† 私の願うこと。
一介の人間として、願わしいことは、自分の思い通りに成ることである。誰もが同じようなことを願うに違いない。問題なのは、あくまでも人間的な事柄に依拠した願いなのか、神の御心を求める願いなのか、と言うことである。人間には問題が蓄積する。だから当然優先順位は問題解決である。人間であるからこそ、問題から離れて生きる事は出来ない。だからこそ、私達は「神の御心が成れ」と、祈り願うことが最善になるのである。「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません」ヤコブ1・6-7)神の御心に成ることを最善と信じる謙虚さが、結果をもたらすのてある。この願いの中には、生ける神が招き入れられている。主イエスは「神の御心」として願われたことに、行動された。全身ひどい皮膚病の人が、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、その皮膚病が消えた」ルカ5・12-13)神を畏れて願う人を、見過ごされる主イエスではない。
† 私の喜びとは?
あなたの喜びは何か?と問われたらなんと言うか?主イエスは、即座に言われるに違いない。「父なる神の御心が成ることです」と、では、どうして私は直座に「神の御心がなることです」と言えないのか?明確なことは、私は、この世に自分を執着させている魂に過ぎないからである。・・・そのことを強く指し示されてから、少しは変わってきた。私も「神の御心が成る」ことを、喜びとしてして自分自身と世界とを感じるようになってきたのである。もちろん完全とは言えない。しかし、私の最大の願いとなりつつあるのだ。世の新しいものを手に入れたいとか、愉しんでみたいとかは考えるけれど、何も不足しているわけではない。神の御心のごとく成れ、という心になっていると、疲れにくい気がする。発想が湧く気がする。人間への関心が深まるように感じる。「御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ」これは、唱えるものではなく、生き生きとした力強い願いであり、祈りである。


