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  • 「神と人間の志向」(4)
    「神と人間の志向」(4) † 人間の志向が生むもの。 一億総ウツ(鬱)とも言われるほど、日本人の心は病んでいる。そんなバカな。と思われるかもしれないが、日本人は生き方を考えるべきである。中学生にアンケートを採ったところ「楽になりたい」という回答が多々見られた云う。現代の親たちは、子供によかれと思って先回りをし、わが子が最短距離で人生の勝者となるように進路を整える。子供達はよい子であるため、親の期待に応えるようと、与えられたモチベーションに従って、勉強に、稽古事に励んで「自分を勤勉に動かすモード」を身につける。これが定着してしまうと、このモチベーションに自分が支配されてしまう。すると真の自分のモチベーションがつかめない、わからない自分になる。親や、社会や、人の期待に応えようとする心性(神経症性)が問題として現れてくる。ウツ、ウツ状態は先天性ではなく、人間社会において起こされる病である。「楽になりたい」という欲求は、良い子であるための、かりそめのモチベーションからの解放を意味している。人間の志向の不健全さが強要される社会では、真面目な成人に、ウツ、鬱状態が多く発症する。そのためには、人間であること「メメント・モリ」(死を忘れるな)や、未来の生活ではなく、今を生きることを大切にすることだ。「・・・・神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7 † 神の志向に向かう。 最も解りやすい実例は、キリストの使徒達を見る事だ。とりわけパウロはその筆頭であろう。神の志向に全き同調した模範的過程(プロセス)を経た人である。クリスチャンならば誰もがパウロと信仰のプロセスを同じように求めるべきだと思う。なぜならば、それが人間の完成だからである。それは殉教者になる事を意味するのではない。パウロは、今に生きる私達が最高に生きられる道筋を示した模範者であると言う事だ。多くの患難困難、試練を経ずしては知り得なかったし、病に打ちのめされ、苦しむ事を通して知り得たことである。それは私達に悟りを与えるためである。キリストが私達の受けるべき絶望を十字架で担われたと同じである。地上の全ての栄華を「糞土」とし得たのは、神の志向に同一になり、神御自身の栄光に浴し、復活のキリストの中に生きる、幸いの現実しかないからである。
  • 「神と人間の志向」(3)
    「神と人間の志向」(3) † 志向を変える。 志向を変えることは、思考に関係する。思考を変えられる出会いや出来事が必要だ。願うべきは、神の言葉(聖書)によって日々に思考が新にされる事だ。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」1コリント2・9)その現実として、今に現れた真理の出来事や、事実に即した報告(証詞)に触れる必要がある。聞く事、見る事で思考は変わらざるを得ない。それによって志向は換わる。この度のJPFカンファレンスで、私の思考していたことが、確証を得たように、志向へと転換した。日本の失われた人々に、届いて行く宣教に定型はない。あれば、日本クリスチャン人口の1%に、低迷しない。向こう50年で現在の信徒の5倍になる宣教の在り方を据えるべきであろう。私達の教会は万人祭司(全て神の役者)の教会である。その宣教の在り方を学び訓練を「口先だけ」でなく「行いと真実をもって」身に染みつかせて行きたい。 † 原型としての志向。  見える形で、神の志向が現わされた。とするならば、神が人となられた事が筆頭に上がる。主イエスはおよそ30歳まで、ナザレという小さな町の大工として人間の生活をされた事だ。それから約3年間の公生涯と言われる、宣教をされたのであった。前期30年間は「神の子」ではなかったのか?「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」ルカ1・35)東方の博士達も、幼子イエスを救い主として礼拝した。神の子でありながら普通の人間と同じ共有、共存を具体的に生きられたのである。これが、神の志向(御心)だったのだ。私達夫婦が開拓伝道を始めた頃。福音を心の奥に秘めながら、私は職人として地域の人々と共に働き、地域の行事に連なり、多くの方々の世話になり、和気あいあいとして生活した。また、主に祈った「開拓伝道は遠回りです。10年若くして下さい」と、実にそのように見られている。また教会も建った。さて、この主イエスの30年は、現代の宣教の知恵だと思えるのである。
  • 「神と人間の志向」(2)
    「神と人間の志向」(2) † 信仰の初め。 私ごとであるが19歳から信仰生活が始まった。私が志向していた信仰とは、世の中に通用する科学的である事。同時に社会に通用するものであること。自分の感性と置かれている状況を克服する内容を福音に求めていた。自分が生きて行く上で、自分が納得することが重要であった。どんなに素晴らしい物語も、それだけでは強い支えや、力にはならないと感じたからだ。人間の現実から、かけ離れたものは、私の志向には虚しかったのである。非科学的なものが聖書であったり、教会であったり、信仰であるなら、この世の現実から引き離された架空の世界に、引き入れられることだと思えたのである。私の志向では、信仰は精神的に、ということだけに留まる事は本物ではないと、思えたのである。信仰生活8年後に献身して神学校に行ったが、まだその志向は続いていた。現実の人間には、明確な答としての根拠(科学的で実存可能)が必要である事。として全能の神に対峙(タイジ)し、キリスト教と聖書を学んでいた。私の福音は、このような初期からのテーゼ(命題)が土台となって、発展し聖霊に導かれてきた。この私の志向は、神の実態的恵みに 導かれ、主イエスの十字架と復活の力によって、遂に神の志向に換えられる事になったのである。 † 神の志向は現実。 神を神とする、とは、私自らのこと全てを、任せるということだ。神の志向に任せるために3本の支柱(御言葉)を立てた。①「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩37・5)②「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩55・22)③「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3・5-6)ゼロからの開拓自給伝道の原点である。主なる神は、真実に御言葉を信頼するものを見捨てず、ご自身の栄光に繋げられた。それが可児福音教会である。誰にもできる事は「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4・7)神は偉大で真実である。 
  • 「神と人間の志向」(1)
    「神と人間の志向」(1) † 欲求する人間。 私達の見える世界では、持つ者は豊かさを持ち、無い者は乏しさでしかない。私達は幸い豊かな日本に住み、幸いな制度の下に守られて生きられる。しかし、人間は、感謝し満足するよりも、なお富みたいために人生を浪費している。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい」伝道5・10)私達人間の富への願望の本質は「計算された、熟考された結果の人生観」なのである。「ちょっとや、そっと」で、志向が変わるものではない。罪人として生まれた人間の本質となって、植えられているのである。私達の魂(心)の中に悪魔の橋頭堡(キョウトウホ)が敷かれている。福音を雨あられと聞かされても、心中の敵(欲望)は逃げて行かない、居座るのである。まさに「敵は心中にあり」なのだ。主イエスの福音は、私達罪人を救う。しかし救われたクリスチャンの人間的成長は教えられ、訓練されて育つ。その人はキリストの十字架を負う生活が出来るようになる。肉の欲望に従わず、主イエスに従い得る。「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」箴言30・8)その人は神の全能に自らを委ねて、神の平安の中に住まい、輝かしく救いの福音の中に生き、暗闇と戦うのである。 † 神の心(志向)は主イエス。 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」ヨハネ1・14) 現代の社会的問題(人権・差別・格差・制度・構造など)全てに「イエスはどうされたか」「何を教えられたか」が解決を与える糸口となる。主イエスは神の御心(志向)に従い生きられる事によって、旧約の律法の成就者となり、私達を永遠の御国の住人とするために、自ら死を持って十字架の贖いと、死からの復活を成し遂げられた。私達が今、地上に生きるのは、神の国の平和と秩序を教会のみならず、地域と社会に与えるために、生かされているのである。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」2コリント2・15) 主イエスに学び従う幸いを楽しもう。
  • 「増し加えてゆく」(7)
    「増し加えてゆく」(7) † 増し加える痛快。 痛快とは、たまらなく愉快と言うことで、たまには、そういう体験をしたいものだ。思うに、自分が「痛快」と感じれば良いのではないか?と考える。昨年は、牧師としての務め以外に、数えると50件近い作業があった。電気器具の修理、教会の備品の修復、施設のメンテナンスなどである。廃棄から使用可能にすることは痛快である。多くの故障や問題が解決されるのは痛快である。人に知られなくても、私の痛快である。私はデスクトップPCでの作業をするが、さらに、14年前製造されたノートPCで、礼拝のメッセージを記録する。痛快なのは、時価一万円以下のノートPCなのに、window11pro 64bit それに最新のOS「23H2」が、サクサクと働いてくれている。それを親指シフト・キーボードで打鍵できる稀少なノートPCで、オークションにでも出せば、10万円相当だと見込まれる。まさに痛快この上ない。修理したり、改造したり、さまざまを増し加えれば、価値のないものも現役に充分となる。人間も同じではないか?あきらめないで、主なる神の与える最善を、祈り続ければ、想像も出来ない人間的内容に導かれる。十字架の福音を、自らの痛快な体験として語れるのだ。 † 失う事の困難。 「・・・よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい」2ペテロ3・17)信仰にある自分が「最大の価値ある自己」なのである。真理を知らない人々の価値観に惑わされて、迷い出されると「堅実さを失う」即ち、キリストを見失うのである。強烈なこの世のリアリスト(現実主義者)が、多くの人々引きつけ信者としている。私達には、対抗出来るだけの真理の確信と、福音信仰が求められる。私達はこれまで、何年も信仰の道のりを歩んできた。しかし、惑わされてキリストから離れると、キリストに帰ることが、信仰を取り戻すことが、今まで進んできた以上に難しくなる。そこで、多くの人が仮面信者になる。信仰とは「増し加えて行く」ことで平常なのである。私達は、父の顔を慕い、見上げる子供のように、全てを与えられて、生きる存在であることを宣言する。私は、もう充分に霊的大人だと思う時、後退が始まる。「知っていると思うなら」1コリント8・2)何も知らないままなのである。
  • 「増し加えてゆく」(6)
    「増し加えてゆく」(6) † 増し加える負担。 私事だが、年齢と共に、今のままでは足らなくなるものがある。体内の変化に、補いを必要とするのである。特に懸念されるのが脳内の活性化が失われることである。放置すれば認知機能の低下に繋がる。脳の奇蹟の肥料(BDNF「Brain-derived neurotrophic factor」)を必要とする。カカオやチョコレートにも含まれている。私の場合一日3杯くらいコーヒーを飲む。その一杯に「ウコン」を小匙一杯を入れること。脳の活性化、抗うつ、フリーラジカルを中和する。他にもアレルギーを改善し、悪玉コレステロールにも効果があるという。これは一例で、他にも増し加えるべき物が多々ある。あくまでも自分の身体を管理して行くための、増し加えである。日本人の、読書ばなれは著しいが、私は「積(ツン)読」や、棚に残されている、未読の重要な本が、そのままである。この世を去るまでに、なんとしても目を通したいので、暇にはならない。「・・・・ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」ピリピ3・13-14) † 捨てる事で増し加える。 二極に分かれる秤を見るとよく分かる。一方を軽くするだけで一方は重くなる。これが、神に依り頼む信仰の原則である。私達は二極に置かれている。「世」か「神」かであるが、世を離れての私(自己)はないのは当然である。だからこそ信仰(神信頼)が聖書の命題となる。先にも、パウロの決断を取り上げた。復活のキリストに出会うまでは、自己に依り頼み、世の最高水準を制覇し、栄冠を得ることが最善だった。所が、世が最大に賞賛する栄誉を「ちりあくた(糞土)」ピリピ3・8)として、捨て去った。要するに「世」の価値や魅力を、秤から取り去ったのである。すると:、言うまでもなく「神」が、100%になったのである。「・・・メネ、メネ、テケル、ウパルシン。そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。テケルは、あなたが秤で量られて、その量の足りないことがあらわれたことをいうのです」ダニエル5・25-27)現代の私達も同じなので、自分自身を「秤」に載せて確かめよう。
  • 「増し加えてゆく」(5)
    「増し加えてゆく」(5) † 信じるための無責任。 誤解を生む「無責任」と言う言葉の重要性を考えたい。私達は主イエスを愛し信じているが、一人の律法学者のようである。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」マタイ819)直観的な、素晴らしい応答である。しかし、主イエスは言われる「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」20節)学者の想定した世界は崩れ、足は止まってしまった。・・・ガリラヤの漁師達は、網を捨て、船を置いて主イエスに従った。彼らにも生活があり、家族があった。しかし、単純率直に全てを捨てて、主イエスに従った。信じた結果である。現代の社会に生きる私達も、主イエスを信じている。主は言われる「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」ルカ14・27)永遠の生命と、復活の身体で新しい御国に生きるためには「十字架を負う」必要が生まれた。私達は、日本の文化の価値観に従い、社会の要請の下で培った、自らの面識や立場に生きてきた。しかし、それらを十字架に磔(はりつけ)にすることである。使徒パウロのように「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」ピリピ3・8)今までの「生き方」に、無責任になる事なくして、主イエスに従う弟子としては、遠いと思う。 † 増し加える神。 聖書を学ぶ誰もが発見することは、主なる神は、気前が良いと言うことである。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」詩9・10)昨日、ご高齢に成られた医師を訪れ、年賀の挨拶をした。この方の言われるのに「90才を生きる事は苦痛です」(虚しい)と聞こえた。聖書も持っていると聞いていたので、証詞の本をお渡しした。高齢に伴う、虚しさや鬱(うつ)的気分は、必ずあるものではなかろうか?しかし、このような人間の衰退を補う最高の方法は「神を求める者には報いてくださる方である」ヘブル11・6)を信じて、主なる神の恵みを、その豊かな生命を増し加えられることである。私もその実験台に立たせられている。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」ルカ11・13) まことに、ハレルヤである。
  • 「増し加えてゆく」(4)
    「増し加えてゆく」(4) † 無料で増し加える。 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みない。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」ヨハネ7・37-38)ある人は、長らく福音を聞いているが、信じる気はない。この世の美味しい飲料水なら飲めるが、イエスの与える生命の水は飲みたくないのだ。要するに、魂が「渇いていない」結果である。しかし、イエス様から見れば、この人も、飼う者のいない羊のように迷っており、滅びへの道を歩み続けている。人間は自らの重要な渇きに気づけない。それが罪の恐ろしさである。主なる神は言われた「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」イザヤ55・1)最も必要なものを「ただ(無料)」で与えられる。主イエスも、ただで与えられる。この生命の水は、自らを潤すだけではなく、泉となって流れ出る。主は私達を、ご自身のようにされたいのだ。「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」マタイ10・8)心貧しく、渇いている人は、真に幸いな人である。 † 正常を保ち続ける。 私の家は電車が通る近くにある。定期的に、夜間の線路補修工事が行われる。世界に誇る新幹線も、正常を保つための厳しいチェックと、補修作業が絶えず行われている。このような事はあらゆる分野で行われる。電子機器が世界を繋げているが、サイバー攻撃から守るべく対応し、メンテナンスが行われる。私達は神の救いを得ている者である。その正常な信仰を、絶えず保ち続ける使命がある。そのためには、神の御言葉(霊的なパン)を毎日食し、信仰の体力を維持し、恵みに回帰して、霊性を高めて行くことである。私達クリスチャンが優れた霊性を保ち、生き生きと、生きられるには、常に信仰の正常な補修作業が必要となる。補修作業が、人知れず夜間に行われるように、私達の霊的補修作業は、誰にも知られない場所「奥まった部屋」マタイ6・6)で、主に祈り、恵みを受けて、正常を保全される。
  • 「増し加えてゆく」(3)
    「増し加えてゆく」(3) † 驚きが増し加わる。 慣れ親しむと、当たり前に成り、特別な感動がなくなる。最高が最高なのだと、驚きもしなくなる。同じように私達も、神の恵みに回帰していないと驚きがなくなる。回帰とは、いつも、初心に返る事。主なる神の恵みと、憐れみに導かれ、主への感謝に溢れることである。感動は感謝を生みだす。感動がない理由は明確であって、「へりくだった心」を失っているからである。主なる神が驚きで在られるのを、知ることが私達の特権である。でなければ、私達は神を知らないままになる。私達は主なる神に驚かされ、主イエスに驚かされ、聖霊に驚かされて、そのつどに成長する。例えば、「特定の御言葉」に驚き感動したならば、私達には、それ以外の御言葉も「特定の御言葉」として存在しているのである。神を思い巡らしている人は、新しい発見をして、その真理に驚く。主なる神は現代の私達にも、日々に驚きの神である。私達は真理の深さ、高さ、広さ、に驚きながら、人間としての幸いを増し加えて行く。そうでなければ、信仰はつまらないものになる。「真理は驚きである」真理の驚きを味わう者となれ。そうでないと、モノトーン(単調・単色)の毎日を味わう生活となる。 † 宝の倉の中身。 「そこで、イエスは言われた「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」マタイ13・52)学者とは、私達のことである。私達は旧約聖書も新約聖書も、同時に理解出来るからだ。天の御国の弟子とは、メシヤ(救い主)イエスを受け容れた私達のことで、新しい物(宝)とは、キリストを知る掲示(新約聖書)。古い物(宝)とは旧約聖書(律法・預言)の事。主イエスは旧約聖書の権威と妥当性を支持された。天の御国を知らない、教師(学者)は、律法における神の真の目的を理解出来ず、盲目であり、現実の宝とすることができない。しかし、主イエスの教えを理解する者は、旧約聖書の教えも、信仰と、この世で生きるための、実践的な指針とする。新約・旧訳の御言葉の宝の倉から、古い宝、新しい宝を取り出して、私達は神の御国の真理を、30倍、60倍、100倍にまで、豊かに増し加えることが出来るのである。主イエスの恵みが、私達を弟子とし、御国の学者にするのである。
  • 「増し加えてゆく」(2)
