「幸いの根拠」(3)

† 試練という幸い。
 「人が若いときに、軛(クビキ)を負うのは良い」哀歌3・27)軛とは、自由にするものではなく束縛するもので、苦しみを伴うものである。なぜ、それが良いのか?すぐ思いつくのは忍耐が鍛えられること、人間としての内面が鍛えられ、深められることである。今、一流のスポーツ選手達も才能があるだけで出来ているのではない。人一倍厳しい課題(軛)を課せられ、それを超えてきた結果である。私達のように信仰による霊性を、人生の中心におく者は「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」1テモテ4・8)とある通りである。要するに主イエスの神聖な品性に、自らの魂を換えて行く努力が、敬虔な生き方なのである。「アブラハムは、神から試練に会わせられた」創22・1)とある。神がアブラハムを試みられたのである。約束の一人息子イサクを全焼の生け贄として、あたかも羊と同じように捧げられるのか?という、とてつもないテストである。アブラハムには、神を全きに信じる信仰があった。神はそれを認められた。今、試練に置かれているならば逃げるのではなく、神を信じ勇敢になる事である。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」1ペテロ5・7)

 † 私の幸いはどこに?
 「何に」「どこに」幸いはあるのか?これが、単刀直入に答えられる事が大切である。これが、はっきりしていない人は、幸いとは何かが漠然としているか、全くわからない人である。「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」詩16・2)まさに私のことである。言い得て余り有る。聖書には、旧約も新約も同じほどに「幸い」という語が用いられている。幸いという内容の全てに言及しているわけである。突き詰めて、究極の所は幸いは「主イエス・キリスト」以外にない。それ以外が「幸せ」の対象であるならば、なお魂の成長が期待されているのである。若い頃「まだ修行が足りん」と言われたが「幸い」のストライクに至っていないのである。私達を惑わす者と、惑わす物が、溢れている中で人生が曲げられては「亜流の幸せ」を得るだけである。そのためには「幸せ」を真剣に考え、真剣に、神と福音について考えることだ。

「幸いの根拠」(3)