「毎日の不動の錨」(4)

  † 品位のレベルを下げない。

 私達は限られた人々との出会いをし、長きにわたり関係を保って生きる。もちろん、多くのメディアを通して、人々の生活ぶりや、ドキュメンタリーを通して、今を生きる人々を知る。ニュースでは世界の出来事ばかりではなく、人々の生き様を教えられる。また、現代に係わる書物を読んで、人々の意識と動向を知るのである。教会には、信仰歴の長短があり、年齢差による認識度も異なる。要するに成熟度がピンからキリまである。100人がいれば100人に合わせて、神の言葉が教えられ、訓練されるのが理想である。そのような兄姉愛(システム)を実践できる教会が、成熟し成長し、多くの人々を生みだして行くのである。ならば、礼拝で語られるべき神の言葉の品位とレベルは?と、考える。私の今は、聖書(牧会書簡)そのものを語るが、現代の若年層の霊性を引き上げる意図がある。信仰歴のある人々には、信仰の模範者になるように意図される。年長者を啓蒙(ケイモウ)するのは、今に安住し霊的に停滞しやすいからである。年長者こそ霊的標本としての香りを放ちたい。福音の実力は、キリストによって現され、聖霊によって私達の中に現される。語られるべき、品位とレベルを引き下げることなど、あり得ないのである。

  † 最終の揺るぎない力。

 冷静にならないと、多くのことが見えないままである。勢いがあることは良いことだが、その勢いのあまり、省みないで通り過ぎてしまうことも多いのである。あることに夢中になることも良いことである。そのために、多くの手つかずが、生まれるのも当然である。主イエスを信じて間もない頃「信仰は良いものだが深入りするな」と忠告を受けた。しかし、聖書信仰には通用しない忠告だった。若き頃に必要とされる力がある。壮年に必要とされる力がある。それが自分を生かしてきたからだ。しかし、トータルに変わらない真実な力は、初めからある「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ121と、言わしめる、復活のイエスなのである。人生を長く生きれば、友人は世を去り、人々から忘れられ、省みられなくなる。そんな環境が誰にも待ち構える。愛に生きてきた人生ゆえの、孤独と寂しさである。しかし、復活のイエスが、私達を愛と慈しみで抱きかかえて下さるのである。私達は真実に、主イエスの懐に安らい、復活の力が漲(ミナギ)るのである。

「毎日の不動の錨」(4)