    「増し加えてゆく」(2) † 力から力へ。 「若者も疲れ:、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40・30-31)若者でなくなった壮年や、高齢者は更に疲れやすく、つまずくことも、倒れ方もひどくなるのであろうか?確かに、それが人間の自然性でもある。しかし、そうではなく「主を待ち望む者は新しく力を得る」ことに中心となる重要性がある。主なる神は、若者だけに力があるようには見られない。全て、主を待ち望む者が「力」を得る。それは、次第に強くなって行くことを約束されている。「彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」詩84・7)これは全人に対する神の御心である。しかし、私達は艱難や試練に会うと、思い煩い、悲観的な前途を想定し座り込んでしまう。実は、その患難の時にこそ、神の恵みが添えられているのである。主の御名を呼び求め、主を待ち望むならば「力」を得て、私達は強くなる。私達の信仰の証明は、患難の時にこそ、神の恵みが私を強靱(きょうじん)にした。という証明である。信仰の麗しい中身は「力から力へ」進んでいることである。 † 人間の才量。 待降節(アドベント)の時に、多くの事が思い浮かぶ。一人の人間の才量(知恵と度量)が、救い主の降誕に係わっている。異邦人であるモアブの女ルツである。ルツはユダヤ人ナオミの息子マフロンの嫁であったが、夫は死んで未亡人となった。ルツは、失意のどん底にある姑(しゅうと)のナオミを支えるだけでなく、イスラエルの神に自らを捧げた。モアブに帰って、安逸な生活が出来る事を捨てたのである。ルツの才量は、現在の私達一人一人に求められる。その知恵の豊かさとは、神ご自身を知っていることである。度量とは、知っている事への決断力である。前途に何があろうと、神と共に、ナオミと共に生きる道を最善とした。ユダヤの地でボアズに嫁ぎ、オベデを生んだ。オベデはエッサイをエッサイはダビデ王を、その家系から、主イエス・キリストが生まれる。一人の異邦人の才量が信仰を行動させたゆえに、ルツはキリストの祖先の一人となったのである。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」 1テモテ6・12
  • 「増し加えてゆく」(1)
    「増し加えてゆく」(1) † 大人であること。 子供達を見ていると、日々に成長してゆく様子に驚く。小学一年生の男の子に、卓球のラケットの振り方を教えて、打ち合うと、見事に真似をして、素晴らしい返球をしてきた。一方、癖のついた大人は、頭で解っても、言われたような形に、ラケットを振れない。子供は教えられる事に、反応して成長する。私達大人も、付いてしまった「癖(くせ)」に負けないで、まともになる努力をしたいと思う。大人が子供と違うのは、自分で築き上げた世界の中に、安住していることである。今更、新しい事などに振り回されたくない。今までに充分に努力し、今を築いた。誰にも文句を言われる筋合いはない。その通りである。世の中は「隠居して」好きなことに、生きる事を勧める。大方の人は、その流れの中に居る。聖書の求めは、全く違う「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」ヨシュア13・1)そして、広大な地域を示し、戦ってイスラエルの占有地にすることを命じられた。神の指導を受ける「魂」は、キリストの兵士であることを喜ぶ。信仰の戦いでは、常に神が勝せて下さるからだ。  † 現実主義(リアリズム) ある人が言うのには「僕は徹底したリアリスト」なんだ。と、要するに、宗教や信仰に関心がない。と言いたいのである。現代人が、存在の確かさを「感じられる」「触ることが出来る物質」に確かさを置く。実在とは、物質的に感知しうる事実を、基準にして検証する人間(リアリスト)のことだ。しかし、とても原始的なのである、最も実在的であるのは「固形物質」次は「液体」次は「透明な気体」となる。ましてや精神的なものは、現実主義者からは実体感がない事になる。行き着く先は、人間も物質としてのみの終結である。現代物理学では、真の実在は、実体(物質)ではなく、エネルギーである事。実体(物質)は「エネルギー現象」によるものである。見えない生命力、動的なものこそが中心である。心と物、永遠と時間、神と世界、という統一が「実在」なのである「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」 1ヨハネ1・1)私達はこれを体験し、更に増し加えている。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(7)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(7) † 新鮮な繰り返し。 12月を迎えるとクリスマスに向かう。キリストの生誕に最も大きな意味を感じるからだ。この偉大性をすべての人に伝えたい、その思いで「クリスマス教会祭り」が50年近く続けられている。今年は12月10日である。教会の全館を開放し、教会の駐車場は「子供広場」ガレージでは、たこ焼き、お好み焼き。駐輪場では、チュロス、ナゲット、クレープ、コーンスープなど、野外だけで人並みで一杯である。屋内では、手作りケーキやクッキーが所狭しと並べられる。いつも好評で長い列が出来る。また、多くの手作りのクリスマス商品や提供品によるバザーも同時進行する。飲食を楽しんでもらえるテーブルも満杯になる。喫茶コーナーや、おでんと五平餅、うどん、カレーうどん、そば、も用意される。午前10時から教会まつりの開場となる。午後1時からは「クリスマス子供会」を100人限定で開催する。教会に初めて足を踏み入れる方々を歓迎し、この日には300人近くの未信者の方を迎えて楽しむ。具体的な宣教として、螺線的に継続し50年の長きを続けられている。未信者を喜ばせ、私達も共に楽しみ、喜びを分かち合う「クリスマス教会祭り」は地域に浸透している。  † 反復し成長する。 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」2コリ3・18) 栄光から栄光に繋げるのは、聖霊のお働きである。そのためには、今日までの信仰の恵みが、堅く私達の中に留まっていることだ。毎日が繰り返しであるように、毎日の中に主の栄光が繰り返され、主と同じ姿に変えられてゆく「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」2ペテロ1・5-7) 私達の信仰には、聖霊が働かれるための「努力」が必要である。恵みは反復によって、螺線的に上昇する竜巻のように力を増してゆく。主なる神が、私達に与えられた栄光は、私達の現在に顕されためだ。神の恵みを反復する努力は、必ず「神の性質に預かる者」となり、神の栄光は、あなたに現れる。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(6)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(6) † 繰り返しの結果。  重要なことの繰り返しを、今週も行う。それも、完全になるまで、一年続く可能性だってある。キリストの使徒達は一通り教えて終わらない。循環的に理解出来るように、何回も同じ真理を繰り返して私達に理解を求めている。全くの無知から技術を得ようとするなら、まず教えを受け、実際の実演を見、実際に手取り、足取りの指導を受ける。高度なパイロットの技術や、金属を加工する技術から、さまざまに、一人前になるには相当な時間を要する。ピアノ、バイオリンの奏者になるにも、多くの年月にわたっての修行が求められる。川の岩盤に丸い穴が見られる。これは打ち寄せる水が渦を巻き、石を巻き込んで、ぐるぐると回り続けて、美しいまん丸のくぼみを造る。この動作を、限りない年月にわたり、くり返した結果だ。私達は一日の朝、昼、晩を、一年の春夏秋冬の四季を、繰り返して100才にもなると言う。その人生の目的は何か?「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)螺線的に、高められる霊的知識で、完全な大人になるのを楽しみたい。 † 弾力性のある信仰。 使徒パウロを知ることは、「凹(ヘコ)まない人」だということだ。パウロが復活のイエスに出会った事を通して、特に異邦人のための「選びの器」であり、主イエスのために「どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」使徒9・16)まさに復活の信仰を宣べ伝えるパウロは、ありとあらゆる患難と困難を通らされた。「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました」 2コリ1・9)そこまで危機が迫った。「私は、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」ピリピ4・12)そればかりか、パウロが高慢にならないため、神が赦された「サタンからの刺(トゲ)が肉体にあった」激痛を伴う痛みに苦しみながらの宣教だった。神は言われた「わたしの恵みは、あなたに十分である」2コリ12・9)パウロを召された、神の恵みと憐れみが圧倒的に満ちあふれていたのである。これこそが強靱な弾力性である。螺線状のバネの性質は、信仰の生き生きとした弾力性に見える。どの様な圧迫にも、元通りの神の恵みに戻し、平安を与えるからである。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(5)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(5) † 年の巡りが早くなる。 4歳の子供が教えてくれたのは「早く大人になりたい」であった。ほほえましくて「そうだね。早く大人になりたいね」と、相づちを打った。年齢の記憶では「もう40才か・・・」と、その時に言いようのない動揺を覚えた。大人は子供には戻れないばかりか、1年が、5年が走馬灯のように過ぎ去る。50才は直ぐに60才となる。急激に螺線を駆け上ってしまうようになる。高齢者として語れる事がある。第一に、年の巡りが早くなっても、別に問題はないと言うことだ。変わらない体調が維持されていれば良いのである。第二に、聡明な脳の働きが伴えばさらに良い。60才の時と変わらないで90才ならば、年齢は高いほど光栄なことである。モーセのように120才になっても、全てに衰えていないことが、重要な事で、年齢とは関係ない。クリスチャンとして「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます」詩71・11)長年にわたる、神の偉大な恵みと憐れみ、まさに大能のお働きを、次世代に証明し、告げ知らせる。これが100年時代の特権である。 † 臆病が招くスパイラル。 「スパイラル」フイギア・スケートでは、回転をして滑ること。文字通り螺線(ラセン)の事だが、スパイラルには「悪循環」という意味でも使われる。民数13章には、乳と蜜が流れているカナンの地を偵察する記事がある。部族代表12人が40日をかけて偵察してきた。まさに豊かな「乳と蜜が流れている」土地であった。神は、その事に目を留めることで、イスラエルを導き入れる計画であった。しかし、私達も陥る現実が起こった。マイナス要因を数え上げ、さらに我々よりも強い民族がいて、登れば滅ぼされる。と、民衆に一層悪く言いふらし、神を信じない不信仰が圧倒した。その後の現実の歴史は悲惨である。神は、荒野を40年間スパイラルする事で、不信仰な者を死滅させる事を決定された。不信仰とは臆病になり、冒険(リスク)を避け、神を信じないことである。私達も一つの不信仰が、40年間のスパイラル(悪循環)を身に招く事も起こりえる。自らの臆病を警戒しよう。「神から出た者は、神のことばに聞き従います」ヨハネ8・47)
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(4)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(4) † 環の中を巡る。 信仰の螺線階段というイメージを描けるだろうか?「環」は円を描いている。人々が手を繋いで「環」をつくるように。螺線状的信仰の環は、連続して垂直に上昇している。それを真上から見れば、一つの「環」としか見えない。何百もの連続する環が、重なり合って一つに見えるということである。「・・・あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」黙2・4-5)この人は初め(一段目)に「神の愛」が圧倒的に与えられた。この愛は10段目の環の中でも、歴然として輝いていたが、20段目の螺線の環の中には、愛の力は半減し、螺線の環が40段目に達したときには、神の愛から、離脱し、宗教的な生活へと後退してしまった。私達の信仰年数を螺線の段数と見なしても、環が昇るごとに、神の愛は強くなり、神への信頼と献身、真理の知識の増大と確信。復活の希望と喜び、神の憐れみと恵みへの感謝など、環が上昇するごとに、豊かに増し加えられる。ゆえに「・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)神は、与えた良いものを成長させ、キリストの身丈までに完成されるからである。 † 習慣を継続させる。 主の御心にかなう歩み、これに勝るものはない。歩むということは前進することである。「従う」という習慣を意味することになる。タイマースイッチは機器として、定刻に電源を「ON」「OFF」にする。一年間のみならずである。私達は「キリストに在って」生きるためには、習慣化されないものは、自分のものとはならない。毎日繰り返す、毎週繰り返す、毎月繰り返す。年が巡ってきても同じように、主イエスにあって歩む事を目指す。この歩みを螺線的に繰り返し実行する事で習慣が身につく。これが実際的なキリストに従う信仰である。螺線状とは連続していることである。主を信頼するということは、長きにわたり実践して、身につく習慣である。主にあって歩む事は喜ばしいことだが、それならば「我らは神の中に生き、動き、また存在する」使17・28共同訳)のである。信仰が曖昧だと、すべての善いことが失われてしまう。習慣となった信仰は失われない。繰り返し「主と共に歩む」習慣を励もう。必ず確信へと到達し、上昇する。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(3)
    † 戒めの約束に溢れる人。 「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」詩119・97)私達クリスチャンの幸いは、昨日も、今日の一日も、そしてこれからも、神の戒めを守る事に伴う神の約束と愛が、深い慈しみとなっていることである。「私の思い」が神の戒めを畏れることに伴う祝福で、満たされているならば、主なる神も、また、その人を大いに喜ばれる。詩篇記者は、そればかりではなく「私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています」120節)肉(肉性)とは、世に生きる私自身である。私が神の御前に立つ最終の「裁きの座」のことだ。神の真実な恐ろしさを知らないでは、神の子として誠実に戒めを喜びとする事は出来ない。毎日、毎日が、10年、30年、60年と、螺線的に続いてキリストの身丈に近づくことが出来るからだ。使徒達の宣教の動機には、キリストの裁きの恐ろしさがある。「このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。・・・」2コリント5・11口語訳)罪を赦された者は、主イエスの敬虔な品性を与えられている。そのためには、聖書の戒め全般に心を注ぐことである。神の憐れみと慈しみの尊さを、より深く、与えられるからだ。 † 人生を賭けた知識。 1959年19才で聖書とキリスト教を知った。当時、伝えられる事は純粋な福音だが、自分の人生の課題を克服するには、余りにも知識がなく説得力に欠けるものであった。曖昧なまま進まないように聖書を知ること、キリスト教を知ることへの挑戦が生まれた。人生を賭けて悔いなき実体を得るためだ。これが「信仰の確信」への、生涯学習となった。まさに真理が螺線的に重複しながら「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」 エペソ3・18-19)と、知識のみならず十字架体験、聖霊体験としての「しるしと不思議」を現す賜物さえ与えられた。キリストに人生を賭けて、求めて学ぼうとしたら誰でも、悔いのない信仰の確信と、神の生命と力を識るだろう。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(2)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(2) † 地球の出来事。 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道1・9)この所のウクライナとロシアの戦争は、終わりなき戦いの様相である。今月、ハマスの兵士がイスラエルにテロ的攻撃を仕掛け甚大な打撃をイスラエルに与えた。「世界の火薬庫」と言われるイスラエルを中心とした中東に爆発が起こったのである。歴史(時間の流れ)は永遠には輪廻しない。神が物質(宇宙)を創造された、と同時に時間(歴史)が生まれたのである。物質(人間を含めて)は、終わりを迎えるのが決まっている。人間は螺線的に、同じ歴史の痕跡(戦争・紛争)を繰り返す。原爆が日本に投下されて以来、各国が原爆を保有した。要するに歴史が螺線的に上昇するに従って、世界滅亡の脅威が格段に高まった。近年台頭している覇権主義指導者は、戦争を想定して軍拡を第一にしている。世界は平和に向かうのではなく、武力による支配(争い)に色濃くされて行く。世界が天地異変に破壊され、人間のもたらす争いが、大患難の様相に至って、主の再臨が訪れる。世界(歴史)に終止符を打たれる。今、大患難の始まりかもしれない? † 祝福の条件。 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」 詩1・3)「時がくると」とは、一年前進した同じ季節のことである。毎年同じルーティンを螺線的に上昇しながら、祝福の実を収穫する。「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 2節)主なる神によって、大いに栄える人は、福音を最大の喜びとし、日夜、確信した御言葉を口ずさむのである。螺線状にさらに真理が広げられ神の祝福と喜びは増大して行く。その人は、さらなる不偏の条件を守り続ける「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」 1節)初めは誘惑の恐れから緊張していた。これを祈り、守り続ける中に強められ、自分の使命として「悪には、歩まず、立たず、座さない」と信仰宣言する。その人は「水路のそば」に植わった木のように、若々しく、何をしても神の祝福が伴い栄える。誡めに人生を賭ける人は幸いだ。
  • 「螺旋(らせん)状的信仰」(1)
    「螺旋(らせん)状的信仰」(1) † 成長は螺線的である。 私は音楽を好むが、音楽を極めているような熟達者ではない。直観的に多彩な楽器のハーモニーに、心地よさを感じる程度である。教会ではバイオリンの教習があり、数名の生徒が日に日に成長し、発表会には素晴らしい演奏を披露して、私達を驚かせる。その事もあって、著名な作曲家のバイオリン協奏曲を聴くようになった。モチーフ(最小単位の音型)が、壮大に発展しながら、また原型(音型)に繋がり、さらに発展して行き、フィナーレ(終楽章)を迎える。途切れることのない螺旋状に上昇していると、素人として感じる次第である。信仰の原則を考えるならば、この螺線状のリング(環)を回りながら上昇(成長・昇華)すると理解する。ぐるぐる回る時には、必ず同じ位置を通る。しかし、一段上の同じ位置であり、これが5段目、10段目に至っても位置は変わらない。例えば十字架という真理の位置は一段目も20段目も変わらないが、20段目では、壮大な意味と内容を持って霊的昇華がされているのである。信仰はあらゆる神の真理を繰り返し、繰り返しながら私達の中に展開し、圧倒的な感動と喜びをもたらし、常に神の御名をたたえる終楽章に至るのである。 † 弾力性のある力。 「バネ」には種類がある。引っ張りに対してのもの、圧縮に対してのものである。板状のものもあり車の後輪に見る事が出来る。螺線状のスプリングバネは、身近な所ではボールペンの軸の中に見られる。螺線状のバネを想定してのことだが、規則的な引っ張りや圧縮、不規則な事態にも、元の位置に戻す働き(機能)を持つ。私達が主イエスを信じて、人生に迎え入れるならば、安定した人生を獲得できる。人間としての関係性の節々に、主イエスの福音が「繋ぎ」となるからである。現実と未来の間には、決して不安定をもたらさない。主イエスが「切れないバネ」のように働かれる。生活上の衣食住に関して、人間は不安にかられ、神を信頼していない。具体的な生活に関して、人は神から遠い。しかしながら神の愛と真実は、私達から離れない。強くて弾力性のあるバネのように繋がっている。私達引きよせ、ご自身の真実を知らせようとされるのじある。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ヘブル13・5)ハレルヤ!
