「入れ換える」(2) † 真実が上塗りされている。 聖書はなぜ「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」ヤコブ4・9)と、語るのであろうか?それは新約時代の一世紀も、今日も教会は同じ問題を抱えているからである。現代は特にそうだが、教会は人間の好むことに逆らわない。人間の嫌う言葉を封印し、楽しさと喜びを提供し、素晴らしい音楽に招き入れる。これが未信者のための招きの集会で行われるのなら理解されよう。しかし、終末時代に生きている私達を、忘れさせるような喜びと楽しみの教会は、どうなるか?「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」マタイ25・3)のような教会になる。笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。とは、「喜び、楽しみ」の自己欲求の生き方から、悔い改め、砕かれた心で神に従う生き方をせよ。すなわち「変えなさい」→[英] turned→[ギ]メタストレフォ「変換せよ」となる。クリスチャンは、人間の真実のために「泣き・悲しみ・嘆き」に変換された人種なのである。だからこそ、主なる神の慈愛の中に私達は生かされる。また裁きの座にあって、勝ち誇れるものとなるのである。 † 主イエスが私を変換された。 単に変えられたものは、またもとに戻る。どんなに美しくメッキがされても、いつしかメッキは剥がれ地金が現れる。「新しく生まれた人」は、御子イエスの御業を通して、新しい質に変換されているのである。問題は、変換された内容がわからない人間である。罪から救われた事を信じているが「神の宮に、神の子供の特権」へ質が変換された驚きや、真理の喜びが爆発しない。これは、豊かな現代の中に生きるキリスト者の持つ信仰の障害である。今まで思うように生きてきた事が、安全の保証となり、神への全き信頼をはぐらかしているのである。しかし主なる神は、その様な私達を知っておられる。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12・6)変換されている「質」そのものが現れるように、火を持って精錬される。すると、「・・・・私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています・・・・」 ピリピ3・8)と心から、告白できる者になる。
「入れ換える」(1)
「入れ換える」(1) † 確実に換える。 換える、代える、替える、変える。という言い方がある。これから用いるのは「換える」である。換えるは「交換」の意味で使うのが、ほかの「かえる」との違いに挙げられる。「あるものと引き換えにあるものを得る」 「あるものを手放すことによって、別のあるものを手に入れる」さて、新会堂も献堂から17年が経ち空調の経年年数を超える時期になった。今後の故障に部品の調達が出来なくなるのである。この度、最終的な点検と部品交換を行い、3~5年をめどに機器の入れ換えを求められる。ガスの空調機から電気の空調機に換えることになる。小さな一室で冷房を使うと、大きな室外ユニットが稼働し大きな燃費のロスが生まれる。これが今の現状である。このロスを解消する入れ換えの手始めとして、3階の三つの部屋に、個別の電気エアコンを設置する。ガスからの電気への入れ換えである。燃費の軽減を図る第一歩である。なぜか?今のガス空調機を、新しい同じ機器に取り換えると700万円の見積もりである。私達の教会としては、新しい発想による転換で、設置経費も安い電気による空調に切り換わる事になるのである。 † 自らを手放す。 あるものを手放し、あるものを手に入れる。その、あるものを自分にする。そして自分を手放す。誰に?主なる神にである。何が想像できるか?どの様な「あるもの」を手に入れられるか?真実の「愛」を考えてみるとわかる。愛は、自分の一切を与え尽くす(手放す)ことなのである。主なる神は御子を私達に与え尽くされたのである。だから、これが愛の中の愛(無償の愛)アガペーである。この信仰の知識に従って、私自身を神に手放すことは、主なる神への真実な応答となる。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」ルカ24・27)自分の十字架を負うとは、主なる神の真実に答えて、自らの全てを、主イエスに「手放した」姿である。自分の「あるもの」を手放すとは、一部分を意味する。弟子になれないでいるとすれば、未だ自分は自分として生きて、主なる神に、全てを手放していないと言う事である。主に全てを手放せば、主なる神が、私に換わって、生きて下さるのである。
キッズサマーキャンプ
キッズサマーキャンプ 小学生向けのキッズサマーキャンプを7/24~25に行います。 キャンプテーマ:「Jump on the Jesus-wagon」 今年は4・5・6年生は宿泊あり、1・2・3年生は宿泊なしでに日曜日に一度帰宅し、月曜日の朝に再度活動という形で行います。 水遊びなどの楽しい企画も満載です。 締切は7/10です。 最近、イベントへの参加者の人数が多い為、締め切りは厳守ください。締め切り以降の申し込みは人数によっては、受け付けられない場合があります。 詳細はチラシをご覧ください。 問い合わせは当教会までお願いします。
