「幸いの根拠」(1)

† 幸いの起原を知る。
  「我思う故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、「自分の係わる世界に、疑わしいと思う余地のあるものを取り除いて行くと、残るのは、確かではないと疑っている自分自身である」と言う事だ。ここには「確かではない、疑わしい」という要素がある。人間には確実に信じられる真理の真実が必要なのである。神の創造世界を信じる事は、私達に重要な幸いの起原である。神による創造は「生命の創造」を意味する。人間は、神の創造による生命なのである。聖書は、現代の科学文明の中で「信じられる」確固たる根拠を持っている。総論的に云うならば、人間を最も克明に言い表している聖書にこそ、人間の知り得る「幸いの根拠」がある。その中に生きているのが私達である。確かに教会に集いながら、幸いの確信を持てない人もいるだろう。私達は「神に似せられて創られた」創1・26)それは、私達人間が、神に似るほどに、幸いな存在である事を意味している。信仰生活とは、幸いな「キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペソ4・13)という目的を生きることで、キリストからの神聖な人格に成長する。

 † 厄介な人間に終わらない。
 私達人間は、生き物の中で最も厄介な存在である。今日のコロナウィルスの厄介さに私達はうんざりしているが、それ以上である。人間は自由意志を持っているからだ。ウイルスは状況に応じて変異して行くが、意志をもつ人間は状況に関係なく、どのようにも行動する。問題は、意志をコントロールする自己である。この自己は、神につくことも、悪魔につくことも出来るのである。そのように人間は、自己中心的に意志を働かせて生きており、手に負えない要素を持っている。自己中心的意志は、神からも、悪魔からも「得」になる事にくみする。「敵は心中にあり」とは言い得ている。自由意志が自己中心的に働くとき、最も非人間的な未形成な人間になる。幸いの根拠を「自分」という確かでないものに置いてはならない。人間は神の手(愛)の中で活かされる者として創造された。神は羊飼いとして、私達は羊として描かれる。これが「幸いの根拠」なのだ。独立した羊は迷子である。徹底して神に牧されることを選ぶ意志が、人間の最高度の存在となる。キリストは囲いの中に私達を養い守られる。 

「幸いの根拠」(1)