  • 「健全な良心の信仰」(7)
    「健全な良心の信仰」(7) † 欠乏の目録。 私達が神との健全な関係にあるならば、何が生まれてくるのだろう?それは祈りである。祈りは、最も神との親しき交わりをもたらす。主と交わる者は、主からの供給なくして立ちゆかない自分を見つめる。祈りが私達に指し示すことは「私達の無価値と貧しさ」である。主なる神が、祈りを必要としないで、天与の恵みを与えられるならば、私達は自分が貧しい者であること、価値なき者である事を決して知る事は無い。私達クリスチャンは、全てを主なる神に依存して生きる。それだから、私達の信仰と健全な良心は、被造物として「地のチリ」の位置に私達を置くのである。これが神と私達の恵み溢れる関係である。神と私達の交わりの中身である。主なる神から全ての供給を願う私達の祈りは「今、まだ与えられていない」欠乏の目録なのである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」マタイ7・7)私達に対する神の供給は「与えられる事、見つけ出す事、開かれる事」である。私達は神に祈り求める事によって恵みを体験し、強くされ、高くされ、重みを増して、心から神をほめたたえるのである。 † 神に知られる幸い。 健全な良心の行き着く所はどこか? どの様にして健全な良心の報いがあるのか?「ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか」イザヤ40・27)次節で「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」要するに、私達の健全な良心は、とこしえの神に見つめられており、必ず顧みられる。主イエスの約束「・・・隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6・6)健全な良心の信仰を、評価出来ない人々によって失望してはならない。人から報いを得ようとする必要がない。あなたを常に見つめ続けて下さる「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)私達の健全な良心が信仰を完成されてゆくのである。神の顧みと豊かな報いが常に追いかけてくる。 
  • 「健全な良心の信仰」(6)
    「健全な良心の信仰」(6) † 不健康な心。 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」エレミヤ17・9)人の心はかくも絶望的である。罪に汚染されている醜さは、拭いきれないものである。健全な心(良心)は尋常のものではない事がわかる。聖書に書かれていても、私の当たり前とはならない。救われた。清められた。と言うなら、心の健全さが、いかほどであるか、自らを計る必要がある。主イエスの品性とほど遠い信仰生活では、陰険な心を持ち続ける生き方になる。表向きには善い人を装いながら、心は悪意に動かされる。これが直らないままに人生が進むのである。十字架の救いは、人格(心)の醜い陰険さを打ち砕いて、真人間に、即ち健全な良心を持たせることである。主イエスの血潮を浴びるように受けて、心は潔くされる。まずこれが第一である。そうしたら、神の祝福の中を歩める、健全な良心を持てる。すると「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)しかし陰険な心には、生命の泉は湧くことはない。陰湿な心は、人を裁き、憎しみ、怒り、自己本位である。罪人の形でしかない。私達の救いが、自分を生きるのではなく、キリストの中に生きるようになる事である。そうでないとサタンは私達をコントロールする余地を持ち続けるのである。 † 実際の隔たり。 健全な心は、ごまかしを見抜く、また正直に距離を感じ取る。パフォーマンス(演技)であったり、エモーショナル(感情)の信仰表現を正しく評価する。現実には、信仰を持ち、日常生活を戦いながら生きる。聖書の勧める、完全な在り方を解りながら、隔たりを縮めようとして前進する。幸いな実際的、具体的な信仰であり、祝福される信仰だ。主なる神も喜ばれ、惜しみない支援を与えられる。もう一つの実際がある。私達の完成が、主キリストの中に保全されている。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)私達は、すでにキリストと「ともに」復活し天に座している。完了しているという意味である。地上では戦うが、すでに天上の勝利者なのである。すでに天に住まう者として、地上では神の栄光のため、戦う兵士として遣わされている。
  • 「健全な良心の信仰」(5)
    「健全な良心の信仰」(5) † 人間の必然性を知る。 私達は同じ社会の中に生き、経済大国日本の中で活動している。極度の差別のない幸いな環境にあると言えるだろう。さて私達人間にも共通した真実がある。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」伝道者の書12・7)人間だけが与えられている霊(霊魂)は「これを下さった神」によるものである。「ちり(土)」によって造られた私達の身体は、元の地に帰る。と言う真実である。人間は明らかに精神(魂)として人生を生きる。意味ある生き方によって、個性ある自己という魂を磨くのである。私達は魂(自己)として神の御許に帰るが、地上の生活で人間(魂)の尊厳性に生きないで、虚栄や欲望に生きた人(魂)は、神の秤の上で目方の足りないことが明らかになる。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ4・4)だからこそ、私達日本人に重要な事は「霊はこれを下さった神に帰る」という、理解できる真理を福音宣教の初め(土台)にしたい。理解が健全ならば良心は、神の言葉を聞いて動き出すであろう。説得力の有効な一つであると思う。 † 年と共に若くなる。 長生きすることが当たり前となっている。重要な事は、長生きにあるのではなく「健康である」事にある。体内年齢が若いことなのだ。信仰も同じで、信仰年数が長くなって、霊的な若さを失っては残念である。そのためには、自分に依り頼むものが何一つないように、主イエスの血潮と恵みに依り頼むことである。常に自己を「罪人の頭」として告白することだ。信仰を長く続けている人で、罪を告白できないまま義人ぶると、霊的老人へと下降する。心の中に隠れていて、告白されない罪こそが、霊的病いを負っているだ。信仰歴が長いことの恵みは、罪から解放された喜びが増大すること。主イエスの誠実な祝福への感謝である。長い信仰生活は古びることなく、益々キリストの香りを放つのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリ8・2)私達は、これまでの恵みに感謝しつつ、教えられる事を喜び、知る事を喜こぶ若者として、前進して行こう。
  • 「健全な良心の信仰」(4)
    「健全な良心の信仰」(4) † 真理の論理に従う。 従う、ということは「論理的なことを受け容れる」と言うことを意味する。多くの時間を掛けて人間は勉強する。知的で能力を持つためである。しかし、「答」が用意されている勉強である。実際の人生を生きてみて、わかることは、答は用意されていない。と言うことである。現実の社会には答がない。学んだ道理が機能しない世界である。生きながら答を見いだして行くのが人生となる。そういう意味で聖書は生きる指針と答えを与えてくれる。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」2コリント5・15)これが、まっとうな答である。神の出来事は、私達の生き方に論理的な方向を与えてくれる。それが人間として、世界に向かって生きる、健全さと良心を持つことになる。若い時から、あるいは今から、真理の理論に従って生きれば、何一つ間違うことはない。私のために死んでよみがえられた「キリストのために生きる」その良心は、揺るぎのない健全さを意味するのである。 † 誰の賞賛を求めるか? 自分の評判に気をもんでいる人は大勢いる。人間は人間に対して生きているので当然のことでもある。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」1コリント4・3)使徒パウロは偉くなって傲慢に語っているのではない。5節には「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」私の心の中の動きまで、知り尽くされる神の前に、賞賛を得られるように生きよ。そうすれば人の評価、判定などに左右されない人間になる。全幅の信頼を持って、神の前に生きる。その信仰は、自分自身にも誠実になり、神の賞賛を得る事を願う、健全な良心の信仰を持つに至るのである。クリスチャンとして今ある者が、そのようであるならば、神の栄光は、いかばかり輝きわたる事であろう。
  • 「健全な良心の信仰」(3)
    「健全な良心の信仰」(3) † 貫かれた良心。 ロジャー・ウイリアムは17世紀に活躍した神学者・牧師である。アメリカ、ロードアイランド州の州都プロビデンス(神の摂理)の設立者である。非福音的なイギリス国教会を逃れ、自国では認められない「良心の自由」を求めて米国のニューイングランドに移住した。後に、ロードアイランドで「良心の自由が改めて宣言された。この地域はその信条のために迫害された人々にとって安全な天国となり、バプテスト、クエーカー、ユダヤ教徒その他が平和と安全の良心に従ってこの地を訪れた」また、1652年ロードアイランドは北アメリカで初めて奴隷制度を違法とする法律を可決した。私達とも繋がりのある洗礼派(バプテスト教会)が、最初に、プロビデンスに設立された。ウイリアムスの貢献を列挙できないが、彼の貫いた健全な良心の信仰が輝く。彼のこの一文に集約される「まことの宗教、つまりキリストに結ばれてまことの神を礼拝するということには、何よりも先に、二つの原則と基礎づけがあります。不信仰な行いからの悔い改め、そして神への信頼です」 アメリカはこのような清教徒(ピューリタン)の鮮烈な貢献によってバックボーン(背骨)が造られたのである。 † 恐れと不安との戦い。 「そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った」 マタイ8・25)主イエスが乗っておられる舟が、大嵐にもてあそばされている。一緒に乗っている弟子達は、次に起こる転覆と死の恐怖に絶叫したのであった。この現実は私達にも適用される。主イエスと共に歩む安全は保証されている。しかし、主と共に行くならば、主イエスの受けられる境遇と同じになる。私達は人生に波風が立たないことを願い、思いがけない試練や艱難に巻き込まれるのを恐れる。しかし、それは健全な良心ではない。健全な信仰は心得る、主は私達と居られる、たとえ「船は波に飲み込まれそうになった」としても、主イエスは完全な安全として、平和として、共に居られる。恐れと不安の嵐の中にあるなら、神を信頼する健全な信仰を持て。主イエスへの健全な良心を強固にせよ。主は必ず私達のために起き上がられる。そして、風と海(問題)を「叱りつけられる」解決と平安は主イエスにある。
  • 「健全な良心の信仰」(2)
    「健全な良心の信仰」(2) † 神の剪定を受ける。  「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15・2)「あなたがたは枝です」5節)とある。一つは、実を結ばない枝は、枝そのものを切り落とされる。一つは、実を結ぶ枝は、もっと実を結ぶように刈り込み(剪定)される。前提条件は、幹であるキリストに繋がっていなければ、どんな枝も投げ捨てられる(6節)この箇所は、実を結ぶ祝福の約束ではあるが、繋がって「結ぶ実の定義」が大事だ。思うに、人が地上で信頼するものは、富であり、金銭であり、自己能力である。キリストが私達に結ばせる実は「神への敬虔な信頼」である。神に全てを委ねきった者(枝)が、神の前に多くの実を結んでいるのである。私達は、そのような実を結んでいると言えるか? 魂に繋がる余分な枝葉を刈り取られないと「神に富む」豊かな実を結ぶことはない。健全な良心は叫ぶ、父なる神よ「私の中に在る不義なる枝を切って下さい」と。実を結ぶ枝は公言する。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5・24)ヨブは全てを切り取られたが、以前の財産の7倍の祝福を授けられた。 † 人が喜ぶもの。神が喜ぶもの。 人が喜び、神も喜ばれるものが最上である。常に問題になることは「神は聖なる義なる方」であるのに対して、人間は罪人(生まれながらにして罪のDNAを持つ)である。人間は原罪という拭いきれない下(もと)に生きている。神の主権の際(きわ)に立って「牧師の想い」があるとすれば、人として喜んだり、感動などしない。真理の鏡に映される自分の不足を、見せられるからである。これは当然のことなのだ。私達人間は「ありのまま」の自分を認められたい。だが、神は、キリストの現された神々しさに等しくなれ、と命じる「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)神は、それを与えることを最上の喜びとされ、私達は、主イエスの内容を信仰により獲得できることを最上の喜びとする。ハレルヤ!
