「歩み出すとき」(4) † 良いことは忘れない事。 いよいよ主の降誕によって、新しい年が始まった。しかし、カレンダーでは年末である。目につくのは忘年会という、お決まりの言葉と宴会である。一年間の労苦を忘れ、親睦のために楽しむのも悪くはない。日本では12月の31日の大晦日に「年取り」の食事をする。この習慣は、新しい年を迎えるために、家族全員が正装し、一年で最も豪華な料理で祝う。そこには一年への感謝があり、祝う思いが溢れている。忘年のためではなく、生きて働き、戦ってきたことを讃えるためなのである。日本の習慣の中に、イスラエル的な感謝の祭りとよく似ている部分があるように思う。民族の歴史的な意味合いでは、イスラエルには及ばないが、私達は「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)と、いう意味で、生まれて今日までの、そして今年一年の全てを、神の恵み(良くして下さった)として、感謝し、主なる神を讃えて、明日を、また新年を生きて行きたいのである。 † さらに真理を求める。 今になってわかることがある。それは年を経ることでしかわからない事だ。今頃、良く聞く言葉は100年時代という言葉だ。確かに今年、私の母は101才になる直前に、苦痛もなく直ぐに召された。認知もなく、寝たきりでもなかった。確かにその時代が来ていると思う。問題は身体的健康のみではなく、霊的で知性的な健康を増進することである。モーセは80才から40年間、霊的リーダーとして、新たな体験と知性を収得した特別な存在である。しかし、自分がそこに立ってみると、生きてきた全て、体験してきた全てが、主との関係でしかないことに気が付く。それが主に従う信仰生活の特典である。山の頂上からは全てが見渡せるように、それが霊的な経年者の実際である。ただ、明日のことは神のみぞ知られる。私達は明日を知らない。言える事はただ一つ、悔いることなく、主を知りたい。世界の全てに優る、主イエスの愛と真理の中に浸かりたいのである。「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」 2コリ5・8)これが地上に生きるクリスチャンの極致だと思うからである。
「歩み出すとき」(3)
「歩み出すとき」(3) † 自由になれる道に。 自由とは、聖書的には広場の意味を持つ。広場を想像すれば、そこには圧迫するものがない。脅かすような何ものもない。物理的には、そういった、穏やかな空間に安らぐことである。また同時に、この広場には比較するものがない事を意味している。自由は「比較」する要素がないということである。自由になれない人の特長は、人との比較によって劣等感を持っている。常に比較によって自己を惨めな者として感じている。せっかくキリストを信じて、罪から解放されたのに、自覚的で感覚的な自由を得られていないのである。しかし私達には、キリストこそが「広場」そのものなのだ。キリストは私達を比較のない世界(広場)に、入れて下さっているのである。確かに人の心(魂)には、過去の様々な痛みや傷があって、自分ではどうにもならないものがある。このような不幸感があると、無意識のうちに身近な人と比較して、惨めさに囚(トラ)われ、不自由から脱出できないようになる。はっきり言えば、死ななければ治らない。しかし、生きながら死ねる道がある。キリストと共に十字架に死ねば、古い自分は過ぎ去り、真理の自由に喜び踊る自己を得るのである。 † 影響を与える人へ。 影響を与えられる人と、反応的な人がいる。どう違うのか?世界で最も影響を与えた人はイエス・キリストである。たった12名の弟子に教えられただけで、イエスの福音は全世界に行き渡っている。しかも、弟子達は高名な学者でも博士でもない、漁師達だった。こうしてみると、福音は世の中の知者や哲学や理論(学問)の助けを要しない、具体的な実際の出来事としての「神の生命」 だった。そのためには汗にまみれ、生きるため辛苦を味わっている素朴な人々の方が、神の出来事に相応しかったのだ。この漁師達は福音の受容者として、狂いも迷いもない使徒として福音を伝え、絶体的影響力を顕した。一方反応的な人とは「お金を持っていたら・・良い上司を持っていたら・・良い夫を持っていたら・・もっと自由な時間を持っていたら」と言うように、問題を社会や他人のせいにする。自らの内側から自らに働きかける「影響力」を持たないのである。影響を与える人は「自分にできる」可能性に関心を持ち、愛するという行動を持つ人である。
「歩み出すとき」(2)
