「歩み出すとき」(3)

 † 自由になれる道に。
 自由とは、聖書的には広場の意味を持つ。広場を想像すれば、そこには圧迫するものがない。脅かすような何ものもない。物理的には、そういった、穏やかな空間に安らぐことである。また同時に、この広場には比較するものがない事を意味している。自由は「比較」する要素がないということである。自由になれない人の特長は、人との比較によって劣等感を持っている。常に比較によって自己を惨めな者として感じている。せっかくキリストを信じて、罪から解放されたのに、自覚的で感覚的な自由を得られていないのである。しかし私達には、キリストこそが「広場」そのものなのだ。キリストは私達を比較のない世界(広場)に、入れて下さっているのである。確かに人の心(魂)には、過去の様々な痛みや傷があって、自分ではどうにもならないものがある。このような不幸感があると、無意識のうちに身近な人と比較して、惨めさに囚(トラ)われ、不自由から脱出できないようになる。はっきり言えば、死ななければ治らない。しかし、生きながら死ねる道がある。キリストと共に十字架に死ねば、古い自分は過ぎ去り、真理の自由に喜び踊る自己を得るのである。

 † 影響を与える人へ。
 影響を与えられる人と、反応的な人がいる。どう違うのか?世界で最も影響を与えた人はイエス・キリストである。たった12名の弟子に教えられただけで、イエスの福音は全世界に行き渡っている。しかも、弟子達は高名な学者でも博士でもない、漁師達だった。こうしてみると、福音は世の中の知者や哲学や理論(学問)の助けを要しない、具体的な実際の出来事としての「神の生命」 だった。そのためには汗にまみれ、生きるため辛苦を味わっている素朴な人々の方が、神の出来事に相応しかったのだ。この漁師達は福音の受容者として、狂いも迷いもない使徒として福音を伝え、絶体的影響力を顕した。一方反応的な人とは「お金を持っていたら・・良い上司を持っていたら・・良い夫を持っていたら・・もっと自由な時間を持っていたら」と言うように、問題を社会や他人のせいにする。自らの内側から自らに働きかける「影響力」を持たないのである。影響を与える人は「自分にできる」可能性に関心を持ち、愛するという行動を持つ人である。

「歩み出すとき」(3)