  • 「健全な良心の信仰」(1)
    「健全な良心の信仰」(1) † 良心の不健全。 「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘブル9・14)主イエスの血は「私達の良心」を潔めるのである。私達の死んだ「罪の行い」から離れさせる。それだから生ける神に仕えられる者になる。クリスチャンの健全な良心は、主イエスの血潮に潔められる以外にない。神に近づくことが出来る、と言う偉大な特権も、潔めのない心では成り立たない。「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」ヘブル10・22)真実に神に近づき、神を知りたいならば、主イエスの血潮の注ぎを、心に受けて「健全な良心」に換えられることである。神を信じている人の中に、良心の不健全なままに、生活を続けている人が多く見られるのである。主イエスの血潮は「全き信仰」を得させるためである。邪悪(不健全)な良心を潔めるためである。十字架の下(モト)に行き、進んで主イエスの血潮の注ぎを受ける人は誰か?その人はダイレクトに神の良心を授かる。 † 痛みのある心。 主イエスは、痛みや悲しみを知っておられた。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」イザヤ53・3)主イエスは「さげすまれ」「のけ者にされ」そのひどさは、人々が顔を背けるほど。ひどいものだった。主イエスの良心は100%の感受性で、全てを受け容れられたのである。「ほふり場に引かれて行く子羊のように」主イエスは黙された。恐ろしいほどの、偉大な良心が現されているのである。有りもしない根拠で、さげすまれたり、のけ者扱いされる事に、耐えられる人はいない。ただ、神からの健全な良心を持つ人は聖霊に導かれており、神の御心に任せて前に歩むことが出来る。叫(ワメ)いたり、怒ったりしない。主イエスは人の不健全な心を悲しみ、自らの良心に痛みを覚えられたのである。完全な健全な良心とは、主イエスのお心である。その心を受け容れる人は幸いである。
  • 「私の帰すべきこと」(7)
    「私の帰すべきこと」(7) † 神の報いに。 結局の所、神を受け容れ、信仰に生きるとは何か?結果として、それだけの報いがあることである。霊と身体と心(魂)に、平安があり、喜びがあることである。一つは現世での幸いである。結果として最もわかりやすく、目に見える。しかしながら、信仰生活は地上を生きるためだけではない。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」1ペテロ2・11)現世を凌駕(リョウガ)した覚者(カクシャ)の立場を第一に、聖書は勧める。真理を究めた人とは、特別な人ではない。真理を、ごく当然「その通り」と認めて生きる人である。そうでないと、生きる事の大部分が、現世の事柄になる。世の中の価値基準が人生の軌道になる。私の帰すべきことは、人間の価値観に、自分を任せない。地上的な評価にも自分を任せない。なぜならば、真の報いは神ご自身が成されるものである。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」ヘブル4・13)パウロのようで在りたい「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」使徒24・16)神の前に生きる真理の基準である。 † 宣教の展開。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」2テモテ4・2)これは教会の生命線である。だれも人がいない開拓では、あらゆる可能性に向かって、飛び回った。婦人会では、八百津の鯉居に住む求道者を送迎。妻は恵那市、関市に行き、訪問伝道をした。可児市全戸への教会案内、個別の家庭訪問伝道など、初めての訪問で救われた人も出た。教会の拡大によって変わるが、変わらないものがある。宣教とは「仕掛ける」こと「展開」することにある。だれにも出来る事は「次の二を、次の三」を思いつく事。そして展開してゆくチームワークである。この動力が教会に、日本に欠かせない。これを怠れば、凋落は直ぐに目に見えてくる。教会の精兵は、そのための知恵を与えられ、主イエスと共に、宣教を戦う人である。
  • 「私の帰すべきこと」(6)
    「私の帰すべきこと」(6) † 一切を委ねる。 魂である人間は、自己保全のため、自己尊厳のために生きている。そのため、反応的に生きるのだ。「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」レビ24・20)即ち、誰かが私の歯を折ったなら、私も相手の歯を折る権利を持って行使する。身に覚えのない批難や、中傷に、絶えられないのが人間。様々な言葉の暴力に対抗して「怒り心頭に発する」ままに戦うのが普通である。反対に、魂の麗しい愛の善行に対して、周囲の無関心や無視に会うと、その人々への愛は冷え、反感を抱くようになる。このような事は、キリストの身体(教会)にあって欲しくない。私達は「すべての完全さ」を主イエスの中に見る。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」1ペテロ2・22-23)私の帰する所はここだ。反応的に生きる事をしないこと。誠の真実は、人間世界では理解されず、ののしられ、馬鹿にされ、言動による暴力で苦しめられる。主イエスは、全てを知り尽くし、正しく裁かれる神に、一切を委ねられた。そこには、神の支配する真の平安がある。 † 生きている信仰。 信仰の特性は「生命」である。信仰が生きているので、神も生きておられる。一方、人が信仰を失うと、人は神と永遠の生命を失う。私は、私という人間の知的理解力で「神を信じ」神を握っているのではない。神の御子イエスが、十字架の死を通して、私に出会い、罪の赦しを与えて下さった。生きている信仰とは、私の中に神を招き入れることではなく、神の中に、私が招き入れられること、神の中に生かされることである。私自身が神に引きよせられ、同化されることなのである。端的に言えば、神があっての私である。私があっての神、ではないのだ。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」 2テモテ2・11) 私は、キリストと共に十字架に死んでいる。この事実を受け容れるので、死んだ私を生かすのは「キリストの生命」なのである。また「キリストの信仰」が、死んだ私の内容となる。幸いこの上なし。
  • 「私の帰すべきこと」(5)
    「私の帰すべきこと」(5) † 神に喜ばれる事。 「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」2コリ5・9)念願とは「一心に願い望むこと」で、ここでは、生きていようと、死んでいようと、ひたすら思い願うこと。と言っている。自分自身の念願が、生き様の本質となって現れる。「帰する」ところが、使徒と同じ念願であるならば、最も神に喜ばれる事に違いない。主に喜ばれることについて聖書は、多くの事について記している。私達の神は愛に満ちておられ、私達のどんな小さな善いことにも、喜んで下さる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11・6)第一に信仰がなくては、喜ばれない。信仰とは「神に近づく者」である。もっと、神に近づくことをしょう。神の近くにいる人は、必ず報われること、念願が実現することを確信しょう。主なる神は、キリストにある小数の民を、この上なく喜ばれている。「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」1ヨハネ3・22 † 神の憐れみに帰する。 63年間の信仰生活の帰するところは何か?私には「神の憐れみ」以外にはない。牧師となって神の役者となったが、それも「神の憐れみ」以外にはない。何かが出来たとするならば、それも「神の憐れみ」以外にはない。自分の存在は「神の憐れみ」によって有る。それ以外にはない。神の憐れみによって、キリストが世に遣わされたように、神の憐れみの選びがあって、私も世に生まれた。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)何か別の理由を、自分に帰することができない。私の生涯の体験と学びは、主なる神の「深い憐れみ」を証明し、証詞するためである。これまで与えられた地上的なものも、霊的な祝福も、神の憐れみの所産なのである。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、その憐みは 、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」ルカ1・49-50)マリヤと同じように「我が魂は主を崇め」る。1・46)のみである。
  • 「私の帰すべきこと」(4)
    「私の帰すべきこと」(4) † 枯らさない務め。 今年の夏は、昨年に勝っての酷暑の日々となっている。友人が毎年、自家栽培の茗荷(ミョウガ)を贈ってくださる。今年は高温のためか8月を待たずして、茗荷の茎が枯れてきたという。今までにないとのことだ。相応に雨は降ったのではないか?しかし、それ以上に植物には水分の補給が要るようだ。ベランダや屋内に、植物を育てている人は、常に植物の様子を見ている。欠かしてならないのは、水を注ぎ、命を繋ぐことにある。畑に植えられた草花も同じで、日照りと高温の中では、水が命を繋ぐ。人は、それぞれだが、木花と共に生きることで、学ぶ事が多い。管理するということは、育てることであり、草木の命を枯らさないことである。人に対しても同じ思いが大切である。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)人間は「魂を生かす水」を飲まなければ育たない。主なる神の言葉が、ふさわしくその魂に届くことである。そのためには、主の血潮を注いで、雑草(罪)を絶やし、栄える原因を与えることだ。 † 本来のものにする。 二日間を要して、譲り受けた古い二台の卓球台の修復をした。昭和時代の代物(シロモノ)だが、メーカー品である。経年の使用で、四辺に欠けがあり、これをエボキシ樹脂で補填し仕上げた。それを塗装で覆って、できるだけ欠けにくくした。本来のものに近づけると言うことだが、材質の劣化は取り戻せない。これで卓球台は、全七台となり、卓球イベントも可能となる。教会員のみならず、求道者も共に研修所(アーク)で、交わりが出来る。教会の務めは、人に対してである。人は本来、永遠の輝きと栄光を持っている。それが隠されて見えなくなっている。そればかりか、この世のかもしだす、人格的な攻撃がある。劣等感、疎外感、孤独感に、追いやられている若者の数は測り知れない。だが教会は、人間の本来を回復する場である。人間が持つべきものを創造する。それが神の愛であり、神の御業で有る。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」アタイ11・28)古いもの(自分)は過ぎ去って、新しい自分になれる。(2コリント5・17)
  • 「私の帰すべきこと」(3)
    「私の帰すべきこと」(3) † 愛される責任。 愛される。と言うことは、自らの自発性ではなく、愛することを選んだ人格の意志によってもたらされるものだ。ゆえに「私は愛されるべき者である」と言う自覚や根拠を自らのうちに持たない。愛とは深遠なるものである。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」1ヨハネ4・10)もちろん、疑似的な愛というものがある。男が異性を慕うように、惚れる、好きになる、という自分の欲求のために求める愛である。そういった形でも「愛されている」と、人間は感じている。しかし、多くの場合、その人の全てを、受け容れているのではない。その人の欠点や隠れている気質、未成熟さなどが結果的にクローズアップされてくる。人間に有る愛は、決して完全ではない。しかし、神は私を「愛した」。不完全極まる罪人で、愛される資格も根拠もない私を。神は、真実に今も、愛して下さっている。それだから、心から感謝と畏れを持って、神の愛に応えたいと生きている。しかし私は、人に対して「私は愛されるべき」という要求の根拠を持てない。愛の在り方だと思うからだ。 † 隠されてする事。 だれにも知られずに、重要なことをする。このような人々によって、世界は成り立ち、動いている。一方、全ては自らの業績のように今頃の情報ツールを使って、拡散する人もいる。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6・1)確かに神に知られていることに留めることは、霊性を高められ、人格の重みを増すように教えられる。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6・3)さらに、自らの善行を、忘れ去ることである。そこには清らかさが漂う。信仰が創り出す品格が、見られるようになる。人の評価ではない、神の評価に生きられるようになる。身近な人の讃辞は、さほど重要ではない。「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません」ルカ8・17)隠された善行は、ある時、驚きを持って明らかにされるのだ。
  • 「私の帰すべきこと」(2)
    「私の帰すべきこと」(2) † 初めが肝心。 初めに失敗があると、後が上手く行かない。それで初めが大事(肝心)なのである。何かに取りかかろうとするなら、その段取り(工程)を正確に定める。人間が人生について考える時期は、大まかには思春期くらいか。日本人は、この頃までに、しっかりと唯物的世界に浸って、思考し世界を見つめている。ここから「初めが肝心」なので、さしあたり勉学が優先する。ミッションスクールでは「初めに、神が天と地を創造した」創1・1)に出会えるが、ほとんどの日本人には縁がない。初めに、とは「原初に」である。原初に、すでに天と地があったのなら、神は、その後の存在でしかない。しかし「原初に神が天と地を創造した」この事実は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)人間として生きるために、肝心なのは、宇宙と世界は、神の創造物であるという認識である。でなければ、お決まりの唯物論の認識で生きるしかない。どれ程の高い知性も魂も、物質同様の結末しかない。常に自らの人生が、神の実在と創造世界に帰結すること。これが肝心だ。 † 先人の労苦。 最も学識を必要とするもの、それは「聖書の解釈」である。神の言葉が命を持ち、力と光を放つのは、盲信のゆえではなく、健全な御言葉の解釈があるからである。私達の聖書(神の言葉)には、二千年にわたる連綿とした研究が続いている。考古学、歴史学、言語学、民俗学、自然科学を、初めとする様々な研究が、神の言葉を成り立たせている。当然、あらゆる攻撃がされてきた。今、聖書と接する私達は最先端の聖書学に裏打ちされた、確かな神の言葉を手にしている。人間は色んなものに信頼を置く、金銭はその筆頭だろう。財産も同じ、今の健康にも信頼を置いている。しかしながら、神の言葉ほど信頼のために尽くされた学問はない。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」1テモテ4・9)自分は、先人の限りない労苦の恩恵を受けて、疑いなく三位一体の神を信じ、御言葉を信じている。心を騒がせることなく生きる、真実な道である。残された生涯を「御言葉の言うとおり」 に、帰するつもりである。
  • 「私の帰すべきこと」(1)
    「私の帰すべきこと」(1) † 自分に帰する間違い。 「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。 † 平安の源。 私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。
  • 「私の帰すべきこと」(1)
    † 自分に帰する間違い。 「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。 † 平安の源。 私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。
  • 「果たすべき事」(7)
    「果たすべき事」(7) † 今からの最重要。 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」エペソ6・10)使徒が最後に言い残す言葉ほど、重みのある言葉は無い。原文直訳では「最後に、主に在って、また、主に内在する力の積極的な効力において、絶えず強められなさい」となる。主イエスとの、結びつきにおいてのみ、着せられる力なのだ。賦与される、与えられる力は、満々と主イエスに顕在している。この世に生きる私達の、戦いのために用意されたのだ。第一に、罪と死の力を持つ悪魔に対して。第二に、世の力と、自らの肉性の力に対してである。なぜならば、人間の努力する力では、対抗し得ないからである。主イエスと結びついてのみ、私達は力を付与され、勝利できる。使徒は「強められなさい」というように、主に顕在する大能を、私達は与えられるのである。それでなければ、どうして悪魔の力に対抗出来よう。主イエスは、積極的に、ご自身の大能を私達に、与えようとして下さっている。主イエスが、進んで私達を強くするのである。この主イエスの御心を喜び感謝して、強められ、戦いに打ち勝ってゆきたい。 † 言葉のみではなく。 同じクリスチャンで、同世代の牧師が教えた「私達は神の力を見せる」と、聖書に書いてある。と言うのではない。書いてある通りに「神の力を見せる(実演する)」と言うのである。度胆を抜かれる思いがした。37年前のことだ。・・・確かに「神の国はことばにはなく、力にあるのです」1コリント4・20)また「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした」 1コリント2・4)と聖書は語っている。福音は生きているので、当然、力を伴っている。私達も、今の時代に共有している。ただ信じていても、力が伴わないだけである。主イエスが現した力ある御業を、聖徒達は、どの時代にあっても現した。使徒パウロの言う「私の福音」には、揺るぎない福音の教えと「神の御霊と御力の現れ」の実演が伴った。現代のクリスチャンにも、聖霊様の力あるお働きを通して、神の実在を見、確信して貰いたい。それは、神の現存を、法的に証明する実演なのである。何を言われようと、主イエスの恵みにより、聖霊の御力の現れを、与えられいるからである。
  • 「果たすべき事」(6)
    「果たすべき事」(6) † 知ることに進む。 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」伝道1・18)人生は、知恵と知識で憂いの多いものになるのか? 知恵者(ソロモン)は、無知や、愚かである方が良い、とは言ってはいない。問題は「知恵」の質である。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです」マタイ12・42)ソロモンに勝る「知恵」は、主イエスご自身である。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」ヤコブ3・17)主イエスは、死に至るまでの従順をとおして、私達が神に生かされる、真の知恵と成られた。人間の知恵や知識では、神との和解は生まれない。主の犠牲(十字架)で、私達は神と和解し、神の子供と成れたのである。「・・・・キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」1コリ1・30)主イエスを知る知識こそ、私達の真の幸福を生みだすのである。全力を尽くして、主を知る知識に進もう。 † 限界を知りつつも。 私達は本当の意味で限界を知らない。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」 ヘブル12・4)元旦の寒中水泳に参加できる人は、訓練に耐えた者で、身を切る氷のような冷たさに耐える人だ。私達は、どの様な痛みの中、失望の中、喪失と悲しみの中でも、主への信頼を持ち、感謝と、主への喜びを告白できる信仰を理想とする。先日、気温34度の中、荷物を背負い、坂道の石段を上り下りした一万五千歩は、老体には限界に近かった。しかし、それに勝る喜びがあった。美しい庭園、見事な景観、初めて見るもの、聞く事が、疲れを忘れさせた。この事を通して教えられた事は、私達に最上級の希望と喜び、そして現実に絶えることのない神の愛が注いでいる。これは宗教用語ではなく、生きている現実である。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)この主の喜びに、実存し生きれば、限界に打ち勝つ。
  • 果たすべき事」(5)
    果たすべき事」(5) † 励ましの言葉。 牧師は人々を励ます務めを持っている。特に、苦しみや悲しみの中にある人、戦いの中にある人を、見過ごしてはならない。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」1テサ5・14)ここでは、全員が励まし、助け、戒める事を、ミニストリーとして行うことが求められている。キリストの愛と寛容が土台となる。牧師のみならず、信徒も、どれ程に多くの励ましを受け、誡めによって教育され、矯正されたか、その尊さを知る者が、励ましのミニストリーを、豊かに実らせる。御言葉に、取り組む者がそうなる。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」2テモテ3・16)信仰を与えられた者への聖書は、私を義の訓練のため、教え、戒め、矯正する霊感の書となる。そのように聖書と向き合い、応答している者が、内容のある、真実な励ましを、与える事が出来るのである。私達は常に「神寄り」に、聖書を読まず「自分寄り」に聖書を読む。これが狂いの全てかも知れない。信徒でも「神の人」と言われる人は、神寄りに聖書が読める人であることを覚えよ。 † 生焼けの菓子。 火が全面に、均等に通っていない菓子は、旨さがない。クッキーやパンなどを作る人々は、最善の注意を火加減に置いている。それは、生焼け部分がある菓子は、失敗品となるからである。要するに「焼かれている」部分と「生」の部分がある。神は、私達の中に在る二面性に、関心を持って係わられる。「人には表と裏がある」というところだ。それを当たり前のように、使い分けて生きているのが、人間世界である。技量であり、知恵とも言われる。しかし、私は神のものである。神はご自分の民に求められるのは、二面性のない信仰である。確かに、一面は、神の恵みに生きている。しかし、一面は、神に服従しない自分のままに生きている。神の恵みが、表も裏も貫いていない、生焼け状態である。このような生き方に、終始しては、生焼けの人生で終わる。私が果たすべき事は、恵みで、裏も表も焼き上げられることである。「私たちの神は焼き尽くす火です」 ヘブル12・29)私達の信仰に、生焼けが残らないように、神の火で焼かれ、恵みが香りを放つことだ。
  • 「果たすべき事」(4)
    「果たすべき事」(4) † 自分へのおもねり。  「おもねり」とは、へつらうことで「自分におもねる」とは、自分に都合良く振る舞うことである。主イエスは群集には厳しく言われないが、身近な使徒達にはそうではなかった。中でも、身近に選ばれた三人のペテロ、ヤコブ、ヨハネは、より主イエスの、まことを見、御言葉の真意を示されたことは間違いない。要するに、私達が主に近く住み、キリストに従おうとすれば、主の御言葉は真実さを増し、厳しさを伴う様になるということである。主イエスとの距離が遠ければ、御言葉は軽い。しかし、主に近づくと、御言葉の真実が重みを持つ。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」マタイ19・29) ヨブを思えば、主の真実が理解できるが、人事ではなく自分の事だと、受け取れるのか? 主の眼差しが注いでいるのを感じる。わたしの信仰は、自分に都合の良いことを重視した、おもねりのあるものだ。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」19・27)と、言ったが、本当に「主のみ」に従っていた。私達にへばりつく「おもねり」を剥がして、棄て去る事が、主への真の愛となり、応答(信仰)となる。 † 疑わず進み続ける。  神はアブラハムに言われた「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」創世22・18)いま、私達はアブラハムの祝福の内にいる。幸い、罪から救われる信仰は与えられた。しかし、大事な最も身近なことは、人生に襲いかかる、様々な心配、恐れや不安の現実をどうするかなのだ。心に決めなければならないことがある。それは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14・1)神を疑わない「決意」を持って信じる事。なにごとも、「神は「万事を益となるように働かれる」ロマ8・26)そのような私達は「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」詩4・8)これに勝る生き方はない。そのために神は人となられ、私達のために死なれ、復活された。現実の幸せを疑う余地無し! ハレルヤ!