歩みだすとき(2) † 人は人私は私。 真の個人主義は、神を畏れる所にある。神を畏れるならば、兄弟姉妹を愛する(隣人愛)が生きている。人は人私は私という時には、人の事など関係ないということではない。神にあって、人の独自性を認めるという意味である。隣人を自分のように愛せる人は、キリストのように完成された人である。私達クリスチャンも一日にして、到達できることではない。これは神の言葉に準じる、霊的な領域である。霊的な完成とは「キリストと共に十字架に死ぬ」ことを通して、隣人を霊的に自分と等しく愛せることである。もう一つの死は肉体の死で、やむなく全ての人が受け入れる。しかし、霊的な死を進んで受ける人は多くはない。キリストと等しくなる事を「死」意外の事柄に求めている。格好良いことを求めているのである。だから、愛の理論は作れても、人間の能力では真の隣人愛は作れないことがわかる。私とは宇宙にただ一人の私の事を言うのである。神の作品としての独自の私なのである。この意味で人は人であり、私は私なのである。私が歩み出すのは、霊的な神の全き作品(キリストのみ姿)になる事であり、常に霊的に「死んで」歩み続ける事なのである。 † 誡めは私のため。 誡めがなければ、私は誰なのか?正しいのか?わからない。誡めがなければ、自分のしている事が全部正しいことになる。「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。・・・・」ロマ7・8)このように誡めによって、自分の罪深い卑しい性質がわかるのである。「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」1ペテロ4・17)改めて、神の戒めを心に留め、歩み出す必要が一人一人にある。神の主権に服することをしないで、一人前を装うことは、主イエスに何を判断させるのか?「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです・・・・」ロマ16・18)神と人と自分を騙(ダマ)すことが良いわけがない。誡めを捨て去れば「罪と滅び」はないが、主は私達が神に生きるために、誡めを与えられた。誡めを守る者には、神が現れる。 (ヨハ14・21)
「歩み出すとき」(1)
「歩み出すとき」(1) † 準備する。 アドベント(待降節)は、主イエスのお生まれを、待ち望む時を意味している。「・・・・マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2・6-7)この世では、主イエスの誕生のために、場所が準備がされていなかったのである。何ということだろう、無知と無関心は、同じように今日の私達にも当てはまる。この出来事を、知っている私の出来る事は、主イエスのために場所を用意することである。準備して待ち望む尊い時間にしたい。では、どこに場所を準備しようか? 思いつくことは一つしかない、私の宮(心)だ。まさに、飼い葉おけのような質素な心でしかないが、暖かくお迎えしたい。御子の聖さに厭(イト)われないように、御子の笑みに答えられるように、整えてお迎えしたい。以前に聞いたことだが、「ここに主イエスが来られた時、ここは主イエスにふさわしい場所だろうか?」この自問が、自戒を生みだし、恥じない生活をするようになる。と言う事であった。自らを整えて生きて行きたい。 † 主を呼び求める。「・・・・この時、人々は主の名を呼び始めた」創世記4・26[口語])明らかに、主の御名を「呼び始めた」 これは、公同の場で堂々と、主の御名を呼ぶことであり、自分を主の御名で呼ぶ、信仰告白であった。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」 ロマ1・16)と言って、堂々と主の名を呼んだ。同じく、主の復活を知っている私達である。大切なのは、聖霊によって復活の真実から来る、喜びの信仰が現実化されること。使徒による御言葉の教えに従う教会となり、聖霊の力に溢れることである。そして、現代の罪深い世に向かって、私達は兄妹愛の聖い親密さで一つになり、堂々と公同の場で、主イエス・キリストを呼んで公言し、キリスト信仰の力が現される時代になるのである。神の陣営は、神の恵みにより、暗闇を押しのけて行くのである。今こそ、個人主義から、キリストの共同体(兄弟姉妹の一致)に赴いて、主の御名を呼ぶのである。終末的信仰であり、これは私達の教会に興される恵みである。
「道理に立ち返る」(7)
「道理に立ち返る」(7) † 誰の言葉か? 思うに、最終的に、それは「誰が語った言葉か」が、重要である。大学の図書館に行くことは、めったにないが、何年も前にアメリカのシアトルにあるワシントン大学の図書館を訪れた。とにかく、その広さと膨大な書籍に圧倒された。本とは全て言葉が書かれている。数式ですら言葉で言い表されるわけで、書かれているものは言葉に還元されるわけだ。そういう世界で、聖書は、どうして「本の中の本」という位置を持っているのか?既成の概念を捨て去って、初心に立ち返り考える。聖書は人間の言葉で書かれている。そして、40人の作者が時代を異にして、言葉にした。あたかも人間の語録のようである。聖書の面白いところは、私の語る事を「記しなさい」と命じる者の声を言葉にした。