果たすべき事」(5)

† 励ましの言葉。
 牧師は人々を励ます務めを持っている。特に、苦しみや悲しみの中にある人、戦いの中にある人を、見過ごしてはならない。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」1テサ5・14)ここでは、全員が励まし、助け、戒める事を、ミニストリーとして行うことが求められている。キリストの愛と寛容が土台となる。牧師のみならず、信徒も、どれ程に多くの励ましを受け、誡めによって教育され、矯正されたか、その尊さを知る者が、励ましのミニストリーを、豊かに実らせる。御言葉に、取り組む者がそうなる。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」2テモテ3・16)信仰を与えられた者への聖書は、私を義の訓練のため、教え、戒め、矯正する霊感の書となる。そのように聖書と向き合い、応答している者が、内容のある、真実な励ましを、与える事が出来るのである。私達は常に「神寄り」に、聖書を読まず「自分寄り」に聖書を読む。これが狂いの全てかも知れない。信徒でも「神の人」と言われる人は、神寄りに聖書が読める人であることを覚えよ。

† 生焼けの菓子。
 火が全面に、均等に通っていない菓子は、旨さがない。クッキーやパンなどを作る人々は、最善の注意を火加減に置いている。それは、生焼け部分がある菓子は、失敗品となるからである。要するに「焼かれている」部分と「生」の部分がある。神は、私達の中に在る二面性に、関心を持って係わられる。「人には表と裏がある」というところだ。それを当たり前のように、使い分けて生きているのが、人間世界である。技量であり、知恵とも言われる。しかし、私は神のものである。神はご自分の民に求められるのは、二面性のない信仰である。確かに、一面は、神の恵みに生きている。しかし、一面は、神に服従しない自分のままに生きている。神の恵みが、表も裏も貫いていない、生焼け状態である。このような生き方に、終始しては、生焼けの人生で終わる。私が果たすべき事は、恵みで、裏も表も焼き上げられることである。「私たちの神は焼き尽くす火です」 ヘブル12・29)私達の信仰に、生焼けが残らないように、神の火で焼かれ、恵みが香りを放つことだ。

果たすべき事」(5)