  • 「果たすべき事」(3)
    † 聞き従う事にある。 自由意志を生きられる幸いを感じない人はいないだろう。それだからこそ、私は多くの反対にあったが、キリスト者となれた。これが、前世代の環境(戦前)だと、難しいと感じる。イスラエル民族は、神によって造られ、神は民との間に、契約を結ばれた。内容は平安と祝福を得て、永遠の生命に至ることである。民の自由意志が赴くところは、神の言葉に聞き従う事であった。旧約聖書の内容はイスラエルが、神に如何に向き合ったかの歴史である。各時代には、神の生ける言葉を語る預言者が立てられた。イスラエルの民が聞き従うためである。国家存亡に関わる危急の時、王や首長達が、神の言葉(預言者)に、聞き従うか、否かが明暗を分けた。「神、主は、こう仰せられる。もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる」エレミヤ38・17)そうすべきであった。しかし、ゼデキア王は、聞き従わなかった。最も悲惨な結末を招いたのだ。恐れや不安の最中にこそ、神に聞き従うべき事を、肝(キモ)に命じたいと思う。 † 管理すべき身体。 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)他の箇所には「神の神殿」と記す。今や100年ではなく、120年時代が言われ始めている。聖霊の宮として、望ましいのは、健康な身体である。脳の劣化を遅くする努力も求められる。そのためには節制することも、鍛錬することも、意識して管理して行く事だと思われる。あくまでも、主なる神を崇め、福音の奥義を喜び、楽しむ「証し人」としての生涯でなければ意味の無いことである。生きる年月は、本人の知るところではないが、聖霊の宮として管理されない身体は、神の御心に反するのではないか? 医療の進歩も、私達の目的に味方している。地上での幸いは、神の神殿として、この身体に与えられている五感を通し、感謝しつつ、地上に生きることだ。神の国を、喜び、楽しんで生きる事である。「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」伝道の書5・20)ハレルヤ!  
  • 「果たすべき事」(2)
    「果たすべき事」(2) † 自らのため信ず。 救い主イエスは初めに「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28)と、招かれた。個々の人間自身が、現実に持っている人生の重荷を取りのぞき、神の平安の中に住まわせてくださるためである。主イエスの、全ての人に対して果たすべき事は、ここにある。同時に、私達は主イエスの十字架と復活の、神の御力によって、生きる人生のすべての重荷を、主イエスに委ねることが「果たすべき事」なのである。まず、私達は罪人として「自己中心」でしかあり得ないのであり、主イエスの福音は、個々の一人一人へのアプローチとして明らかにされた。福音は、宇宙創造の神の本質である、憐れみと慈しみの表れである。個々の一人一人を「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ49・16)まさに、神はあたかも、私のみを見つめておられるように、ご自身の恵みに満たそうとして下さるのである。福音の広がりは、全世界の人々への宣教であり、救いである。しかし、その源泉は、私自らのために、注がれる圧倒的な祝福と、神の憐れみと、慈しみの現実が、生みだしてゆくのである。ハレルヤ! † 主なる神のために。 私達は知的な理解力や、判断力を与えられている。教育はこの世に役立つ者、その能力を増し加える事に向けられる。それは、世界中がそうである。元来、大学は神の言葉を正しく理解するために、創設された。16世紀のルネッサンス(人間の個性・自由な生き方を求める)を機に転換した。大事なことは、どの様な時代であれ、主なる神は、変わりなく恵みを注がれている。どの様な時代であれ、人々は滅びる運命を免れることはできない。上掲のごとく、圧倒的な神の愛は私達に注がれる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 2コリント5・17)古きから、新しきへの転換が明確に起こった。主なる神のために、生きる私達の人生を、神の「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」1ヨハネ4・13)と、明確に宣言する。私は神の子供であり、神の御力に支えられるのだ。神は、私達に御霊と御力を注ぎ、ご自身の約束を、果たさるのである。
  • 「果たすべき事」(1)
    「果たすべき事」(1) † 幸いな人。 「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20・24)演劇のセリフではない。真摯なまことの言葉なのだ。ここには長寿を求める願望も、栄達を求める欲求もない。パウロは「成し遂げるべき任務」を、いつも目の前に置いていたのだ。私達は自由主義的に、自分で自分の道を決めたい。しかし、パウロは違う「決められた道」を知っている。「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」エペソ1・11)神の目的に従って、自分に定められた任務を受け容れる。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」エペソ2・20)私達はダビテのように「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである」使徒2・25)私の良い行いは、主が成し遂げられるのだ。 † 省みてわかる。 私達は、生きている間に、悟りを得なければ、人生は無に等しくなる。その良い例がルカ16章19-31「ラザロと金持ち」の実話に書かれる。繁栄は神からのものとしてヨブは敬虔に生きたが、多くの人は順風満帆の時に、神から遠ざかる。貧しい者も、豊かな者も「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある」伝道3・2)ソロモン王の偉いところは、地上のあらゆる生業(ナリワイ)は「空の空」と悟ったことにある。ラザロに対する金持ちは、先人の知恵に学ばず、省みて学ぶ事を怠った。死んでわかった のだ。自分は黄泉で苦しみ、ラザロはバラダイスにいる。金持ちは、絶望の淵から叫ぶ、私には五人の兄弟がいる、彼らまで、この苦しみの場所に来ることがないよう警告して下さい。と、その答えの声が鳴り響いた。彼らには聖書がある。これに耳を傾けるほかに道は無い。と、人生の結果である「死」がら省み、悟るべきなのだ。
  • 「霊的な同化」(7)
    「霊的な同化」(7) † 主イエスの精神。 心(精神)と言う言葉は、誰にもわかる。特別な霊的な言葉ではない。そのようにクリスチャンの信仰は、心の内側から言葉となり、態度となって現される。利害を含む人間関係や、様々な生活上の重要度においても、その人の信仰は、その人の「心」の命ずる言葉となり、行動や態度に表れる。このような私達を、主なる神は見ておられるに違いない。「・・・・数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」黙20・12)救いは信仰によるものであるが、信仰は必然的に、それが生み出す「行い」によって明らかにされる。神は、私の心の行動(言葉・態度・行為)を克明に記録される。私が、主イエスの精神(心)と同化して、どれ程に生きたか、と言うことなのである。主イエスの精神は、父なる神の憐れみと慈しみである。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2・13)主イエスの精神(心)を持って生きる事が、最重要に思われる。    † 独りよがり。 私達は、何ものにも煩わされず、自由に生きる事を求める。思わしくない様々な関わりから自由でありたい。それが、罪深い人間の本能的願望だろう。裏を返せば、人は孤島に一人で生きているわけではない。実は、あらゆる関係の中で、人々の中で、この地域に居る。真実には、どの様な姿勢が求められているか? 聖書の求める原則は、私達を「井の中」に閉じ込めるのではなく。「大海」に出て、生きることである。人間世界に関わって「神の国」を拡めて行く事にある。その姿勢の中に「真理の自由」が与えられる。神の愛と、聖霊の働きを信じて、前向きに関わってゆく自由である。独りよがりな自由は、自己保全的な「井の中」に留まり続ける。自分に都合の良いことだけを求める生き方を、憎むことは人として、正常である。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」ヘブル13・13)主イエスと同じようにする(生きる)これ以外に、残されている道はないと思う。
  • 「霊的な同化」(6)
    「霊的な同化」(6) † 一心同体。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」エペソ5・31)神の御前で、誓約された結婚の、祝福の真意が述べられる。一心同体という言葉は新約聖書で4回用いられている。その中に「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです」1コリント6・16-17)私達は、生きている限り「煩悩(欲望)」が、つきまとう。通俗的には、性欲と物欲であり、遊女は、その象徴である。人間は欲望と一心同体として生きている。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」エペソ2・3)しかし今、私達はキリストにより、滅びから救い出された者として生かされる。求められる事はただ一つ「主と交われば、一つ霊となる」主イエス・キリストと一心同体になる事である。主なる神であり、父である神に、自ら近づいて交わる事である。それを怠れば、必然的に、欲望の力に同体とされるのだ。クリスチャンは危うい現場(この世)に居る、ということを、肝(キモ)に命じるべきである。 † 希望の中に生きる。 すべての人が知っている事は、人生の悲哀である。不遇の中におかれ、報われない中に生き、長い年月を生きても、思うようにすることが出来なかった。そのような悔いを背負っている。その結果、神も仏もいない、と失望の中に生きる人が大勢いる。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」ロマ15・13)ここに、人間の生きる源泉は「溢れる希望」であることが宣べられている。現実の喜びと平和に溢れることである。「希望の源である神が(共同訳)」希望に溢れさせる。しかも、永遠の世(天国)にまでも確固として結びつける希望である。この世の富を持ち、人間の欲望を満たしても、虚しさが襲い、死の恐怖に追いかけられる。今こそ、中途半端な生き方を止めよう。真実な希望の神から得られる、あらゆる喜びと、平和に満ちる、信仰の祝福の中に立ち上がろう。
  • 「霊的な同化」(5)
    「霊的な同化」(5)   † 聖霊に仕える。  仕える(奉仕)のことを、ミニストリーと言う。人や地域や社会に対する奉仕(仕える)ことである。私達は知っている「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」ヨハネ5・17)と言うことである。教会での交わり、信徒同士の交わり、私達クリスチャンと共に、主イエスは働かれる。百人の中で、私一人がクリスチャンであっても、主イエスは働かれる。聖霊の働きは、教会のみではない。大事なのは、主イエスを信じる者が、未信者の中で聖霊に仕える事だと思う。最もやりやすいのは、教会内でのミニストリーである。キリストを信じていても、キリストのようではない未熟さに纏われているのが私達の現実である。聖霊はその様な一人一人に、愛を増し加え、力を増し加えられる。これまでの人生で、大きな痛手や、失望に傷つき、引きづられて生きているクリスチャンもいる。聖霊は、そのような人に仕えられる。聖霊は、父なる神の深い愛と憐れみで、傷ついた心を癒される。聖霊は、御子イエスの御業と力と、血潮の聖さによって、人間に対する悪魔の力を打ち砕き、身体の病や痛みを打ち砕かれる。私達は、そのような聖霊に仕えて奉仕する。そのような聖霊の働きと力を知った者が、より聖霊と同化し、仕える事が出来るだろう。 † 必要な間(マ)を持つ。  可愛い幼子達が、大勢周りに居る。自分の得意技の一つは、幼子と親密になれることである。幼子を可愛いと思わない人は、幼子も顔を背ける。幼子の性質によって、距離を置きながら徐々に近づいて少しづつ関係を築いてゆく。そして完全な親愛を持てるに至る。無理に近づいて関係が崩れてしまうこともあるからだ。我が家には金魚が飼われている。新しい金魚を水槽に入れた時、しばらくは、近づくと逃げ去る。エサを入れても隠れる。2ヶ月くらい経つと様子が変わってくる。水槽に近づくと金魚が寄ってくる。直ぐには通じなくても、間(マ)を持って続ければ結果が出て来る。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。・・・」ヤコブ4・8)神に近づく回数を増やせ、と言うことだ。間(マ)を置くごとに、二心を捨て、心清くして、神に近づけば、神も近づき同化される。
  • 「霊的な同化」(4)
    「霊的な同化」(4) † 神からの私達。 日本は、無神論者の国、あまたの偶像の国である。所が聖書を通してならば、この日本は神のものである。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」ロマ5・8)主イエスは、日本人を、死を持って愛する事で、ご自分の民とされているのだ。全く新しい視点を私達は持つ。毎日、念仏を唱える人も、信仰に何の興味も抱かない人も、神の愛に覆れている。クリスチャンだけが、神と同化しているだけではない。今、罪人である同胞の日本人も「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)ということは真実である。神の愛に生きる私達に望まれている事は、同じ神の愛を注がれている未信者を、慈しむ事である。神にあっての私達は、神に愛されながら、罪にある同胞を、同等として愛し、敬うことである。神は被造物として、私達人間をお造りになった。神は、御子に肉を纏(マト)わせ、世に送られた。被造物全てを贖われるためである。同化を望まれる神なのだ。 †  全き同化への道。「全き同化への道」 もちろん、主キリストとの事だが、そんなことは実際にはあり得ないように思える。しかし、霊的にはありえる。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・5-6)霊的立場では、完全にキリストと同化している。残ることは、私達が肉を持って、地上で生きていることである。「肉」こそは、聖霊の敵として「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」ロマ8・13)その対処法は「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」 ガラテヤ5・24)もっと的確に言えば「キリストと共に(私は)十字架につけられた」ガラテヤ2・20)であり、今日も今も、私は死に続けているのである。これは驚くべき霊的、具体的な真実であり、キリストとの全き同化をもたらすものである。「・・・・キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」 ロマ6・5)神の御業をほめたたえる。
  • 「霊的な同化」(3)
    「霊的な同化」(3) † オーバーラップ。 「二つ以上の要素が重なり合うこと」信仰(信頼)の中に、生きる私達は、目に見えない霊なる神を知る。御言葉は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)ここでは明確に神の所有物なのである。主なる神がオーバーラップして下さっている。この事実が、感覚的に実感がなくても、神との同化がされているのである。私達は、この事実を受け容れ、告白し宣言する事によって、神(聖霊)との同化は強固になる。そして驚くべき聖霊のオーバーラップを知るようになる。聖霊は私達の中に在って、主イエスの御業を現実に現される。端的に言えば、悪霊を追放される。祈りに答えて奇蹟を起こされる。目の前に居る病いの人を癒やされる。明らかに「生けるキリスト」が現実にオーバーラップされるのである。畏れ多いことである。罪を赦した方(神)が、ゆるした者(罪人)を友とされるのである。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ」ヨハネ15・15) † 変わらないものこそ。 時代の流行に、同化して行く事は、快感かも知れない。若きころには髪型さえも「慎太郎刈り」「裕次郎刈り」それに白いハンチング(帽子)をかぶった。外側のものは変わり続ける、とどめることは出来ないものである。要するに同化は瞬間的である。それを適度にクリスチャンらしく楽しむのも良い。それと同時に、変わることのない、最も私達を喜びと祝福に導く、まことの自由に同化してゆきたい。パウロはこう言う「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」ピリピ3・11-12)パウロは、国を治める大統領よりも、キリストと同じ様になることの、偉大さを言っているのである。人間の成せる地上のいかなる業(生き方・事業)に勝る、最高峰の業が、キリストご自身であることを、見たのであり、知ったのだ。さらに、キリストを得よ。キリストを知れ。それに勝るものは、世にはないからである。
  • 「霊的な同化」(2)
