「立ちあがる」(6)

† 限界を持たない。
 人の一生には限界がある。茶の間で親しんだ俳優さんや、著名な方々の訃報の知らせには、寂しさを感じる。私達が重要とすべきことは、いま活かされていることだ。主なる神が命を与えて下さっている特権を生きることである。生かされる限り、喜び溢れて精一杯生きる。これが望ましいのは当然である。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)普通に人は、世の中に生きている。だから世の中で、好きなこと、やりたいことを、手がけて生きる事が、喜びに溢れることだと考える。私達クリスチャンは、これを第一義にする事は考えものである。整っていた条件が崩れたとき(健康問題、家族関係、事故など)に、喜びや生きがいを、失うかも知れない。限界のない、喜び溢れる生き方がある。主なる神を「知りたい・見たい」と言う、尽きざる探究(信仰)の毎日であること。生かされる限り、この一つを第一に生きることである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」1ヨハネ1・1)このリアリティが最大の喜びである。信仰を与えられた19才から60年を経ても、なお神を知りたい事において、限界がないばかりか、喜び楽しみは、増し加わってくるのである。

† 新しく立ち上げる。
 自分で組み立てたパソコンが10年を越えて現役を続けている。当時は最新の機器であったが、今のWIN-11は動かない。それで、これから15年は望めるインテル11世代の、i9(8コア16スレッド3.50GHz)。メモリ32GB。という新中古品を立ち上げることにした。私の精神年齢は17才なので? 15年くらいは使える。とにかく、前に向かって、真理探究の学びを続けたい。そのためにパソコンは研究のツールである。脳活性化のためにも、キーボードを叩き続けたい。教会のオリジナルな年賀状、暑中見舞いは、何十年と続けられたのもパソコンあってのことである。何よりも牧師の知的向上には、パソコンが最も有効である。30年も前「私はパソコン、デジタル牧師です」と、紹介されて驚いたが、今や総じてその通りなのだ。アナログで本読みをメインにし、神ご自身と福音を知るため、立ち上がる年としたい。

「立ちあがる」(6)