「揺るぎない世界をつくる」(7)

† ここは神の御国。
私達は38年前から、ビンヤード・ワーシップソングを用いて礼拝する教会になり、今日に及んでいる。近年は多くのオリジナル曲も用いられている。そのため賛美歌や聖歌を賛美する機会が少ないが、自分自身の中で、賛美歌90番が心に彷彿(ホウフツ)する。「ここも神の御国なれば、天地(アメツチ)御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞ現れたる」信仰の結果として生じるもの、それは、今の「ここも」神の御国である。という、大いなる喜びである。天の賛美が地の賛美と饗応(キョウオウ)している。神を頌(タタ)える賛美の中に、天地万物が神の栄光の御業を証詞しているのだ。私達の「揺るぎない世界」は、まことに身近にある。信仰が生みだす、まことの喜びの実感が「神の御国」なのだ。主は言われた「・・・・わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」ルカ11・20)神の支配する「神の国」は、私達も信仰によって創り出す必要がある。私達の今「ここも」神の御国である。私達が五感で感じる世界が、神の中で御国なのだから。 ハレルヤ!

 † つくる「世界」がある。
  私達夫婦は裸一貫で、独立自給の開拓伝道を始めた。今や47年を経たが、まず信仰がこのような無謀とも思える決断をさせた。なぜか?夫婦共に、神が生きておられ、働かれるお方であるという信仰があった。神依存の生活を第一として楽しみ、また辛苦を共にした。ゼロから、一が生まれると、二に繋がり、五に繋がるように、神に祈り、全精力を傾けることであった。誠心誠意を尽くしても、上手く行かないことは承知の上での、人との係わりである。そうして伝道を続けた。経済的な支援がない中でも、家族5人を養われたのは神である。教会のない町(可児)に十字架を建てる、この志が、可児福音教会を「つくる」事に至った。「つくる」と言う事は、神の御業を成らせる。と言う事である。信仰があるというなら、神のために生きることである。信仰があるというなら「行う」ヤコブ2・24)ことにある。信仰を美辞麗句とせず、詭弁とせず、主イエスに従う事が「つくる」ことなのだ。それが、企画やプログラムを立て行動する以上に重要なのである。「つくる」のは、神の生命と力にあるからだ。ハレルヤ!

「揺るぎない世界をつくる」(7)