プチマルシェ開催 7/16の礼拝後にプチマルシェを開きます! 陶器の器、アクセサリー、小物などの出店予定 掘り出し物が見つかるかも!! 日時:7/16(日) 12:30~14:30まで 場所:可児福音教会
2023 キッズサマーキャンプ
2023 キッズサマーキャンプ 「TREASURE HUNT」 キッズサンデーサマーキャンプが今年もあります! テーマは「TREASURE HUNT~真実の宝を探せ~」 本当に大切な真実の宝を見つけ出そう! 日にち:7/30(日)~7/31(月) 対象:小学生3~6年生 参加費 宿泊あり・・・3,000円 宿泊なし・・・2,500円 持ち物 水筒、帽子、上靴、着替え [30日の水遊び] 水着、タオル、サンダル 日焼け対策(ラッシュガードやシャツ、帽子) [宿泊用] 寝具(寝袋、タオルケット等)、お風呂セット(シャンプー、石鹸はあります)、歯ブラシ、パジャマ、着替え ※現金・ゲーム機・スマホなどは持ってこないでください! キッズサンデー サマーキャンプ日程 30日(日) 31日(月) 14:00~受付スタート 8:30~受付スタート 14:10~ウェルカムタイム 9:00~クラフトタイム 15:00~水遊びウォーターバトル 10:30~チャレンジタイムⅡ 「水鉄砲で打ちまくれ」 12:00~昼ごはん 17:30~夜ごはん 13:00~掃除 18:30~チャレンジタイムⅠ 13:30~チャレンジタイムⅢ 20:30~解散 14:30~解散 問い合わせ 可児福音教会 TEL:0574-62-6272 住所:可児市今渡1732-1
果たすべき事」(5)
果たすべき事」(5) † 励ましの言葉。 牧師は人々を励ます務めを持っている。特に、苦しみや悲しみの中にある人、戦いの中にある人を、見過ごしてはならない。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」1テサ5・14)ここでは、全員が励まし、助け、戒める事を、ミニストリーとして行うことが求められている。キリストの愛と寛容が土台となる。牧師のみならず、信徒も、どれ程に多くの励ましを受け、誡めによって教育され、矯正されたか、その尊さを知る者が、励ましのミニストリーを、豊かに実らせる。御言葉に、取り組む者がそうなる。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」2テモテ3・16)信仰を与えられた者への聖書は、私を義の訓練のため、教え、戒め、矯正する霊感の書となる。そのように聖書と向き合い、応答している者が、内容のある、真実な励ましを、与える事が出来るのである。私達は常に「神寄り」に、聖書を読まず「自分寄り」に聖書を読む。これが狂いの全てかも知れない。信徒でも「神の人」と言われる人は、神寄りに聖書が読める人であることを覚えよ。 † 生焼けの菓子。 火が全面に、均等に通っていない菓子は、旨さがない。クッキーやパンなどを作る人々は、最善の注意を火加減に置いている。それは、生焼け部分がある菓子は、失敗品となるからである。要するに「焼かれている」部分と「生」の部分がある。神は、私達の中に在る二面性に、関心を持って係わられる。「人には表と裏がある」というところだ。それを当たり前のように、使い分けて生きているのが、人間世界である。技量であり、知恵とも言われる。しかし、私は神のものである。神はご自分の民に求められるのは、二面性のない信仰である。確かに、一面は、神の恵みに生きている。しかし、一面は、神に服従しない自分のままに生きている。神の恵みが、表も裏も貫いていない、生焼け状態である。このような生き方に、終始しては、生焼けの人生で終わる。私が果たすべき事は、恵みで、裏も表も焼き上げられることである。「私たちの神は焼き尽くす火です」 ヘブル12・29)私達の信仰に、生焼けが残らないように、神の火で焼かれ、恵みが香りを放つことだ。
「果たすべき事」(4)
「果たすべき事」(4) † 自分へのおもねり。 「おもねり」とは、へつらうことで「自分におもねる」とは、自分に都合良く振る舞うことである。主イエスは群集には厳しく言われないが、身近な使徒達にはそうではなかった。中でも、身近に選ばれた三人のペテロ、ヤコブ、ヨハネは、より主イエスの、まことを見、御言葉の真意を示されたことは間違いない。要するに、私達が主に近く住み、キリストに従おうとすれば、主の御言葉は真実さを増し、厳しさを伴う様になるということである。主イエスとの距離が遠ければ、御言葉は軽い。しかし、主に近づくと、御言葉の真実が重みを持つ。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」マタイ19・29) ヨブを思えば、主の真実が理解できるが、人事ではなく自分の事だと、受け取れるのか? 主の眼差しが注いでいるのを感じる。わたしの信仰は、自分に都合の良いことを重視した、おもねりのあるものだ。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」19・27)と、言ったが、本当に「主のみ」に従っていた。私達にへばりつく「おもねり」を剥がして、棄て去る事が、主への真の愛となり、応答(信仰)となる。 † 疑わず進み続ける。 神はアブラハムに言われた「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」創世22・18)いま、私達はアブラハムの祝福の内にいる。幸い、罪から救われる信仰は与えられた。しかし、大事な最も身近なことは、人生に襲いかかる、様々な心配、恐れや不安の現実をどうするかなのだ。心に決めなければならないことがある。それは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14・1)神を疑わない「決意」を持って信じる事。なにごとも、「神は「万事を益となるように働かれる」ロマ8・26)そのような私達は「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」詩4・8)これに勝る生き方はない。そのために神は人となられ、私達のために死なれ、復活された。現実の幸せを疑う余地無し! ハレルヤ!
