† 身近な先駆者のように。
この岐阜県からも、勇猛なクリスチャンがおられたことに、驚いた。
そのような人物を知らぬままに過ごしてしまった。その人の名は、武
藤山治(1876~1934)である。私の生前に活躍されたクリスチャンで
ある。岐阜県海津郡に生まれ、父は衆議院議員も務めた。自宅に図書
室を設け、キリスト教に帰依し、自宅に教会を設けた。自由民権の思
想を抱いた父の勧めで、慶応義塾に学んで、福沢諭吉の薫陶を受けた。
後に、三井銀行に、1894年に鐘淵紡績兵庫分工場支配人となり、以後30
年、一大紡績会社「カネボウ」に発展させた。その成功は「経営手腕」や
経営努力のたくましさの故ではなく、彼の人間性の卓越さにあったの
である。それはキリスト教精神による家族主義・温情主義を実践し、
作業員の優遇が能率を上げ、余剰価値を生みだした結果だった。その
後、政界の浄化のため衆議院議員になり、実業同志会を設立した。19
32年、政界を引退し「時事新報社」の経営にあたり、社会悪を暴く鋭い
筆を振い、センセーションを巻き起こした。(帝人事件、斎藤実内閣総
辞職となる)このような時に、武藤山治は、凶弾に倒れた。死の直前に
三女の勝子が洗礼を受けた。遺体の枕元には、福音書、ロマ書などの
愛読書が置かれ、社葬の前に、夙川(シュクガワ)教会で葬儀が営まれた。
† まことにその通り。
質問したい。神は時代によって変わったか?・・・アブラハムの時代、
モーセの時代、ダビデの時代、そしてイエス様と使徒の時代と、そし
て現代。聖書に見られる様な、神の御業の躍動感を信じるか?多くの
人は、現代は聖書の研究が豊富で、みことばの豊かさが語られ、教えら
れている。それは幸いな事である。そうでなければならない。一方
「神は、今は表から退かれている」という。聖書が完璧である事によっ
て、神はこの時代に「奇跡やしるし」を行われる必要は無くなった。こ
の考は、すでに教父の時代から言われてきている。ましてや現代のク
リスチャンも同調しやすい。しかし「古代も現代も同じ神」である。
「・・・わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神
はない」イザヤ44・6) 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつま
でも、同じです」 ヘメブル13・8)力ある御業を行う神なのだ。


