「信のまこと」(2)

「信のまこと」(2) † 主イエスの関心事。 「・・・・イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか」マタイ16・13)主イエスは自分の活動の評判を気にして弟子に尋ねられたのか? 否である。主イエスの言葉と御業を通して、人々が主イエスを「○○だ」と言っている事に関心を持たれてた。神の御業と御言葉をとおして、ペテロのみが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と言った。主イエスの関心は、天の父なる神の霊が、ペテロに、イエスはメシヤであると言わせた事にある。「・・・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」1コリ12・3)一人の魂の救いは、神の御霊のお働きである。アメリカの大覚醒時代は、J・エドワーズ(1703~58年)の牧会から始まる。2ヶ月の間に突然に、次々と300人程の人が回心した。そして、ニューイングランドほぼ全域が霊的革新に巻き込まれた。野外の集会には2万人もの人が集まり、居酒屋ではなく教会に人々が集った。神の霊(聖霊)の顕著なお働きだったのである。ど れ程に低迷している霊的時代にも、聖霊のお働きはある。失われている魂に聖霊が臨むことを祈る事は、私達の責務である。 † 主に栄光があるように。 私達人間は評価を期待しているのではないか? 確かに聖書に「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします」使徒6・3)しかし、選ばれた人々は評判を得るために活動していたのではない。そのような魂胆ある者は、選ばれないのだ。主のために一心に仕えたので、評価されたのである。神の下僕は、主イエスの栄光のために求めて生きる。そこに純粋な心の働く、健全な信仰が見られる。ある牧師が日曜学校の若い先生に言った。「十字架と自分について、考えて作文を書きなさい。主の十字架がわかるまで続けよう」と、十字架の血潮の御力を知らない人に、教える力が無い。と言うのがその牧師の見解なのだ。主イエスとの関係で、生まれるものは、喜びと感謝である。そして、「主に栄光があるように」と叫ぶ。ヨタムのように「彼はすべて、主の目にかなうことを行なった」2歴27・2)と、見られたい。

「信のまこと」(1)

「信のまこと」(1) † 信の探究。 信とは「信仰」のこと。キリスト信仰のことである。私の生涯は、主イエスの招きに捕らえられた19才から、60年を経てなお、信仰を追い求めている。人間が神を信じるとは、天井知らずの高さを思い知らされるし、底なしの深さを思い知らされる。信仰の真実を求めれば、求めるほど高く深くなる。それは何を意味するか、神と人間の質的な差を知る事であり、神の威光の高貴さを識る事である。人は宇宙を深遠な謎だという。聖書の神は、それ以上に偉大で深淵なお方である。宇宙は神の中にある物と私は思う。神の聖にして義と愛の神格(人格)があるを示され、知るだけでも圧倒される。私達は聖書をひもといて、神を語る事がゆるされるが、同時に言い表せ得ない神が居られるのである。識ったと思うと、さらに奥深くに神が居られるのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリント8・2)私達の信仰の確信は、主イエスとの出会いに与えられる。そして、揺るぎない強固な信仰に成長する。そして、神の全般の真実に対して、私達の信頼のまことを求められるのである。 † 主の心を。 「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。・・・・」ピリピ1・27)私達の生活の在り方を示す御言葉である。また「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」ピリピ2・5)これを文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳す。この方が直接的で、心を心とする、と言うのが日本的に感じる。キリストの心とは、救い主としての心である。また、父なる神を常に仰がれている信仰の心である。私達の信仰のまことは、キリストの心である。色々な人々との出会いや交わりの中で「キリストの心を心とする」それが、最も福音にふさわしい生活となる。主イエスのあらゆる言葉、態度、行為に関心を持っていれば、聖霊はキリストの心を教え、その心を行うように働きかけ、力を与える。それが、まことの聖霊のお働きである。油注ぎは証人となるため(使徒2章)の任職であるように。キリストの心を敬い、その心を生きようとすれば、聖霊はそのために伴われる。

「立ちあがる」(7)