40人もの著名な作者がいるのに、彼らは「神の言葉を聞いて」書いたと言う。要するに聖書66巻の作者は「神からの言葉」を書き物にしたのである。人生を与えられた人間に、最も価値ある言葉の本が聖書である。また、キリストが直接、神の言葉を語られた。そして言われた「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネ14・9)聖書は驚きであり、どの様な人生を生きる人にも、朽ちることのない宝を得させる。まさに道理に満ちている。 † 道理が来られる。 今年もアドベントを迎えた。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」ガラテヤ4・4)父なる神が満を持して、独り子イエスを私達のために、この世におくられるのである。神の偉大な出来事に対して、私達は、ますます大きな喜びを与えられる。なぜならば、神への信頼(信仰)が深まっているからである。これまでの歩みが、何よりも神を知るためであったなら、主イエスの降誕は、新たなる神の恵みと祝福をもたらすものとなる。私達が神に召され、選ばれた神の種族として生きるからだ。神が人となられるクリスマスは、特別な恵みであり、私達への栄光となる。私達の信仰の確信が強められ、祝福を直接に与えられる。尊い主の生涯に目を注ぎ、御言葉を学び続けたい。主に倣い歩む事を、聖書が命じている。それが私達の道理であり、私達の立ち返るべき道だからである。そのような私達に、主イエスは幼子の様にへりくだり、私達に仕えて下さるのである。
クリスマスイベントのご案内
クリスマスイベントのご案内 クリスマスに様々なイベントを用意しています。 どなたでもお気軽にお越しください。 今年のクリスマスは教会で共にイエスキリストの誕生を喜びましょう! クリスマスの各種イベント 12/12(日) クリスマス教会祭り 10:00~ 今年もコロナウイルス感染対策としてお持ち帰り限定とさせていただきます。 キッズクリスマス 12:00~ 12/19(日) クリスマス礼拝 1部: 9:00~10:30 2部:11:00~12:30 12/25(土) クリスマスミュージカル 劇団ビンヤード「ピノキオ」 1部:13:00開演 90席 2部:15:30開演 90席 開場は30分前からになります。 チャリティーチケット(入場券)は大学生以上300円、高校生以下200円となります。
クリスマス教会祭り・キッズクリスマス
クリスマス教会祭り・キッズのご案内 コロナウイルス感染対策を行いながら、今年もクリスマス教会祭りとキッズクリスマスを行います! 食べ物についてはTAKE OUTの形式で行います。室内での飲食はできませんので予めご了承ください。 クリスマス教会祭りに販売される商品については後日、案内します。 皆さんのお越しを楽しみにしています。 日時:2021年12月12日 10:00~クリスマス教会祭り 12:00~13:30 キッズクリスマス
「道理に立ち返る」(6)
「道理に立ち返る」(6) † MVP (most valuable player) MVP「最優秀選手。ある期間を通じ最も活躍がめざましくチームに貢献した選手に与えられる賞」に太谷翔平選手(27才)が満票で選ばれた。投手として、打者としての二刀流が最高の現実を生みだした。野球の天才選手達の競う、本場アメリカで達成したことは大きな意味がある。先日も、植村直己が日本人で初めて冬季単独登頂に成功したことで有名なアメリカのアラスカ州デナリ(マッキンリー山)の6190メートルから、南西壁を佐々木大輔さん(44才)が、世界で初めてスキーで滑降したNHK特集番組を見た。驚くべき精神力、技量とセンスである。恐らく何らかの欠ける所があっては達成できないものと思わされた。太谷選手、佐々木スキーヤーは、努力と鍛錬の賜物による成果を現された。その全てが、道理に適っているので、偉業に繋がったと言う見方をしたい。私達は凡人だが、偉業に繋がる事は出来る。私達もMVPとされる道がある。私は欠けたる不完全極まりないが、キリストが身代わってくださるのだ。私がキリストと共に死ねば、私はキリストの生命に生かされる。この御霊の真理(道理)に従えば良い。この道理だけが、私も、あなたも間違いなく、永遠に続くMVPを与えられるのだ。 † いのちの御霊の原理。 「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ロマ8・2)上掲の補足だが、私達はこの世で、MVPの生き方を求められている。それは「私達はいのちの御霊に生かされている」からである。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 ロマ8・14)私達は積極的に真理の自由を生きる事が、クリスチャン生活を、成り立たせるのである。いのちの御霊は、私達をキリストのようにし、私達を導いて強い確信を持つようにして下さる。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」ロマ8・32) キリストのために耐え忍ぶ事が「・・・・圧倒的な勝利者となるのです」 ロマ8・37)なぜなら、この道理に立ち返れば、いのちの御霊の原理が、私達の中に流れ込んで働くからである。
