「道理に立ち返る」(7)

 † 誰の言葉か?
 思うに、最終的に、それは「誰が語った言葉か」が、重要である。大学の図書館に行くことは、めったにないが、何年も前にアメリカのシアトルにあるワシントン大学の図書館を訪れた。とにかく、その広さと膨大な書籍に圧倒された。本とは全て言葉が書かれている。数式ですら言葉で言い表されるわけで、書かれているものは言葉に還元されるわけだ。そういう世界で、聖書は、どうして「本の中の本」という位置を持っているのか?既成の概念を捨て去って、初心に立ち返り考える。聖書は人間の言葉で書かれている。そして、40人の作者が時代を異にして、言葉にした。あたかも人間の語録のようである。聖書の面白いところは、私の語る事を「記しなさい」と命じる者の声を言葉にした。40人もの著名な作者がいるのに、彼らは「神の言葉を聞いて」書いたと言う。要するに聖書66巻の作者は「神からの言葉」を書き物にしたのである。人生を与えられた人間に、最も価値ある言葉の本が聖書である。また、キリストが直接、神の言葉を語られた。そして言われた「わたしを見た者は、父を見たのである」ヨハネ14・9)聖書は驚きであり、どの様な人生を生きる人にも、朽ちることのない宝を得させる。まさに道理に満ちている。

 † 道理が来られる。
 今年もアドベントを迎えた。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」ガラテヤ4・4)父なる神が満を持して、独り子イエスを私達のために、この世におくられるのである。神の偉大な出来事に対して、私達は、ますます大きな喜びを与えられる。なぜならば、神への信頼(信仰)が深まっているからである。これまでの歩みが、何よりも神を知るためであったなら、主イエスの降誕は、新たなる神の恵みと祝福をもたらすものとなる。私達が神に召され、選ばれた神の種族として生きるからだ。神が人となられるクリスマスは、特別な恵みであり、私達への栄光となる。私達の信仰の確信が強められ、祝福を直接に与えられる。尊い主の生涯に目を注ぎ、御言葉を学び続けたい。主に倣い歩む事を、聖書が命じている。それが私達の道理であり、私達の立ち返るべき道だからである。そのような私達に、主イエスは幼子の様にへりくだり、私達に仕えて下さるのである。

「道理に立ち返る」(7)