「果たすべき事」(1) † 幸いな人。 「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20・24)演劇のセリフではない。真摯なまことの言葉なのだ。ここには長寿を求める願望も、栄達を求める欲求もない。パウロは「成し遂げるべき任務」を、いつも目の前に置いていたのだ。私達は自由主義的に、自分で自分の道を決めたい。しかし、パウロは違う「決められた道」を知っている。「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです」エペソ1・11)神の目的に従って、自分に定められた任務を受け容れる。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」エペソ2・20)私達はダビテのように「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである」使徒2・25)私の良い行いは、主が成し遂げられるのだ。 † 省みてわかる。 私達は、生きている間に、悟りを得なければ、人生は無に等しくなる。その良い例がルカ16章19-31「ラザロと金持ち」の実話に書かれる。繁栄は神からのものとしてヨブは敬虔に生きたが、多くの人は順風満帆の時に、神から遠ざかる。貧しい者も、豊かな者も「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある」伝道3・2)ソロモン王の偉いところは、地上のあらゆる生業(ナリワイ)は「空の空」と悟ったことにある。ラザロに対する金持ちは、先人の知恵に学ばず、省みて学ぶ事を怠った。死んでわかった のだ。自分は黄泉で苦しみ、ラザロはバラダイスにいる。金持ちは、絶望の淵から叫ぶ、私には五人の兄弟がいる、彼らまで、この苦しみの場所に来ることがないよう警告して下さい。と、その答えの声が鳴り響いた。彼らには聖書がある。これに耳を傾けるほかに道は無い。と、人生の結果である「死」がら省み、悟るべきなのだ。
「霊的な同化」(7)
「霊的な同化」(7) † 主イエスの精神。 心(精神)と言う言葉は、誰にもわかる。特別な霊的な言葉ではない。そのようにクリスチャンの信仰は、心の内側から言葉となり、態度となって現される。利害を含む人間関係や、様々な生活上の重要度においても、その人の信仰は、その人の「心」の命ずる言葉となり、行動や態度に表れる。このような私達を、主なる神は見ておられるに違いない。「・・・・数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」黙20・12)救いは信仰によるものであるが、信仰は必然的に、それが生み出す「行い」によって明らかにされる。神は、私の心の行動(言葉・態度・行為)を克明に記録される。私が、主イエスの精神(心)と同化して、どれ程に生きたか、と言うことなのである。主イエスの精神は、父なる神の憐れみと慈しみである。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2・13)主イエスの精神(心)を持って生きる事が、最重要に思われる。 † 独りよがり。 私達は、何ものにも煩わされず、自由に生きる事を求める。思わしくない様々な関わりから自由でありたい。それが、罪深い人間の本能的願望だろう。裏を返せば、人は孤島に一人で生きているわけではない。実は、あらゆる関係の中で、人々の中で、この地域に居る。真実には、どの様な姿勢が求められているか? 聖書の求める原則は、私達を「井の中」に閉じ込めるのではなく。「大海」に出て、生きることである。人間世界に関わって「神の国」を拡めて行く事にある。その姿勢の中に「真理の自由」が与えられる。神の愛と、聖霊の働きを信じて、前向きに関わってゆく自由である。独りよがりな自由は、自己保全的な「井の中」に留まり続ける。自分に都合の良いことだけを求める生き方を、憎むことは人として、正常である。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」ヘブル13・13)主イエスと同じようにする(生きる)これ以外に、残されている道はないと思う。
「霊的な同化」(6)
「霊的な同化」(6) † 一心同体。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」エペソ5・31)神の御前で、誓約された結婚の、祝福の真意が述べられる。一心同体という言葉は新約聖書で4回用いられている。その中に「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです」1コリント6・16-17)私達は、生きている限り「煩悩(欲望)」が、つきまとう。通俗的には、性欲と物欲であり、遊女は、その象徴である。人間は欲望と一心同体として生きている。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」エペソ2・3)しかし今、私達はキリストにより、滅びから救い出された者として生かされる。求められる事はただ一つ「主と交われば、一つ霊となる」主イエス・キリストと一心同体になる事である。主なる神であり、父である神に、自ら近づいて交わる事である。それを怠れば、必然的に、欲望の力に同体とされるのだ。クリスチャンは危うい現場(この世)に居る、ということを、肝(キモ)に命じるべきである。 † 希望の中に生きる。 すべての人が知っている事は、人生の悲哀である。不遇の中におかれ、報われない中に生き、長い年月を生きても、思うようにすることが出来なかった。そのような悔いを背負っている。その結果、神も仏もいない、と失望の中に生きる人が大勢いる。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」ロマ15・13)ここに、人間の生きる源泉は「溢れる希望」であることが宣べられている。現実の喜びと平和に溢れることである。「希望の源である神が(共同訳)」希望に溢れさせる。しかも、永遠の世(天国)にまでも確固として結びつける希望である。この世の富を持ち、人間の欲望を満たしても、虚しさが襲い、死の恐怖に追いかけられる。今こそ、中途半端な生き方を止めよう。真実な希望の神から得られる、あらゆる喜びと、平和に満ちる、信仰の祝福の中に立ち上がろう。
「霊的な同化」(5)
「霊的な同化」(5) † 聖霊に仕える。 仕える(奉仕)のことを、ミニストリーと言う。人や地域や社会に対する奉仕(仕える)ことである。私達は知っている「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」ヨハネ5・17)と言うことである。教会での交わり、信徒同士の交わり、私達クリスチャンと共に、主イエスは働かれる。百人の中で、私一人がクリスチャンであっても、主イエスは働かれる。聖霊の働きは、教会のみではない。大事なのは、主イエスを信じる者が、未信者の中で聖霊に仕える事だと思う。最もやりやすいのは、教会内でのミニストリーである。キリストを信じていても、キリストのようではない未熟さに纏われているのが私達の現実である。聖霊はその様な一人一人に、愛を増し加え、力を増し加えられる。これまでの人生で、大きな痛手や、失望に傷つき、引きづられて生きているクリスチャンもいる。聖霊は、そのような人に仕えられる。聖霊は、父なる神の深い愛と憐れみで、傷ついた心を癒される。聖霊は、御子イエスの御業と力と、血潮の聖さによって、人間に対する悪魔の力を打ち砕き、身体の病や痛みを打ち砕かれる。私達は、そのような聖霊に仕えて奉仕する。そのような聖霊の働きと力を知った者が、より聖霊と同化し、仕える事が出来るだろう。 † 必要な間(マ)を持つ。 可愛い幼子達が、大勢周りに居る。自分の得意技の一つは、幼子と親密になれることである。幼子を可愛いと思わない人は、幼子も顔を背ける。幼子の性質によって、距離を置きながら徐々に近づいて少しづつ関係を築いてゆく。そして完全な親愛を持てるに至る。無理に近づいて関係が崩れてしまうこともあるからだ。我が家には金魚が飼われている。新しい金魚を水槽に入れた時、しばらくは、近づくと逃げ去る。エサを入れても隠れる。2ヶ月くらい経つと様子が変わってくる。水槽に近づくと金魚が寄ってくる。直ぐには通じなくても、間(マ)を持って続ければ結果が出て来る。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。・・・」ヤコブ4・8)神に近づく回数を増やせ、と言うことだ。間(マ)を置くごとに、二心を捨て、心清くして、神に近づけば、神も近づき同化される。