「道理に立ち返る」(5)
「道理に立ち返る」(5) † 盲目と好み。 動物と人間の違いについては色々な事が言われる。その中で、とりわけ、わかりやすいのは、どんなに原始的未開にある人間でも必ず宗教があり、信仰がある。と言うものである。私達は既に神を信じている者であるから、神による人間の創造を当然としている。しかし、それが当たり前ではない。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ・3-4)このように、道理(当然性)は、二つの要素に影響されている。一つは聖書の神の啓示(キリストとの出合い)であり、もう一つは「この世の神」の影響力(覆い)である。人々の盲目は「福音の光」を知らないことだ。当然、好みの方向が違っている。学問にしても、読書にしても、神なき世界の高みでしかない。唯一、主イエスを宣べ伝える事でしか打開はない。緊急にして最重要事項である。 † 振幅と妥当性。 学問というものは、なんであっても理論が成っておれば認められるものである。「黒は白である」という論拠が通れば学として認められる。奇抜な発想が論じられていてもである。キリスト教の学問(神学)は、二千年の歴史の中で、数多(アマタ)の学説が興った。人間の歴史の中で生まれる哲学、思想、革命、戦争による人間の影響である。その時代の波は当然教会にも押し寄せる。そのための新しい神学が生まれる。そこに人間の考え方による論拠が這入りこんでくるのである。今、この時にも、およそ聖書の真実と、かけ離れた使徒像、キリスト像、聖書観の学問が発表されているのである。これらの問題は、教会の羊飼い(牧師)の研鎖(ケンサン)によって、健全に福音と教会が守られてゆくのである。新しく常識となって書き換えられる学説も当然生まれている。同時に不偏的と認められた学説は光りを放ち続ける。学問は幅広い振幅を持つが、それを振り分けるのも、揺るぎない真実の軸を持つ学問の力なのである。道理とは、妥当性でもある。真実な神の意図(ご計画)が、霊感された聖書によって、人間と世界に道理(妥当性)を与え、永遠をもたらすのである
「道理に立ち返る」(4)
「道理に立ち返る」(4) † 私はちり灰に過ぎません。 「アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」創世18・27)滅亡するソドムからロトの家族が救われるように、神と対峙(タイジ)したアブラハムの執り成しである。主はアブラハムを重んじ彼に知らせないでは、事を起こされなかった。アブラハムの全力が「私はチリや灰に過ぎません・・・・」という神を畏れるへりくだりとなった。先日、軽四トラック二杯分の枯れ草を、許可された田で燃やした。残ったのがチリ灰だ。なんと少量の灰となることか。家屋にしろ、焼けてしまうと灰のみである。造られたものはアブラハムの言うように「チリと灰」に過ぎないのだ。「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る」伝道3・20)私達が人間としての道理を考える時、このアブラハムの「私はチリと灰」であるという理解で生きる事が、最も優れている。それは同時に、主にあっては「祝福の基」であり、「神に選ばれた特選の民」で、神の宝とされた、現実を生きることが出来るのだ。アブラハムのように「私はチリと灰に過ぎない」と自認し告白できる人に、鮮明である。 † 「ノーベイン・ノーゲイン」 「犠牲なくして、成功なし(ノーベイン・ノーゲイン)」と言うのが、旧約聖書の教えている重要テーマである。大切なものを失わなければなにも得られない。と言う意味である。この道理には、多くのクリスチャンでさえ、抵抗を感じるのである。今様は、犠牲なくして儲けること、失う事なくして幸福になる事が、思考の中心になるからだ。イスラエル民族は、エジプトから脱出するには、着の身着のまま、持てるものだけを持って、全てを置いて(犠牲にして)自由と解放を手にした。新約聖書を見れば、我らの主イエスは、神である栄光を犠牲にして、人となり命をも犠牲にされた。まさに、救い主イエスは「犠牲なくして成功なし」の原型である。人間としての成功者は、主イエスに倣う人である。犠牲を惜しまない人が、真の成功を手にするのである。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」ルカ6・38)教会に真の成功者を見るのは当然である。主なる神に、自らを聖なる犠牲として与える事で、成功への道が開いている。