「立ちあがる」(7)

† 屋台から始める。
 福音の素晴らしさは、いかような所でも証詞される事である。ヒマラヤの髙地でも、アマゾンの奥地でも福音は、魂を滅びの穴から救い出している。戦後78年を経て、日本は高度な科学技術国となり、生活が豊かになり大きく変わった。そういう中で福音が素晴らしく輝いているか?と言えば、世の輝きと力に、押され気味で精彩を欠き、教会も全体的に精彩が無い。黙示録にラオデキヤの教会について「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」黙3・15)続きには、この世での富と豊かさが、霊的な貧しさと、惨めさを生み出し、盲目にされ、裸にされている事を知らないでいる。と、ある。実は今の時代のことである。教会は生みだされる必要がある。店を持とうと思うならば「屋台から始め」地道に実力を増して ゆけばばよい。教会を立て上げるのも同じである。福音の力が生活に現れている、一人、二人からでも、教会は生まれる。世界のリバイバルが数人の祈りから起こされる。そのような事例は教会史に溢れる。目を実際に向ければ、新しい教会は立ち上がる。

† 結果の恐ろしさ。
 自由というすばらしさには、大きな代償が伴っている。人はどの様な生き方をしても良いと保障されている。もちろん反社会的な自由は論外である。その自由の恐ろしさは最終の結果にある。人は一生を掛けて、自分の選んだ好ましい道を歩む。例えば、ある人は資材を投じ、多大な犠牲を伴って、あたかも頂きを目指して登るべき梯子(ハシゴ)を登り続ける。ある人は自分の好ましい趣味に没頭して、楽しみながら梯子を登り続ける。ある人は投資の魅力に夜も日も没頭して喜びながら梯子を登り続ける。やがて梯子は頂上に達する。そこに立ち上がる広場がある。そこに何が待ち構えているのだろう。必死に、これこそが自分の登るべき正しい梯子だと任じていた。しかし登り詰めた所には、何の報いも置かれていない。救いの神はそこには立って居られない。闇が待ち構える、それは地獄でしかない。自由は最大に喜ばしい。真理を探究し、まことの神を訪ね求める自由があるということである。それ以外の自由は恐ろしい結果が待ち構える。

「立ちあがる」(7)