    「霊的な同化」(2) † 通じるもの。 「至誠通天」極めて純粋な真心は必ず天に通ず。という中国の孟子の言葉である。私達には、この上なくありがたいことは、天に義なる、聖なる神がおられるということである。即ち、私達の真心に対して速やかに応答して下さる真実な神であられる。それにしても、私達は常に、純真な真心であろうか? すごく打算的であるのではないか?主イエスは、私達がどれ程のものか、良くご存じである。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」ヘブル7・25)この意味合いの中に「私達が完璧だから」というニュアンスがない。純粋とは言えない、私達を知って、とりなして下さるのである。御子イエスは、天の父に、純真な真心で近づかれた。私達にもそのように求められている。しかし、そのようではない私達を、主は、執り成して、天(神)に通ずるものにして下さる。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10・19)「聖所に入る」とは、聖なる神と同化することである。それを成し得るのは、真心から捧げられた主イエスの血潮なのである。ハレルヤ! † 引きよせる。 主イエスほど、多くの人を引きよせられたお方はいない。今も多くの人が引きよせられている。それほどに主イエスには魅力があるからだ。その魅力とは、真実に一人一人の事を知り尽くして愛しておられるからである。その愛とは、その人の必要に対して、与える全てを持っておられるからだ。人間の引きよせる力も、同じようである。見せかけのない、思いやりや、親切が常に隣人に注がれているとき、隣人はあなたを無二の友として結びつく。引きよせる力を持つ人は、徹底的に変わらない信念を持つ。その方(隣人)を信頼し、信じる。「この方(隣人)は、私と親しくなる」と、揺るがず「そのようになる」と思い続ける。さまざまな違いを超えて、現実は変えられる。自分の心に思い描いたように、素晴らしい関係が出来てくる。私達の信仰は、神のみを信じるだけではない。人と人の繋がりを創り出す愛と信頼の、引きよせの法則(信仰)を喜ばしく用いるのである。
  • 「霊的な同化」(1)
    「霊的な同化」(1) † 神の御業による。 同化「assimilation」は、用語として心理学的、言語学的、社会学的、生物学的分野で用いられている。無いのは、霊的な同化という分野である。既存の四つの分野を総合しているようなもの、それが霊的な同化のように思える。霊的とは、自らと神との直接的な関係であり、その関係から生みだされるのが、同化作用である。神の測り知れない愛と御業が、私達に及び神との同化に進ませる。霊的という意味の大きな部分は「神に同化する」事だと心得る。クリスチャンとは「キリストのような人」日本では「耶蘇(ヤソ)」と言われた蔑称(ベッショウ)である。それほどに聖書に即して生きているから言われた。それは、何よりも神の愛と御業が、人をキリストに同化してしまうゆえに、必然として現れる。神の栄光が、人(私達)を通して現されるのである。一方、もしキリストに同化されていないならば、信仰は不自然な現れ方をするしかない。人間が神を採り入れようとする信仰は根本的に誤っている。私達は神に愛され(捕らえられ)神のもの「神の子供」とされ、神の所有となる。自分を神に明け渡して、初めて神と同化する。これが霊的な一体であり、生命の溢れる信仰である。 † なりたい人になる。 自分が、なりたい人を持っているか?あるいは望んでいるか?と言うことは非常に重要である。「イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」マルコ10・51)身体上の問題だけではなく、神にあって何を望んでいるのか?と言う事である。私には憧憬(ショウケイ)する偉大な先人が大勢いる。彼らの信仰と霊性に追いつき同化したいと願っている。今は、まだ到達していなくても、願いがあり、求め続けるならば、神の霊はそのために私達を導く、そうして願わしい自分に到達し、願いと同化する。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイ7・7)神はあなたのために助ける事を喜びとされる。私達の使命は、執り成し祈りつつ、キリストのすばらしさを求める事。そして、神の子供として広げられる可能性を求めることである。その意志がない人は、まことの老人である。
  • 「信のまこと」(7)
    「信のまこと」(7) † 聖書の信仰と日本人の信仰。 完結の章を迎え、どうしても触れなければならないのが、聖書の信仰[ギ]ピスティスと私達の信仰の内容である。信仰を新約的に言えば「信頼の服従」である。ドイツ語の信仰(Glauben)は「誓約・忠誠」を意味している。この重要な信仰の内容は、肉的な主知主義的な解釈が加えられ、内容を失ってきた。私達が信仰と言って受け容れている信仰は、新約聖書の信仰と違っている。信仰[ギ]ピスティスは、文字通り「信頼の服従」であり、全体的な自己献身の人格的応答である。日本人の場合は「信仰」とは、心の中に信じるもの(神)を受け容れる事である。ここには、全体的な服従も献身もない信仰なのである。御子をも惜しまないで与えられる愛の神に、完全な依存をするのが「ピステス(信仰)」なのである。ここに「真理の自由」が生まれる。明日のことなど思い煩わないし、自分は神に服従して失敗することなどあり得ない。と知っている服従である。信仰の重要性は、自発的で強制されない「信頼の服従」である。神の愛は無条件的に注がれている賜物である。「ピステス(信仰)」は、与える神への、無条件的な神の御人格に対する「信頼と服従」である。この信仰によって、初めて永遠の生命の中に解放されるのである。 † 人がやらなくてもやる。 人との愛の交わりを第一とする教会だが、人と同じであればよいという意味ではない。より神の懐に憩い、与えられた恵みと主の香りを分かち合うのである。人間は毎日多くの成すべき事がある。それだけで満足する人もいるだろう。夕方には疲れ切ってしまう人もいる。世の中の要求は容赦ないが、私達には目ざめた魂がある。主なる神を呼び求め、叫ぶ力がある。「この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる」詩105・7)近くの人から、遠くの人へ。近くの事から世界の事へ。主の下僕として叫び、執り成し祈るのだ。「神にとって不可能なことは一つもありません」ルカ1・37)聖歌231番「嬉しきこの日よ心を定めて、救いの君よと、御子をば仰ぎぬ」嬉し、嬉しこの日ぞうれしき。・・・・」兄姉の中で、誰もやっていないかも知れない。あなたは「信(まこと)」を失わず、続けて行って欲しい。 
  • 「信のまこと」(6)
    「信のまこと」(6) † 聖書に書いてある。 主イエスの生涯の根拠は聖書に「書いてある」という一事に置かれている。信仰を突き詰めれば、同じように「聖書に書いてある」と言うことが、生命の道なのである。「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある」マタイ4・10)悪魔の巧妙な誘惑に対する、決定的な対処であった。主イエスは、神の子として、神の言葉と一体であられた。それほどまでに、御言葉を根拠とするのが「信(まこと)」なのである。主イエスにお出来になったことが、私達の出来る根拠となる。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」ヨハネ14・12)主イエスの言葉が「書いてある」ごとく、私達にも信じて行う根拠となっている。これは主なる神の、驚くべき憐れみの豊かさである。罪人の私達に、どうして神の業ができるだろう? あり得ないことである。だが神は御子イエスの完全な贖いのゆえに、私達を聖い神の子として受け容れ、御言葉の約束の特権を、行わせて下さるのである。神を畏れかしこむ者には、聖書に書いてある事は「信」であり、すべての根拠なのである。 † 状況倫理と真理。 聖書は、神の霊が書かせた書物である。しかも1500年間にわたり、40人の著者によってである。しかしながら、主旨が一貫している、一筋の流れのように、神の霊が導いているからである。明らかに様々な歴史の中で、聖書は綴られた。ギリシャの神々と文明、ロマ帝国下にある教会の赤裸々な問題について、書簡(聖書)が、状況打開の教えを宣べている。世界に産声を上げたキリスト教会は、腐敗した多神教の道徳と一線を期して、純潔の愛の業を明らかにしていったのである。異教の習慣を持って、教会に入り込んできた女性達(コリントやエペソの教会)には、その時代の状況に合わせた、特別な対処(倫理)が宣べられている。現代に見合わないが、時代に見合う倫理を必要としたのである。聖書の矛盾と捉える必要はない。聖書は、唯一の世界基準である。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」 2テモテ3・16)
  • 「信のまこと」(5)
    「信のまこと」(5) † 御国の心地で生きる。 信仰生活の「信(まこと)」とは聖歌467番「悲しみ尽きざるうき世にありても、日々主と歩まば御国の心地(ココチ)す」の歌詞の通りである。私達の唯一無二の特権が、希望に満ちて賛美となる。確かに私達は福音を聞いているが、先代の持っていた信仰の内容と確信が見られなくなって来たように感じている。自らも含めて信仰を掴み直したいのである。まず、私達は主イエスと共に歩む旅人である。今、主イエスの同行者として、私達は、この罪の浮世を、外国として巡礼の旅をしている。私達は、罪人の住み家「この世」に、縛り付けられていたが、主が滅び去る世と罪から、私達を引き離して、救い出された。信仰の「信(まこと)」は、この世に望みを置いて定住を願い「御国」への旅を避けてはならない。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)主イエスは、私達と同行して下さり、エマオの途上(ルカ24・27)でのように、道々にお語りくださる。私達の心は内に燃えて、地上の何にも優る.平安に満たされるのである。聖歌467番の折り返し「ハレルヤ!罪咎(ツミトガ)けされし我が身は何処(イヅク)にありても御国の心地す」と、これを信仰の「信」として歩みたい。 † 言葉と行い。 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」1ヨハネ3・18)この使徒の勧めは、父なる神の家族としての在り方を示す。ここには、衣食に事欠く貧しい人々がいる。住む家のない人々がいる。遠くから来ている旅人もいる。一方、豊かな環境に恵まれている私達が置かれている。困窮は個人の責任と思うなら、私達は「失われた者」になる。私達が主イエスを愛するなら、今は、乏しくある兄姉に具体的に、愛を施すことで、キリストに、ふさわしい特権を得るのである。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25・40)主に在る友に施す特権として、主に喜ばれたい。私達の教会は「オファリング」と「バルナバ活動」を通して、神の憐れみを現す仕組みがある。それ以上に、私達が主に在る兄姉を、愛し顧みる特権を忘れず、生きる存在でありたい。
  • 「信のまこと」(4)
    「信のまこと」(4) † 理性と霊の啓示。 理性は本来、人間に備わっており、道理によって物事を判断する、知的能力である。私達はよく「神の御心」という言葉を使うことがある。その意味の中に「客観的」という内容が含まれている。使徒達も、神の御心に従おうとした。使徒16章では、アジアに赴くことを、御心と信じていたが、聖霊によって禁じられた(7節)そして、パウロは夢で、霊の啓示を受け、ヨーロッパ(マケドニア)に赴き、宣教を開始した。「信」には、理性的であること、即ち、道理に基づく判断が求められる。しかし、それだけではなく、神の啓示(霊の導き)を求めなくてはならない。当然ながら、物事は私達が主導しているのではなく、主なる神であるからだ。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)このように、私達は、神の御霊から啓示を受け、導かれる存在なのだ。創世記の後半はヤコブの生涯が書かれている。ヤコブの長い人生を導かれ、啓示を与えられた、神の慈しみが明らかになる。目がかすんで見えないヤコブが、死の前に、ヨセフの息子マナセとエフライムを祝福する。右手を弟のエフライムに左手をマナセに、手を交叉したのである。ヨセフは「父上、そうではありません」と、手を換えようとした。ヤコブは「わが子よ私にはわかっている」と言い、祝福を受ける順位を神の霊によって、預言したのであった。 † 手にするまで。 「信」にたどり着く、という意味では、仕事上での改善、改革やシステムの見直しなどがある。「信」を見据え、手にするには様々なハードルを越える必要がある。古い環境を、新しい環境にする機会があった。WIN10をWIN11に移行するのに、今までにない幾つかのハードルがあった。今までのWindowバージョンアップへの移行は知識を必要とはしなかった。しかし、この度は、知らないことを知ることに始まり、幾つかをクリヤーして、遂に「信(あるべき形)」にたどり着けた。私に出来る事は、誰にも出来るわけで不思議ではない。WIN11は高速になっているし、マックのような画面構成となり大きく変わっている。今回の挑戦は、忍耐というか、あきらめないことが、ハードルを越える鍵になった。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」 ヘブ10・36)霊的「信」は、日常の具体的な労苦からも学べると知った。
  • 「信のまこと」(3)
    「信のまこと」(3) † 偽りがない。 「信」とは、偽りがない。信義。という意味を持ち、信仰という内容でもあり、すごく重みがある。人が「信」とするものは、揺るぎないその人の真実となる。それをわかりやすく言う言葉が「イワシの頭も信心から」普段から見れば、イワシの頭は、つまらないものだが、信じる者には、尊くありがたいものとなる。人の信仰を皮肉って言っている言葉でもある。ここでは、人の信じるものが「信」となる事を言い表している。重要なことは、人の「信」とは別に「信」がある事だ。天地創造の神ご自身は、人によらない「信」であり、真実である。私達もキリストを「信(偽りがない)」と信仰しているが、私の信心で神とされたのではない。宇宙の創始者であり、人間を創造された神は、ご意志をお持ちであり、行動されたことで、まことの信義を現された。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」1テモ1・15)神が、罪人である私達のために来られた。これこそが、そのまま受け容れて良い、まことの「信」である。日本人は、対象よりも、人の信心が「信(偽りがない)」となる。この日本人の、信心の構造を解きほぐす力が、福音宣教に必要である。 † 自らが実験台。 「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)今も、そうなのだが、本当に実感的に神の中に生きているのか?と自らに問うのである。ある意味で実感がなくても「御言葉の言うとおり」なのである。あるいは「主と共にいる」という内容はどうであろう?これについても「インマヌエル(神は私達と共におられる)」マタイ1・23)とある通り、神が共にいて下さるのだ。多くの著名な神の人も、主が遠くにおられるように感じる時があると、告白している。また、主の臨在が濃厚なときには「・・・・手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」 1サム10・7)という、主との特別な蜜月がある。主の近くに住む者は幸いである。いろいろな時が恵みなのだ。渇いているならば、潤す聖霊が訪れる。私達は、神の中に存在し、幸いな実験台とされている。その事によって、永遠の御国の前味を喜び。主の再臨を楽しみ、待ち望むのだ。
  • 「信のまこと」(2)
    「信のまこと」(2) † 主イエスの関心事。 「・・・・イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか」マタイ16・13)主イエスは自分の活動の評判を気にして弟子に尋ねられたのか? 否である。主イエスの言葉と御業を通して、人々が主イエスを「○○だ」と言っている事に関心を持たれてた。神の御業と御言葉をとおして、ペテロのみが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と言った。主イエスの関心は、天の父なる神の霊が、ペテロに、イエスはメシヤであると言わせた事にある。「・・・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」1コリ12・3)一人の魂の救いは、神の御霊のお働きである。アメリカの大覚醒時代は、J・エドワーズ(1703~58年)の牧会から始まる。2ヶ月の間に突然に、次々と300人程の人が回心した。そして、ニューイングランドほぼ全域が霊的革新に巻き込まれた。野外の集会には2万人もの人が集まり、居酒屋ではなく教会に人々が集った。神の霊(聖霊)の顕著なお働きだったのである。ど れ程に低迷している霊的時代にも、聖霊のお働きはある。失われている魂に聖霊が臨むことを祈る事は、私達の責務である。 † 主に栄光があるように。 私達人間は評価を期待しているのではないか? 確かに聖書に「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします」使徒6・3)しかし、選ばれた人々は評判を得るために活動していたのではない。そのような魂胆ある者は、選ばれないのだ。主のために一心に仕えたので、評価されたのである。神の下僕は、主イエスの栄光のために求めて生きる。そこに純粋な心の働く、健全な信仰が見られる。ある牧師が日曜学校の若い先生に言った。「十字架と自分について、考えて作文を書きなさい。主の十字架がわかるまで続けよう」と、十字架の血潮の御力を知らない人に、教える力が無い。と言うのがその牧師の見解なのだ。主イエスとの関係で、生まれるものは、喜びと感謝である。そして、「主に栄光があるように」と叫ぶ。ヨタムのように「彼はすべて、主の目にかなうことを行なった」2歴27・2)と、見られたい。
  • 「信のまこと」(1)
    「信のまこと」(1) † 信の探究。 信とは「信仰」のこと。キリスト信仰のことである。私の生涯は、主イエスの招きに捕らえられた19才から、60年を経てなお、信仰を追い求めている。人間が神を信じるとは、天井知らずの高さを思い知らされるし、底なしの深さを思い知らされる。信仰の真実を求めれば、求めるほど高く深くなる。それは何を意味するか、神と人間の質的な差を知る事であり、神の威光の高貴さを識る事である。人は宇宙を深遠な謎だという。聖書の神は、それ以上に偉大で深淵なお方である。宇宙は神の中にある物と私は思う。神の聖にして義と愛の神格(人格)があるを示され、知るだけでも圧倒される。私達は聖書をひもといて、神を語る事がゆるされるが、同時に言い表せ得ない神が居られるのである。識ったと思うと、さらに奥深くに神が居られるのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリント8・2)私達の信仰の確信は、主イエスとの出会いに与えられる。そして、揺るぎない強固な信仰に成長する。そして、神の全般の真実に対して、私達の信頼のまことを求められるのである。 † 主の心を。 「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。・・・・」ピリピ1・27)私達の生活の在り方を示す御言葉である。また「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」ピリピ2・5)これを文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳す。この方が直接的で、心を心とする、と言うのが日本的に感じる。キリストの心とは、救い主としての心である。また、父なる神を常に仰がれている信仰の心である。私達の信仰のまことは、キリストの心である。色々な人々との出会いや交わりの中で「キリストの心を心とする」それが、最も福音にふさわしい生活となる。主イエスのあらゆる言葉、態度、行為に関心を持っていれば、聖霊はキリストの心を教え、その心を行うように働きかけ、力を与える。それが、まことの聖霊のお働きである。油注ぎは証人となるため(使徒2章)の任職であるように。キリストの心を敬い、その心を生きようとすれば、聖霊はそのために伴われる。