吉田一誠師来会
吉田一誠師来会 6/26(日)に久留米ベテルキリスト教会牧師の吉田一誠師が来られます。 その日の礼拝のメッセージは吉田先生にしていただきます。また、午後からは中高生向けに証しのメッセージも聞くことができます。 どなたでもお越しください。 日時(9/26) 礼拝 1部 9:00~ 2部 11:00~ 中高生礼拝 14:30~
「両刃の剣を握る」(7)
「両刃の剣を握る」(7) † 安心の土台。 人は安心を得るために懸命に生きて、安心の実態を得たいのである。私達がキリスト者であると言うことは、その確実な安心のためであると言えよう。但し、必ず大金持ちになるとか、必ず病気にはならないという保証付きではない。それ以上に重要な「安心」の事実が約束されているのである。「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ヨハネ11・25)罪の赦しが伴い、地獄の刑罰が免除されている。そして何よりも新しい「安心の人生」が与えられるのである。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)神の子供とされ、神の御霊に導かれるので、確実な「安心」がある。このように、キリスト者は、この世の生において、神の御霊に導かれることが最重要なことなのだ。その結果、生活が祝福されるのである。では、何が両刃の剣となるのか?偉大な安心を与えられた私達が、神の御霊に導かれることよりも、自分の考えて求める安心に、導きを求める事だ。神は義の審判者として、その不従順を裁かれる。その人はかろうじて「・・・・自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」1コリ3・15)一方、神の御霊に導かれる人は天に宝を積むのである。 † 人を活かす両刃の剣。 両刃とは、私達の現在の「生と死」であると考えたい。今の生は、既に死を克服した「生」である。その実証は、私が生きているのに「死んでいる」という事実がなければ成り立たない。でなけれは、私達は口先の信仰を唱えているだけである。「自分が明確に死んでいる」事実を提示しない信仰は「死」の欠けた信仰ともなる。キリストも「死」があって「生(復活)」があった様に、キリスト信仰には、私が明確に死んだという奥義を実証すべきなのである。サタンはこの奥義の明確化を恐れている。キリストの命が、信仰に、教会に爆発的な力を現すからである。「私はキリストとともに十字架につけられました。・・」ガラテヤ2・20)同じように、私達は最大級の喜ばしい事実として「自らの死を」宣言する。父なる神は御子の死を最大に評価された。私達も十字架に自らを「つけている」なら、あなたと人生に神の生命が現される。これが生と死の両刃の奥義となるのである。
「両刃の剣を握る」(6)
「両刃の剣を握る」(6) † 楽あれば苦あり。 江戸のいろはかるたにある言葉で、苦あれば楽ありとも言われる。人生を言い当てた言葉として知られている。楽をする、と言う意味には「怠ける」と言うことも含まれていて、そのお返しとして「苦しみ(厳しい要求)」がやってくる事を警告している。パナソニックの創始者の松下幸之助は、家内工場から辛苦を糧として、努力に努力を重ねた。経営の神様とも言われるほどになった。その経営の土台は、従業員を家族として苦楽を共にする精神にある。苦労が多かったことが、楽を共有する事を理念とした。高度成長期に事業が繁栄した若き事業家が大勢いた。そのような楽な時に、次の時代に備えなかった者は、時代の波にのまれて破綻してしまった。景気が糸偏から金偏へ、今やデジタルとかハイテクと言うのだろうか?いずれにしても、人生には知恵が求められる。「知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ」箴言4・7)それは永遠に生きるための知恵である。持てる財産に執着し、永遠に生きられる知恵に盲目になるなら、永遠の苦も刈り取るのである。 † 神のみが知る人の未来。 戦争を仕掛け、近代兵器で都市を壊滅させ、当然ながら限りない人命を死に追いやった。人間が、自身の正当化を訴えて出来る仕業である。ローマ帝国時代後期に、カイザル(皇帝)を礼拝する法律を作り、これまでの宥和(ユウワ)政策の信教の自由を撤廃した。それによって、ロマ帝国内のキリスト者を、カイザルへの反逆者として、あらゆる方法で迫害し死に追いやった。こういった法律も非常に個人的な邪悪な心情によって作られるのである。大義名分のもとに、行動の理由ずけをし、根拠として大量殺戮も平然と行う。救い主キリストも裏切り行為によって捕らえられ、死刑を宣告される。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」マタイ26・24) このユダは極みまで神に愛された人だった。しかし、神の真実と正義に逆い、自分の立場を楯に暴虐を行う者は、神の 審きで地獄行きの罰を受ける。「そういう人は生まれなかった方が良かったのです」 そこに落着がある。