「果たすべき事」(3)
† 聞き従う事にある。 自由意志を生きられる幸いを感じない人はいないだろう。それだからこそ、私は多くの反対にあったが、キリスト者となれた。これが、前世代の環境(戦前)だと、難しいと感じる。イスラエル民族は、神によって造られ、神は民との間に、契約を結ばれた。内容は平安と祝福を得て、永遠の生命に至ることである。民の自由意志が赴くところは、神の言葉に聞き従う事であった。旧約聖書の内容はイスラエルが、神に如何に向き合ったかの歴史である。各時代には、神の生ける言葉を語る預言者が立てられた。イスラエルの民が聞き従うためである。国家存亡に関わる危急の時、王や首長達が、神の言葉(預言者)に、聞き従うか、否かが明暗を分けた。「神、主は、こう仰せられる。もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる」エレミヤ38・17)そうすべきであった。しかし、ゼデキア王は、聞き従わなかった。最も悲惨な結末を招いたのだ。恐れや不安の最中にこそ、神に聞き従うべき事を、肝(キモ)に命じたいと思う。 † 管理すべき身体。 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)他の箇所には「神の神殿」と記す。今や100年ではなく、120年時代が言われ始めている。聖霊の宮として、望ましいのは、健康な身体である。脳の劣化を遅くする努力も求められる。そのためには節制することも、鍛錬することも、意識して管理して行く事だと思われる。あくまでも、主なる神を崇め、福音の奥義を喜び、楽しむ「証し人」としての生涯でなければ意味の無いことである。生きる年月は、本人の知るところではないが、聖霊の宮として管理されない身体は、神の御心に反するのではないか? 医療の進歩も、私達の目的に味方している。地上での幸いは、神の神殿として、この身体に与えられている五感を通し、感謝しつつ、地上に生きることだ。神の国を、喜び、楽しんで生きる事である。「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ」伝道の書5・20)ハレルヤ!
「果たすべき事」(2)
「果たすべき事」(2) † 自らのため信ず。 救い主イエスは初めに「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11・28)と、招かれた。個々の人間自身が、現実に持っている人生の重荷を取りのぞき、神の平安の中に住まわせてくださるためである。主イエスの、全ての人に対して果たすべき事は、ここにある。同時に、私達は主イエスの十字架と復活の、神の御力によって、生きる人生のすべての重荷を、主イエスに委ねることが「果たすべき事」なのである。まず、私達は罪人として「自己中心」でしかあり得ないのであり、主イエスの福音は、個々の一人一人へのアプローチとして明らかにされた。福音は、宇宙創造の神の本質である、憐れみと慈しみの表れである。個々の一人一人を「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」イザヤ49・16)まさに、神はあたかも、私のみを見つめておられるように、ご自身の恵みに満たそうとして下さるのである。福音の広がりは、全世界の人々への宣教であり、救いである。しかし、その源泉は、私自らのために、注がれる圧倒的な祝福と、神の憐れみと、慈しみの現実が、生みだしてゆくのである。ハレルヤ! † 主なる神のために。 私達は知的な理解力や、判断力を与えられている。教育はこの世に役立つ者、その能力を増し加える事に向けられる。それは、世界中がそうである。元来、大学は神の言葉を正しく理解するために、創設された。16世紀のルネッサンス(人間の個性・自由な生き方を求める)を機に転換した。大事なことは、どの様な時代であれ、主なる神は、変わりなく恵みを注がれている。どの様な時代であれ、人々は滅びる運命を免れることはできない。上掲のごとく、圧倒的な神の愛は私達に注がれる。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 2コリント5・17)古きから、新しきへの転換が明確に起こった。主なる神のために、生きる私達の人生を、神の「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」1ヨハネ4・13)と、明確に宣言する。私は神の子供であり、神の御力に支えられるのだ。神は、私達に御霊と御力を注ぎ、ご自身の約束を、果たさるのである。