「幸いの根拠」(6)

† 本物の感情。
 私達を揺り動かしているものは何か?何が情熱的感情に至らせるのか?私達が生きるために、最も喜ばしいことは、抱いた情熱に生きることである。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)クリスマスから始まり、主イエスが十字架を通して、与えて下さったのは罪からの救いのみではない。臆病の霊ではなく、聖い情熱的な、力と愛と慎みの霊である。前節では「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と言っているように、神によって与えられたすべて(賜物)を、再び情熱的に働かせよ。と、促している。私達が最も幸いな者であるのは、罪と死の現実から、神の愛によって救い出された、この揺るぎない真実にある。神の愛の御業に結ばれた私達の魂は、この最も価値ある真理に、心を動かされている。即ち熱い情熱的な感情に活かされている。もし、そうでなければ、信仰は不活発なものである。信仰は感情(情熱)を生み出し、人生を行動へと向かわせる。私達がどれだけ幸いな神に支配されるかは、どれだけ神によって、感情が動かされているか、によって決まるのである。

 † まことの礼拝者。
 私達の終局の目的はなにか? この世(現世)でも、神の御許に生きる天国でも、私達は神を礼拝する幸いに、おかれているのである。被造物(私達)の最大の喜びは、創造者で唯一の神を礼拝し、賛美し、神とまみえるのである。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、人々はその民となる。また、神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」默21・3)私達の主が大きなラッパの音と共に、天に現れるとき(マタイ24・31)地上の礼拝者と天上の礼拝者が、一つにされる。私達はキリストに目を向けていないと、自分の事だけに関心を持ち、被造物としての自分を忘れる。即ち、神を礼拝する尊さを失うのである。自分自身の中に尊さを見いだすのは、神を畏れ、敬虔に神への礼拝を守る事において、見いだすことが出来るのである。幸いの根拠には「神を礼拝する」こと。人間に必要なことは、敬虔な信仰があることである。そのために選ばれた私達である。被造物であることを忘れず、神を畏れる、生きた礼拝者であることを続けよう。

「幸いの根拠」(6)