「立ちあがる」(7) † 屋台から始める。 福音の素晴らしさは、いかような所でも証詞される事である。ヒマラヤの髙地でも、アマゾンの奥地でも福音は、魂を滅びの穴から救い出している。戦後78年を経て、日本は高度な科学技術国となり、生活が豊かになり大きく変わった。そういう中で福音が素晴らしく輝いているか?と言えば、世の輝きと力に、押され気味で精彩を欠き、教会も全体的に精彩が無い。黙示録にラオデキヤの教会について「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」黙3・15)続きには、この世での富と豊かさが、霊的な貧しさと、惨めさを生み出し、盲目にされ、裸にされている事を知らないでいる。と、ある。実は今の時代のことである。教会は生みだされる必要がある。店を持とうと思うならば「屋台から始め」地道に実力を増して ゆけばばよい。教会を立て上げるのも同じである。福音の力が生活に現れている、一人、二人からでも、教会は生まれる。世界のリバイバルが数人の祈りから起こされる。そのような事例は教会史に溢れる。目を実際に向ければ、新しい教会は立ち上がる。 † 結果の恐ろしさ。 自由というすばらしさには、大きな代償が伴っている。人はどの様な生き方をしても良いと保障されている。もちろん反社会的な自由は論外である。その自由の恐ろしさは最終の結果にある。人は一生を掛けて、自分の選んだ好ましい道を歩む。例えば、ある人は資材を投じ、多大な犠牲を伴って、あたかも頂きを目指して登るべき梯子(ハシゴ)を登り続ける。ある人は自分の好ましい趣味に没頭して、楽しみながら梯子を登り続ける。ある人は投資の魅力に夜も日も没頭して喜びながら梯子を登り続ける。やがて梯子は頂上に達する。そこに立ち上がる広場がある。そこに何が待ち構えているのだろう。必死に、これこそが自分の登るべき正しい梯子だと任じていた。しかし登り詰めた所には、何の報いも置かれていない。救いの神はそこには立って居られない。闇が待ち構える、それは地獄でしかない。自由は最大に喜ばしい。真理を探究し、まことの神を訪ね求める自由があるということである。それ以外の自由は恐ろしい結果が待ち構える。

「立ちあがる」(6)

「立ちあがる」(6) † 限界を持たない。 人の一生には限界がある。茶の間で親しんだ俳優さんや、著名な方々の訃報の知らせには、寂しさを感じる。私達が重要とすべきことは、いま活かされていることだ。主なる神が命を与えて下さっている特権を生きることである。生かされる限り、喜び溢れて精一杯生きる。これが望ましいのは当然である。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)普通に人は、世の中に生きている。だから世の中で、好きなこと、やりたいことを、手がけて生きる事が、喜びに溢れることだと考える。私達クリスチャンは、これを第一義にする事は考えものである。整っていた条件が崩れたとき(健康問題、家族関係、事故など)に、喜びや生きがいを、失うかも知れない。限界のない、喜び溢れる生き方がある。主なる神を「知りたい・見たい」と言う、尽きざる探究(信仰)の毎日であること。生かされる限り、この一つを第一に生きることである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」1ヨハネ1・1)このリアリティが最大の喜びである。信仰を与えられた19才から60年を経ても、なお神を知りたい事において、限界がないばかりか、喜び楽しみは、増し加わってくるのである。 † 新しく立ち上げる。 自分で組み立てたパソコンが10年を越えて現役を続けている。当時は最新の機器であったが、今のWIN-11は動かない。それで、これから15年は望めるインテル11世代の、i9(8コア16スレッド3.50GHz)。メモリ32GB。という新中古品を立ち上げることにした。私の精神年齢は17才なので? 15年くらいは使える。とにかく、前に向かって、真理探究の学びを続けたい。そのためにパソコンは研究のツールである。脳活性化のためにも、キーボードを叩き続けたい。教会のオリジナルな年賀状、暑中見舞いは、何十年と続けられたのもパソコンあってのことである。何よりも牧師の知的向上には、パソコンが最も有効である。30年も前「私はパソコン、デジタル牧師です」と、紹介されて驚いたが、今や総じてその通りなのだ。アナログで本読みをメインにし、神ご自身と福音を知るため、立ち上がる年としたい。