、漁師達だった。こうしてみると、福音は世の中の知者や哲学や理論(学問)の助けを要しない、具体的な実際の出来事としての「神の生命」 だった。そのためには汗にまみれ、生きるため辛苦を味わっている素朴な人々の方が、神の出来事に相応しかったのだ。この漁師達は福音の受容者として、狂いも迷いもない使徒として福音を伝え、絶体的影響力を顕した。一方反応的な人とは「お金を持っていたら・・良い上司を持っていたら・・良い夫を持っていたら・・もっと自由な時間を持っていたら」と言うように、問題を社会や他人のせいにする。自らの内側から自らに働きかける「影響力」を持たないのである。影響を与える人は「自分にできる」可能性に関心を持ち、愛するという行動を持つ人である。
- 「歩み出すとき」(2)歩みだすとき(2) † 人は人私は私。 真の個人主義は、神を畏れる所にある。神を畏れるならば、兄弟姉妹を愛する(隣人愛)が生きている。人は人私は私という時には、人の事など関係ないということではない。神にあって、人の独自性を認めるという意味である。隣人を自分のように愛せる人は、キリストのように完成された人である。私達クリスチャンも一日にして、到達できることではない。これは神の言葉に準じる、霊的な領域である。霊的な完成とは「キリストと共に十字架に死ぬ」ことを通して、隣人を霊的に自分と等しく愛せることである。もう一つの死は肉体の死で、やむなく全ての人が受け入れる。しかし、霊的な死を進んで受ける人は多くはない。キリストと等しくなる事を「死」意外の事柄に求めている。格好良いことを求めているのである。だから、愛の理論は作れても、人間の能力では真の隣人愛は作れないことがわかる。私とは宇宙にただ一人の私の事を言うのである。神の作品としての独自の私なのである。この意味で人は人であり、私は私なのである。私が歩み出すのは、霊的な神の全き作品(キリストのみ姿)になる事であり、常に霊的に「死んで」歩み続ける事なのである。 † 誡めは私のため。 誡めがなければ、私は誰なのか?正しいのか?わからない。誡めがなければ、自分のしている事が全部正しいことになる。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。・・・・」ロマ7・8)このように誡めによって、自分の罪深い卑しい性質がわかるのである。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」1ペテロ4・17)改めて、神の戒めを心に留め、歩み出す必要が一人一人にある。神の主権に服することをしないで、一人前を装うことは、主イエスに何を判断させるのか?「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです・・・・」ロマ16・18)神と人と自分を騙(ダマ)すことが良いわけがない。誡めを捨て去れば「罪と滅び」はないが、主は私達が神に生きるために、誡めを与えられた。誡めを守る者には、神が現れる。 (ヨハ14・21)
- 「歩み出すとき」(1)「歩み出すとき」(1) † 準備する。 アドベント(待降節)は、主イエスのお生まれを、待ち望む時を意味している。「・・・・マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2・6-7)この世では、主イエスの誕生のために、場所が準備がされていなかったのである。何ということだろう、無知と無関心は、同じように今日の私達にも当てはまる。この出来事を、知っている私の出来る事は、主イエスのために場所を用意することである。準備して待ち望む尊い時間にしたい。では、どこに場所を準備しようか? 思いつくことは一つしかない、私の宮(心)だ。まさに、飼い葉おけのような質素な心でしかないが、暖かくお迎えしたい。御子の聖さに厭(イト)われないように、御子の笑みに答えられるように、整えてお迎えしたい。以前に聞いたことだが、「ここに主イエスが来られた時、ここは主イエスにふさわしい場所だろうか?」この自問が、自戒を生みだし、恥じない生活をするようになる。と言う事であった。自らを整えて生きて行きたい。 † 主を呼び求める。「・・・・この時、人々は主の名を呼び始めた」創世記4・26[口語])明らかに、主の御名を「呼び始めた」 これは、公同の場で堂々と、主の御名を呼ぶことであり、自分を主の御名で呼ぶ、信仰告白であった。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」 ロマ1・16)と言って、堂々と主の名を呼んだ。同じく、主の復活を知っている私達である。大切なのは、聖霊によって復活の真実から来る、喜びの信仰が現実化されること。使徒による御言葉の教えに従う教会となり、聖霊の力に溢れることである。そして、現代の罪深い世に向かって、私達は兄妹愛の聖い親密さで一つになり、堂々と公同の場で、主イエス・キリストを呼んで公言し、キリスト信仰の力が現される時代になるのである。神の陣営は、神の恵みにより、暗闇を押しのけて行くのである。今こそ、個人主義から、キリストの共同体(兄弟姉妹の一致)に赴いて、主の御名を呼ぶのである。終末的信仰であり、これは私達の教会に興される恵みである。
- 「道理に立ち返る」(7)「道理に立ち返る」(7) † 誰の言葉か? 思うに、最終的に、それは「誰が語った言葉か」が、重要である。大学の図書館に行くことは、めったにないが、何年も前にアメリカのシアトルにあるワシントン大学の図書館を訪れた。とにかく、その広さと膨大な書籍に圧倒された。本とは全て言葉が書かれている。数式ですら言葉で言い表されるわけで、書かれているものは言葉に還元されるわけだ。そういう世界で、聖書は、どうして「本の中の本」という位置を持っているのか?既成の概念を捨て去って、初心に立ち返り考える。聖書は人間の言葉で書かれている。そして、40人の作者が時代を異にして、言葉にした。あたかも人間の語録のようである。聖書の面白いところは、私の語る事を「記しなさい」と命じる者の声を言葉にした。40人もの著名な作者がいるのに、彼らは「神の言葉を聞いて」書いたと言う。要するに聖書66巻の作者は「神からの言葉」を書き物にしたのである。人生を与えられた人間に、最も価値ある言葉の本が聖書である。また、キリストが直接、神の言葉を語られた。そして言われた「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネ14・9)聖書は驚きであり、どの様な人生を生きる人にも、朽ちることのない宝を得させる。まさに道理に満ちている。 † 道理が来られる。 今年もアドベントを迎えた。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」ガラテヤ4・4)父なる神が満を持して、独り子イエスを私達のために、この世におくられるのである。神の偉大な出来事に対して、私達は、ますます大きな喜びを与えられる。なぜならば、神への信頼(信仰)が深まっているからである。これまでの歩みが、何よりも神を知るためであったなら、主イエスの降誕は、新たなる神の恵みと祝福をもたらすものとなる。私達が神に召され、選ばれた神の種族として生きるからだ。神が人となられるクリスマスは、特別な恵みであり、私達への栄光となる。私達の信仰の確信が強められ、祝福を直接に与えられる。尊い主の生涯に目を注ぎ、御言葉を学び続けたい。主に倣い歩む事を、聖書が命じている。それが私達の道理であり、私達の立ち返るべき道だからである。そのような私達に、主イエスは幼子の様にへりくだり、私達に仕えて下さるのである。