  • 「立ちあがる」(7)
    「立ちあがる」(7) † 屋台から始める。 福音の素晴らしさは、いかような所でも証詞される事である。ヒマラヤの髙地でも、アマゾンの奥地でも福音は、魂を滅びの穴から救い出している。戦後78年を経て、日本は高度な科学技術国となり、生活が豊かになり大きく変わった。そういう中で福音が素晴らしく輝いているか?と言えば、世の輝きと力に、押され気味で精彩を欠き、教会も全体的に精彩が無い。黙示録にラオデキヤの教会について「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」黙3・15)続きには、この世での富と豊かさが、霊的な貧しさと、惨めさを生み出し、盲目にされ、裸にされている事を知らないでいる。と、ある。実は今の時代のことである。教会は生みだされる必要がある。店を持とうと思うならば「屋台から始め」地道に実力を増して ゆけばばよい。教会を立て上げるのも同じである。福音の力が生活に現れている、一人、二人からでも、教会は生まれる。世界のリバイバルが数人の祈りから起こされる。そのような事例は教会史に溢れる。目を実際に向ければ、新しい教会は立ち上がる。 † 結果の恐ろしさ。 自由というすばらしさには、大きな代償が伴っている。人はどの様な生き方をしても良いと保障されている。もちろん反社会的な自由は論外である。その自由の恐ろしさは最終の結果にある。人は一生を掛けて、自分の選んだ好ましい道を歩む。例えば、ある人は資材を投じ、多大な犠牲を伴って、あたかも頂きを目指して登るべき梯子(ハシゴ)を登り続ける。ある人は自分の好ましい趣味に没頭して、楽しみながら梯子を登り続ける。ある人は投資の魅力に夜も日も没頭して喜びながら梯子を登り続ける。やがて梯子は頂上に達する。そこに立ち上がる広場がある。そこに何が待ち構えているのだろう。必死に、これこそが自分の登るべき正しい梯子だと任じていた。しかし登り詰めた所には、何の報いも置かれていない。救いの神はそこには立って居られない。闇が待ち構える、それは地獄でしかない。自由は最大に喜ばしい。真理を探究し、まことの神を訪ね求める自由があるということである。それ以外の自由は恐ろしい結果が待ち構える。
  • 「立ちあがる」(6)
    「立ちあがる」(6) † 限界を持たない。 人の一生には限界がある。茶の間で親しんだ俳優さんや、著名な方々の訃報の知らせには、寂しさを感じる。私達が重要とすべきことは、いま活かされていることだ。主なる神が命を与えて下さっている特権を生きることである。生かされる限り、喜び溢れて精一杯生きる。これが望ましいのは当然である。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)普通に人は、世の中に生きている。だから世の中で、好きなこと、やりたいことを、手がけて生きる事が、喜びに溢れることだと考える。私達クリスチャンは、これを第一義にする事は考えものである。整っていた条件が崩れたとき(健康問題、家族関係、事故など)に、喜びや生きがいを、失うかも知れない。限界のない、喜び溢れる生き方がある。主なる神を「知りたい・見たい」と言う、尽きざる探究(信仰)の毎日であること。生かされる限り、この一つを第一に生きることである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」1ヨハネ1・1)このリアリティが最大の喜びである。信仰を与えられた19才から60年を経ても、なお神を知りたい事において、限界がないばかりか、喜び楽しみは、増し加わってくるのである。 † 新しく立ち上げる。 自分で組み立てたパソコンが10年を越えて現役を続けている。当時は最新の機器であったが、今のWIN-11は動かない。それで、これから15年は望めるインテル11世代の、i9(8コア16スレッド3.50GHz)。メモリ32GB。という新中古品を立ち上げることにした。私の精神年齢は17才なので? 15年くらいは使える。とにかく、前に向かって、真理探究の学びを続けたい。そのためにパソコンは研究のツールである。脳活性化のためにも、キーボードを叩き続けたい。教会のオリジナルな年賀状、暑中見舞いは、何十年と続けられたのもパソコンあってのことである。何よりも牧師の知的向上には、パソコンが最も有効である。30年も前「私はパソコン、デジタル牧師です」と、紹介されて驚いたが、今や総じてその通りなのだ。アナログで本読みをメインにし、神ご自身と福音を知るため、立ち上がる年としたい。
  • 「立ちあがる」(5)
    「立ちあがる」(5) † 立ち位置によって。 私達の心(魂)は不思議な神の作品である。百人いれば百の違った内容の心がある。個性としは当然のことだと思う。私達クリスチャンは信じると言う共通の立場を持っ。その上に、心(魂)が成り立つようにされている。聖書は神を信じる人々の心(魂)が、いかにあるべきかを指し示し、教えている。それで「御言葉に立つ」ということが、私達クリスチャンの大切な立ち位置となる。私達が、御言葉に立つと同時に心は、成長する方向性を持つ。また「・・・主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」2テモテ4・17)とあるように、主イエスは、御言葉に立つ者のために、共に立ち上がって力を与えられる。心(魂)が、神の生ける言葉に立つ事が、クリスチャンの生きる偉大さ「世の光り」となるのである。確かに、世に在って生きる私達は、様々な試練と、困難な問題、身体的な弱さなど、心(魂)は揺り動かされる。だからこそ、生ける御言葉がある。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」 ロマ8・28)御言葉を信じる心(魂)は、揺るがされる事はない。 † 健全な願い。 健全なモチベーションとして、私達が持ち合わせていないものを御言葉によって気づかされる「・・・・神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」2ペテロ3・12)主イエスの再臨を早める行動を促している。この世の終わりを早めることなのである。同節に「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます」とある。主の祈り「御国を来たらせたまえ。みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ」これが私達の心からの願い、望みである。信仰ある者の尽きざるモチベーション(生きる動機・やる気)となる。世界滅亡の終末時計は、2023年「残り90秒」と、最短時間に更新された。神のみがその鍵を握られている。問題は、神のしもべ達が無関心ではないのか?「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」1コリ16・13)この世の喜び楽しみも生活に必要である。ただ、私達は健全なモチベーションで、破局の時代に立ち向かえるのである。
  • 「立ちあがる」(4)
    「立ちあがる」(4) † 理屈抜きに。 私達の持って生まれた特長は、罪を合理化し正当化することである。要するに「言い訳」をして、我(ガ)を通すか、言い逃れるかである。私達が持ち合わせている、身びいきな正当化は、聖書の随所に見いだされる。主なる神のアブラハムへの約束により、イスラエルの民は、カナンの地に向かって進み、遂に目前にした。12部族の代表による偵察が、主なる神の選ばれた「乳と蜜の流れる地」に行われた。所が、二人を除いて10人の代表は、この土地のことを「悪く言いふらして言った」民数13・32)そこに住む人は巨人で自分たちはバッタに過ぎない。我々は剣で倒されてしまうだろう。と、全会衆はその夜、大声で叫び泣明かした。ヨシュアとカレブが「神の御心であること。まことに乳と蜜の流れる地であること」を訴えたが、全会衆は彼らを石打ちで殺そうとした。信仰とは「神の言葉通り」の事実にある。人間の見る目や、感じたことには無い。神は反逆した会衆を、荒野で死に絶えるようにされた。理屈を設けて、神に従わない自らを見せられる思いである。主の言葉「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです」ルカ9・24) この厳粛な事実を受け容れ、立ち上がう。 † 幸いな約束。 聖書に、幸いな人を大勢見る。本当に嬉しくなる幸いな人、シメオンを心から尊敬する。シメオンは「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」ルカ2・26)すばらしい驚くべき幸いなお告げである。そして八日目に赤子のイエスが両親によって神殿に現れたのだ。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」ルカ2・30)激動する荒波の世界の中で、神の真実は、救い主を世に生みだされた。神からの幸いと喜びは、すべての人々に与えられている。シメオンのような生涯が、私達にも開かれたのである。キリストの中に立ち上がることである。キリストの信仰の中に、自分の救いを持つ事。十字架の上にキリストと共につけられ死んでていること。それだから、キリストの命が私の生命となり、キリストの復活の中に、安らかに生きられるのである。
  • 「立ちあがる」(3)
    「立ちあがる」(3) † 模範(ヒーロー)を目指す。 私達は気付かないままに、方向づけられている。子供の頃いつも言われた事を思い出す。「あの子は偉い子や」要するに見倣えというわけである。学業が進むと、先人の偉業や人柄について教えられる。常に倣うべき模範が見据えられている。スポーツにしても活躍した名選手を模範としてトレーニングに向かわせられる。特別な人を除いて、ほとんどの人が、誰かしらを模範にして大成を目指しているのではないか? この模範に倣うことは、確かな方向性に、自分を立ち上げることで、重要な習慣となる。「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」1コリント11・1)キリスト信仰は、一つに方向づけられている。主イエス・キリストのようになれ、と言う事だ。誰しもキリストのようには成れないが、使徒パウロを模範として、信仰の生き方に立て、と言うわけである。私達は、現代に名だたるキリスト者の一人「ベンジャミン・フランクリン」をヒーローにして倣えば、クリスチャンとしても、実業家としても、政治家としても、著作家としても、一流となるための、倣うべき品性と知恵に満ちている。身近に、その誰かを見たいものだ。 † 満足に留まらず。 聖書の明訓「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」1コリント8・2)人間も年を重ねると、何かをやり遂げたとか、これ以上求めるものはない。と、落ち着き、満足しやすい。しかし、クリスチャン人生は、それとは全く違う「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)本当の満足は、神の創設した確実な希望(神の栄冠を得る)に向かって走り続ける継続にある。人間は、満足すると成長は止まり、小さく固まってしまう。しかし、聖書の神は、桁違いの満足を私達に見させ、立たせる。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」エペソ1・18)偉大な望み、受け継ぐ栄光の富、神の偉大な力を知り、立ちあがり進むのだ。
  • 「立ちあがる」(2)
    「立ちあがる」(2) † 立ち上がり方。 電源を入れてパソコンを立ち上げる。これが、大方の基本だと思う。何十年もそうやって仕事をしてきたので、それ以外を思いつかない。新年の正月(七日)を過ぎたか、ある日の朝「これでは今年は大変だ」と思うような日があった。幸い、大変さを引きづることなく修正され感謝した。人生を、一括(クク)りに考える事も出来るが、実は毎日の積み重ねである。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリ4・16)この「日々新にされて」立ち上がることは、誰であれ喜ばしいことである。朝の目覚めが悪く、気分も晴れやかでなく、見た夢も混乱している。このまま、今日の立ち上がりが重くて、嫌な一日を予感させる。できれば、ここで「新にされる」電源のスイッチを入れれば良い。具体的には、私の内面(内なる人)を呼び覚ますのだ。私は、祈りのノートを広げる。そして、私が誰であるかを書き留めた20項目の「宣言」を声に出す。その一つ「私は神の子供とされた、大きな特権を与えられて、愛と喜びに満ち、聖霊に導かれます」こういう宣言が、具体的な私になってくる。自分を立ち上げるのみならず、主なる神も、身近におられる事を、感じられるようになるのである。  † 近づくこと。  ボクシングを見ていて感じるのは、相手との距離である。打たれないための距離と、攻撃するための距離を瞬間的に替えることである。人間関係にも見られることは、その人と距離を置き続けると、親しくならないし、その人柄もわからないままである。問題は自分の中に、恐れの心や偏見があるからだ。諺に「人には添うて見よ、馬には乗って見よ」がある。人の本質(人柄)を知るには、自ら近づくことである。私達は、この年「神に近づく」ことにある。神との距離を置くものは、全く神を知らない者、祝福を拒む者になる。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4・8)神を知らないで、本当に私達は立ち行くのだろうか?主なる神は、あなたの握っている物など一つも欲しくもない。ただ、この世の物に握られている「あなた」を失いたくないのである。神に近づくことで、信仰が生まれ、神の中に「立ち上がれる」のである。
  • 「立ちあがる」(1)
    「立ちあがる」(1) † この日志に立つ。 元旦を迎えた。聖書は「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2・13)と語る。私達への特権として神は「事を行わせてくださる」のである。物事は神が始められる「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」イザヤ43・19)この日、神の前に静まる時を持て、あなたを通して始められる神の御心が、新しい志として示される。救われた、あなたは神の御心を聞き続けてきたことを思い出せ。あなたの持つべき志が、すでに起こされている。あなたを通して行なうのは神である。あなたは志しに立ち上がる使命を託されている。荒野とは、あなたの志を通して切り開かれる「道」であり、造られる「川」である。私達が志(神の御心)に立ちあがらなければ神は、今年も「事を行う」ことができないのである。私達が立ち上がれば、荒野で滅びる人々が救われる。志に立ち上がる私達によって、元旦から、今年は大躍進の年となる。   † 立ち上がられる神。 偉大な指揮者であっても、演奏者が楽器を奏でなければ音楽を成り立たせることはできない。教会も同じように、主イエスに倣い、従う者によって、福音は神の品位を現し、愛の力強い命を現す。指揮者は楽員に対してタクトをかざして演奏を始める。「今、わたしは立ち上がる。」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう」イザヤ33・10)私達の教会を通して、主なる神が、ご自身を高められ、多くの人々に崇められるように、立ち上がって下さる。聖夜に、神への賛美が全地に響きわたったようになる。私達の麗しい交わりが、十字架の救いを通して生まれていることを、人々が知るようになる。しかし、果たして:、私達は真心から、神の立ち上がられることを望んでいるだろうか?自分の時間を優先する者、神への愛(犠牲)を厭う者、人々の救いに無関心な者、ではないのか?主なる神は、審きの神で在り続けることを捨てて、十字架にかかるため人となられた。今年もクリスチャンでありたいならば、自分に固守しない、という覚悟が、第一に私達の必要なのである。
  • 「幸いの根拠」(7)
    「幸いの根拠」(7) † 最善を選ぶ。 主イエスの降誕を限りない喜びを持って迎える。この日は神ご自身が、神であることを固守されず、卑しく人となられて生まれて下さった日である。このような選択をどうしてできるのか?およそ人間には想像もできない。聖なる神ご自身ゆえに出来たことである。この神のご意志に、私達は畏れて身が震える。人となられた神は、肉体を持たれたゆえの、大きな制約の下に生きられた。世界を自由に動かし支配される全能の権威を行使せず、人間を贖う犠牲の道を選ばれたのである。ゲッセマネの園では、主イエスを捕らえるために、ユダを先頭にロマの軍人や、ユダヤの役人達がやって来た。その時ペテロが剣を抜いて大祭司のしもべの耳を切り落とした。主イエスはペテロを制止して言われた。「私が願えば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さる。それができないと思うのか?」(マタイ26・53)と言われた。また、私が「有りて有る」者(神)だ。と言われると一団の彼らは、後ずさりして倒れてしまった。(ヨハネ18・6)それほどに神としての権威を持ちながら、また、天の軍団をも願われなかった。主イエスは私達のために十字架への道を選ばれたのである。神の聖さと義と愛の業である。神の最善が、滅ぶべき私達を救われるのである。 † 最も幸いなこと。 「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」 ピリ1・20)成熟した人間ならパウロに同調しアーメンと言えるだろう。パウロは死に急いではいない。「キリストのすばらしさが現されること」が中心的な重要性である。幸いの根拠はこの一事「キリストのすばらしさ」であり、それを「私の身によって」現すことである。このような人が最も幸いな価値ある人である。与えられている尊い一日一日を、キリストのすばらしさを現すために生きよう。それが、かえって自分のために最も幸せな人生の毎日になる。自分のためにのみ生きる人は、最も惨めな貧しい自己を刈り取る事になる。だから、心せよ。「将来と希望」は、キリストにおいてのみ実現する。それ以外は焼かれ燃え尽きる。
