「霊的な同化」(7)

† 主イエスの精神。
 心(精神)と言う言葉は、誰にもわかる。特別な霊的な言葉ではない。そのようにクリスチャンの信仰は、心の内側から言葉となり、態度となって現される。利害を含む人間関係や、様々な生活上の重要度においても、その人の信仰は、その人の「心」の命ずる言葉となり、行動や態度に表れる。このような私達を、主なる神は見ておられるに違いない。「・・・・数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」黙20・12)救いは信仰によるものであるが、信仰は必然的に、それが生み出す「行い」によって明らかにされる。神は、私の心の行動(言葉・態度・行為)を克明に記録される。私が、主イエスの精神(心)と同化して、どれ程に生きたか、と言うことなのである。主イエスの精神は、父なる神の憐れみと慈しみである。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2・13)主イエスの精神(心)を持って生きる事が、最重要に思われる。
    
† 独りよがり。
 私達は、何ものにも煩わされず、自由に生きる事を求める。思わしくない様々な関わりから自由でありたい。それが、罪深い人間の本能的願望だろう。裏を返せば、人は孤島に一人で生きているわけではない。実は、あらゆる関係の中で、人々の中で、この地域に居る。真実には、どの様な姿勢が求められているか? 聖書の求める原則は、私達を「井の中」に閉じ込めるのではなく。「大海」に出て、生きることである。人間世界に関わって「神の国」を拡めて行く事にある。その姿勢の中に「真理の自由」が与えられる。神の愛と、聖霊の働きを信じて、前向きに関わってゆく自由である。独りよがりな自由は、自己保全的な「井の中」に留まり続ける。自分に都合の良いことだけを求める生き方を、憎むことは人として、正常である。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」ヘブル13・13)主イエスと同じようにする(生きる)これ以外に、残されている道はないと思う。

「霊的な同化」(7)