  • 「幸いの根拠」(6)
    「幸いの根拠」(6) † 本物の感情。 私達を揺り動かしているものは何か?何が情熱的感情に至らせるのか?私達が生きるために、最も喜ばしいことは、抱いた情熱に生きることである。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)クリスマスから始まり、主イエスが十字架を通して、与えて下さったのは罪からの救いのみではない。臆病の霊ではなく、聖い情熱的な、力と愛と慎みの霊である。前節では「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と言っているように、神によって与えられたすべて(賜物)を、再び情熱的に働かせよ。と、促している。私達が最も幸いな者であるのは、罪と死の現実から、神の愛によって救い出された、この揺るぎない真実にある。神の愛の御業に結ばれた私達の魂は、この最も価値ある真理に、心を動かされている。即ち熱い情熱的な感情に活かされている。もし、そうでなければ、信仰は不活発なものである。信仰は感情(情熱)を生み出し、人生を行動へと向かわせる。私達がどれだけ幸いな神に支配されるかは、どれだけ神によって、感情が動かされているか、によって決まるのである。  † まことの礼拝者。 私達の終局の目的はなにか? この世(現世)でも、神の御許に生きる天国でも、私達は神を礼拝する幸いに、おかれているのである。被造物(私達)の最大の喜びは、創造者で唯一の神を礼拝し、賛美し、神とまみえるのである。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、人々はその民となる。また、神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」默21・3)私達の主が大きなラッパの音と共に、天に現れるとき(マタイ24・31)地上の礼拝者と天上の礼拝者が、一つにされる。私達はキリストに目を向けていないと、自分の事だけに関心を持ち、被造物としての自分を忘れる。即ち、神を礼拝する尊さを失うのである。自分自身の中に尊さを見いだすのは、神を畏れ、敬虔に神への礼拝を守る事において、見いだすことが出来るのである。幸いの根拠には「神を礼拝する」こと。人間に必要なことは、敬虔な信仰があることである。そのために選ばれた私達である。被造物であることを忘れず、神を畏れる、生きた礼拝者であることを続けよう。
  • 「幸いの根拠」(5)
    「幸いの根拠」(5) † 達観した精神。 達観(タッカン)とは、将来の情勢を見通すこと。全体の情勢を見通すこと。また、「達」には成し遂げる。目的地に到達する。と言う意味が込められている。アドベント第二週を迎えるに及んで達観した人物ヨセフを取り上げたい。マリヤと婚約し、高揚した幸いの毎日を与えられていた。所が、受け容れがたい知らせを受ける。婚約者のマリヤが妊娠したのである。ヨセフは「正しい人」マタイ1・19)とある。この事態は、神が始められたこと。この「躓き」を乗り越える手段は、慈しみを持ってマリヤを受け容れれること。ヨセフは、神の御手によって、行われる「未来を達観した」のである。ヨセフこそ、クリスマスを成功させた功労者である。ヨセフは神と神の約束を疑わなかった。神はそのヨセフを選ばれたのである。ローマ皇帝が全世界の住民登録を命じる初めての勅令が出た。税金の徴収と兵役のためなので、全世界の住民は嫌嫌ながら、不平を言いながら従った。しかし、ヨセフは違った。神がイエスをマリヤから生まれさせる事を知っていた。ベツレヘム(マタイ2・6)は、メシヤの出る村なのだ。ヨセフはすべての男性の「幸い」の模範である。信仰による達観した精神を持って生きる事の幸いを現している。  † 幸いへの勇気。 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」 申30・19)前後の御言葉を読むと、死と呪いがなぜ起こるのかがわかる。「あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら」 17)である。私達は、直接偶像を拝むことはない。しかし「心を背ける」ということ「聞き従わない」ということは、どうだろう。世的なものに「誘惑される」と言う事も身近な問題である。信仰はヒロイック(雄々しく英雄的)なものである。キリスト信仰には勇気を伴う。「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる」 申30・14)このようにして、キリストにある者は「いのちと祝福」の中を歩み続けるのである。一回の勇気が、続く百回の勇気に繋がる事を覚えよ。
  • 「幸いの根拠」(4)
    「幸いの根拠」(4) † クリスマスにある。 今日までの、膨大な知的文献を、AIの働く量子コンピューターに集約したとしょう。そして「人類最大の幸せは何か?」と検索する。人間の様々な幸せの定義を網羅(モウラ)すると「クリスマス~イエス・キリストの誕生」となる。と私は確信する。クリスマスは、明確に神の計画と実在の力を、明らかにされた事実である。日本サッカーが、この度ドーバーで、二度の奇蹟を起こした。と世界が驚くような程度ではない。主イエス・キリストの誕生は、人類の幸せの全てをカバーする(覆う)真実な出来事なのである。幸せの根源であり、幸せを、永遠に保証する救い主(メシヤ)について「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2・7)御子イエスは「神であることを無にし」人になられたのである。世界のあらゆる悲惨と暴虐に、あらゆる人間の苦しみと悲しみに、その憎しみと恨みに、主イエス・キリストは打ち勝たれる。世界も人間も、決して与える事の出来ない「神の平安」を人々に、どん底に落とされた魂に、植え付けられる。その人々は、神を見上げ、神を友として、神の生命の中に生きられるのである。 † 真理を原則とする。 真理とは「いつどのようなときにも変わることのない筋道」で、神の言葉(聖書)が、それである。原則とは「一貫した生活の中心になり得る唯一のもの」であるから、真理も原則も内容は同じ事をいっている。身体で言うならば骨である。見えないが私達の身体を支えている。クリスチャンであるならば「筋が通っている」ことが大事である。ある人は状況によって、コロコロと価値観や使命が変わってしまう。これでは「幸せな安定性」を生み出せない。真理を原則として生きる人は主体的に生きられるので、周りの人々の言葉や行動に影響されることなく、真理の御言葉に従って、幸いの中を歩み続ける。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩1・1-2)この人々は、この世の称賛や誉れなどに惑わされず、真理の喜びの中を歩む。
  • 「幸いの根拠」(3)
    「幸いの根拠」(3) † 試練という幸い。 「人が若いときに、軛(クビキ)を負うのは良い」哀歌3・27)軛とは、自由にするものではなく束縛するもので、苦しみを伴うものである。なぜ、それが良いのか?すぐ思いつくのは忍耐が鍛えられること、人間としての内面が鍛えられ、深められることである。今、一流のスポーツ選手達も才能があるだけで出来ているのではない。人一倍厳しい課題(軛)を課せられ、それを超えてきた結果である。私達のように信仰による霊性を、人生の中心におく者は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」1テモテ4・8)とある通りである。要するに主イエスの神聖な品性に、自らの魂を換えて行く努力が、敬虔な生き方なのである。「アブラハムは、神から試練に会わせられた」創22・1)とある。神がアブラハムを試みられたのである。約束の一人息子イサクを全焼の生け贄として、あたかも羊と同じように捧げられるのか?という、とてつもないテストである。アブラハムには、神を全きに信じる信仰があった。神はそれを認められた。今、試練に置かれているならば逃げるのではなく、神を信じ勇敢になる事である。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7)  † 私の幸いはどこに? 「何に」「どこに」幸いはあるのか?これが、単刀直入に答えられる事が大切である。これが、はっきりしていない人は、幸いとは何かが漠然としているか、全くわからない人である。「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」詩16・2)まさに私のことである。言い得て余り有る。聖書には、旧約も新約も同じほどに「幸い」という語が用いられている。幸いという内容の全てに言及しているわけである。突き詰めて、究極の所は幸いは「主イエス・キリスト」以外にない。それ以外が「幸せ」の対象であるならば、なお魂の成長が期待されているのである。若い頃「まだ修行が足りん」と言われたが「幸い」のストライクに至っていないのである。私達を惑わす者と、惑わす物が、溢れている中で人生が曲げられては「亜流の幸せ」を得るだけである。そのためには「幸せ」を真剣に考え、真剣に、神と福音について考えることだ。
  • 「幸いの根拠」(2)
    「幸いの根拠」(2)  † 過去の革命。  本来革命は現在と未来に向かうものである。しかし、あえて人間の「幸いの根拠」は過去の変革(革命)にあると信じるのである。普通に言われることは、過去は変えられないというものである。しかし、過去が換えられるのである。その人生には、天地異変に等しい幸いな激変が起こるのである。人生をやり直す、と言う言葉はよく聞く、しかし、過去が換わる、と言う事は余り聞く言葉ではない。現実は、多くの人が、自分の過去を原因として、現在も未来にも希望が持てないでいる。だが、キリスト信仰は、私達の過去に係わり、解決するのである。現在とは過去によって成り立っている。2千年も前にキリストは十字架の贖い(罪過からの解放)を、神の永遠の保障の御業とされた。この神の歴史的御業を信じるのが信仰である。それは過去からの現在の私が、キリストと共に葬られてしまうことである(ロマ6・4)過去の革命とは、キリストと共に死ねるという喜びである。この信仰による現実が、現在と未来を神の生命で生きる事となる。そして、キリストの復活とも同じようにされるのである(ロマ6・5)いかなる過去も死んで、革命的に新しく生まれ換わるのである。  † 希望に繋がれている。 希望に繋がらない生活は、尻すぼみで暗く、悲しいものである。今ウクライナは仕掛けられた戦火で、町を破壊され、難民となった人々が1500万人に達している。この国の希望は、決して敗北しないこと。第二は、母国を復興することである。この希望がなければ、この国は生きる力と意味を失うだろう。希望は未来に確信を与える事実である。目に見える世界だけが本物ではない。まことの本物は、神が与えた「見えない永遠の命」であり、「見えない神の実在」である。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」ヘブル11・1)信仰は、古い過去を新しく換え、信仰は「望んでいる事柄(希望)」を保証し、確信させる。現在が、どんなであっても、神はキリストにより永遠の報いを与えられる。信仰は希望を包含(ホウガン)している。この信仰と希望は、神の愛で覆われている。神の愛は信じる世界中の者を、キリストの一つの身体として力強く連帯させ、苦しみにある者を支え励まし、希望を共有するのである。
  • 「幸いの根拠」(1)
    「幸いの根拠」(1) † 幸いの起原を知る。  「我思う故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、「自分の係わる世界に、疑わしいと思う余地のあるものを取り除いて行くと、残るのは、確かではないと疑っている自分自身である」と言う事だ。ここには「確かではない、疑わしい」という要素がある。人間には確実に信じられる真理の真実が必要なのである。神の創造世界を信じる事は、私達に重要な幸いの起原である。神による創造は「生命の創造」を意味する。人間は、神の創造による生命なのである。聖書は、現代の科学文明の中で「信じられる」確固たる根拠を持っている。総論的に云うならば、人間を最も克明に言い表している聖書にこそ、人間の知り得る「幸いの根拠」がある。その中に生きているのが私達である。確かに教会に集いながら、幸いの確信を持てない人もいるだろう。私達は「神に似せられて創られた」創1・26)それは、私達人間が、神に似るほどに、幸いな存在である事を意味している。信仰生活とは、幸いな「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)という目的を生きることで、キリストからの神聖な人格に成長する。  † 厄介な人間に終わらない。 私達人間は、生き物の中で最も厄介な存在である。今日のコロナウィルスの厄介さに私達はうんざりしているが、それ以上である。人間は自由意志を持っているからだ。ウイルスは状況に応じて変異して行くが、意志をもつ人間は状況に関係なく、どのようにも行動する。問題は、意志をコントロールする自己である。この自己は、神につくことも、悪魔につくことも出来るのである。そのように人間は、自己中心的に意志を働かせて生きており、手に負えない要素を持っている。自己中心的意志は、神からも、悪魔からも「得」になる事にくみする。「敵は心中にあり」とは言い得ている。自由意志が自己中心的に働くとき、最も非人間的な未形成な人間になる。幸いの根拠を「自分」という確かでないものに置いてはならない。人間は神の手(愛)の中で活かされる者として創造された。神は羊飼いとして、私達は羊として描かれる。これが「幸いの根拠」なのだ。独立した羊は迷子である。徹底して神に牧されることを選ぶ意志が、人間の最高度の存在となる。キリストは囲いの中に私達を養い守られる。 
  • 「揺るぎない世界をつくる」(7)
    「揺るぎない世界をつくる」(7) † ここは神の御国。 私達は38年前から、ビンヤード・ワーシップソングを用いて礼拝する教会になり、今日に及んでいる。近年は多くのオリジナル曲も用いられている。そのため賛美歌や聖歌を賛美する機会が少ないが、自分自身の中で、賛美歌90番が心に彷彿(ホウフツ)する。「ここも神の御国なれば、天地(アメツチ)御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞ現れたる」信仰の結果として生じるもの、それは、今の「ここも」神の御国である。という、大いなる喜びである。天の賛美が地の賛美と饗応(キョウオウ)している。神を頌(タタ)える賛美の中に、天地万物が神の栄光の御業を証詞しているのだ。私達の「揺るぎない世界」は、まことに身近にある。信仰が生みだす、まことの喜びの実感が「神の御国」なのだ。主は言われた「・・・・わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11・20)神の支配する「神の国」は、私達も信仰によって創り出す必要がある。私達の今「ここも」神の御国である。私達が五感で感じる世界が、神の中で御国なのだから。 ハレルヤ!  † つくる「世界」がある。  私達夫婦は裸一貫で、独立自給の開拓伝道を始めた。今や47年を経たが、まず信仰がこのような無謀とも思える決断をさせた。なぜか?夫婦共に、神が生きておられ、働かれるお方であるという信仰があった。神依存の生活を第一として楽しみ、また辛苦を共にした。ゼロから、一が生まれると、二に繋がり、五に繋がるように、神に祈り、全精力を傾けることであった。誠心誠意を尽くしても、上手く行かないことは承知の上での、人との係わりである。そうして伝道を続けた。経済的な支援がない中でも、家族5人を養われたのは神である。教会のない町(可児)に十字架を建てる、この志が、可児福音教会を「つくる」事に至った。「つくる」と言う事は、神の御業を成らせる。と言う事である。信仰があるというなら、神のために生きることである。信仰があるというなら「行う」ヤコブ2・24)ことにある。信仰を美辞麗句とせず、詭弁とせず、主イエスに従う事が「つくる」ことなのだ。それが、企画やプログラムを立て行動する以上に重要なのである。「つくる」のは、神の生命と力にあるからだ。ハレルヤ!
  • 「揺るぎない世界をつくる」(6)
    「揺るぎない世界をつくる」(6) † 鬱(うつ)的世界。 鬱(うつ)という心情の苦しみは、ある人には縁のない話かと思う。だが、ひとたび鬱の世界に陥ると、世界は一変する。鬱の原因は究明されてはいない。そのような中で、うつ病患者は情動行動を制御する神経伝達物質(神経細胞間の情報伝達に用いられる分子)のなかのセロトニンやドパミンの機能低下が関与している可能性が示唆されている。セロトニンは心を落ち着かせ、ドパミンは活動性を高めて楽しみを感じさせるとされている。さて、揺るぎない世界に生きていたとしても、鬱に捕らわれる事も起こりえる。キリスト信仰があっても、人間である以上、鬱にも遭遇する。「老人鬱」と言うものもある。ある時期(70才を過ぎて)体験したことは、言葉に現せない「虚しさ」の心情に支配されたことだった。キリストの福音によって、揺るぎない世界に踏み入っているのに、肉体にある私は、言い知れぬ不可解な思いに悩まされた。大きく環境が変わったのでも、大きな事件が起こったわけでもない。一つ思い当たる事がある。自分が自負する存在を無能化され、用無しのように見下されたと感じた時「肉なる自己」は、行き場のない鬱の心情に落ち込みやすいという事だ。主に在って、とてつもなく強く、また弱い自己なのだ。  † 神の世界を実現させる。 これは不可能なことである。しかし、ペテロが不可能な水の上を歩く事を可能とした。その秘訣は、神の約束の言葉を、とり付ける事であった。「・・・・私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14・28)私達も神の生ける御言葉を、とり付ける事が出来れば、神の世界を実現させることは可能である。だいそれたことだが、主キリストは「望んでおられる」のだ。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです」ルカ・17・6)私達にとって、これほどの喜びはない。主イエスを識った者であること。次に、信仰を識った者であること。そうして、次のことがあるだけだ。条件を満たして、私が「言う」ことなのだ。神の世界は、私の「言いつけどおりになる」のである。これは信仰の極意である。そこにまで到達したいと、主を賛美し喜び踊る思いでいる。