「らしく生きる」(6)

「らしく生きる」(6) † 試みられて知る。 最近、男性達との交わりで取り上げられた話題があった。主イエスの40日もの断食の後に、神がサタンの誘惑に会わせられた場面である。一人一人がそれが何を意味するのか考え、語り合ったのである。交わされた言葉すべてに意味があり有益であった。主イエスが全き大人として、またメシヤとしての資質を持つ者として試みられたことは言うまでも無い。私達の信仰もそうだが、試練を通して始めて本物であったか、それとも偽物であったかがわかる。逆境の時にこそ、信仰がどれ程のものかわかるのである。主イエスはサタンと対面したが、イエスの信仰を逐一(チクイチ)見つめられたのは父なる神であった。イエスは聖霊により聖なる力の行使が可能であったし、自らが神なのだから自分の意志を行う事もできた。しかし主は、父なる神への絶対依存を示された。また、サタンも承知の神の御言葉を用いて答えられた。主イエスはメシヤとして、ひとときも父なる神から独立しておられなかった。まさに信仰の創始者なのである。父なる神が「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」マタイ3・17)と言われたように、正真正銘の救い主なのである。 † 古い革袋にとどめる。 その人が古い、新しいという意味でのことではない。「・・私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3・14)主にある者は、常に新しい人なのである。古い革袋とは、醸熟(ジョウジュク)したプドウ酒にはふさわしいと言う事だ。新しい機能を導入出来ない機器も、古い革袋となる。使い古した道具は、新しい道具には及ばないが利用価値は残っている。「らしく」用いれば十分に役目を果たすことが出来る。過ぎさった歴史もまた、古い革袋のようである。しかし,その革袋の中には、今を判断し、今を学ぶべき全ての宝がつまっているのである。古い革袋を無視したり、むやみに切り裂くと、全ての善いものを失うことになる。新約聖書のために、旧約聖書がなくてはならないのと同じようである。

らしく生きる(5)

らしく生きる(5) † 四苦八苦する。 新しい物がすべて便利ならば、この上ない。しかしながら、その便利さに到達するまでに四苦八苦するのことが多い。自分の手に馴染むのに難しいものがあったり、仕様が複雑で時間を要することが続くと嫌になる。茶の木畑に入る、という言葉を聞いたことがある。茶の木は複雑な枝で絡み合っている事から、手がつけられないときの状況である。らしく生きると言う事は「らしくない」ことを解決しなくてはならないのだが、自分の中に問題があるので、らしくならない。私にはそういうことがある。ある人には、たやすいことが、私には四苦八苦することなのである。その事でようやくクリヤできる。この頃はクラウド(データやアプリケーション等のコンピューター資源をネットワーク経由で利用する)傾向になっている。日頃の使い慣れたプログラムを使うにも変わってきたと感じてしまう。ある人は便利になったと思うだろう。私の様に古い概念を新しい物にするには四苦八苦である。ようやく、らしくなれるのだ。 † 日進月歩してゆく。 日に日に進歩して行くならば、その成長は早いことになる。確かにそういう人がいる。うらやましいことだが、それだけの集中力があると言う事でもある。私達クリスチャンの特権は聖書を読み続けることによって、日々に真理に出会う事である。それが日々の発見であり、進歩なのである。問題は何かと言えば、園人の喜びとする優先順位である。聖書の真理以上に別の喜びが、その人にあるならば霊的進歩は相殺(ソウサイ)されるのである。真理の喜びが優先され、大きくならないと、実際的な霊的進歩がついて来ないと思うからである。朝はあわただしく、主との時間を持つ事は難しいかも知れない。私達には、決めなければならない事がある。主イエスに在る喜びを増したい。という決意である。これがなければ、霊的な日進月歩は生みだす事は、なかなか難しいということである。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブル12・2)どのような生活の場面でも、主イエスから目を離さないでいること。そして、礼拝の解き明かしに聞く事。自らの聖書から神の御声を聞いて行く事である。霊的な日進月歩は起こる。

「らしく生きる」(4)

「らしく生きる」(4) † よそおい。 身だしなみのことで困ることがある。年令にふさわしい身なりを考える時に戸惑うのだ。店には溢れるばかりの衣類が売られているのだが、どれが適切か迷うわけである。シニア向けのコーナーに行って買えば良い事になるが、本当に自分に見合ったものかどうか自信が持てないのである。年なのに、年寄り臭いものは買いたくないし、やけに若向きでは、おかしいのでは思ってしまう。こういうわけで自分で買うことに躊躇するわけだ。高齢になってジーパンを普段にはくようになった。これは変革を意味する。なぜなら職業柄おかしいと思っていたからである。ある時、日本人牧師がジーパンで講壇に立つのを見て驚いた。ある教団では絶対に赦される事はないが、形式張らないカリスマ派の人々、我がビンヤードもその傾向を持つ。しかし、公式の礼拝では慎重に装いに気遣う必要がある。若い中高生や青年には形張らない装いが適切だと思える。しかし、心掛けたいことは、私の装いは単に自分のためではなく、隣人への敬意を表すものだと言う事である。これは古い考えであろうか?  † 思わぬ事がある。 全てを準備して臨む仕業点検は、どの職場にもあると思う。特に現場では重要である。道具の一つでも忘れていると、はかどりが大変遅れる。このように忘れてしまった、ということは「思わぬこと」なのである。思わぬ失敗が多々あって、今、失敗をしないようになっているのが実際である。思わぬ事というのは、落ち度なく準備し、点検して問題なく確認をして終えたのに、不合格と見なされたり、失格とされることだ。今までとは違った方法での検査によって、オリンピック日本女子選手が失格となった。同情を禁じ得ない。まさに青天の霹靂(ヘキレキ)であった。こういう意味では諦めがつかない。しかし、ここで我が主イエスに目を向けたい。何ら落ち度も罪も、汚れもない我が主イエスが、神の冒瀆者であり、罪人として決定づけられ、地上の裁きで十字架に追いやられた。一言も弁解されず、引かれ行く子羊のようであったという。この地上では、正しい行いをするクリスチャンに、中傷や悪口で批難されることが起こる。思わぬ事ではないのだ。私達は信仰と愛で祝福し打ち勝つのである。

「らしく生きる」(3)

「らしく生きる」(3) † オリジナル。  一口に「パン」といっても最近は独創的なもの、オリジナルなパンが人気である。その人しか作れない独自のパンという事だ。時間を掛けて研究し、苦労をおしまないで完成させたものである。さて、信仰は人のものを真似したり、盗んで自分のものにしょうとしても全く上手く行かない。要するに体験された福音が、オリジナルな信仰だからである。例えば、早々と聖書を読み通し、教理をマスターしたとしても信仰があるという保証ではない。知ったほどの体験が全く欠落しているのだ。霊的な体験は「身についた信仰」であり、表面的なものではない。サウロは復活のイエスを体験し、180度の生き方の転換をしたのである。主イエスがメシヤである事。旧約聖書の神の計画の実現を体験したのだ。使徒パウロの福音は「主と共に十字架に死んで一つにされた事」この世で生きる事は「神の子の信仰に在りて生くるなり」ガラテヤ2・20永井訳)のように「聖霊と一つにされている」という霊的体験を通して語り出しているのである。信仰を頭に置くのではなく、心に置かないと、30年、40年を無体験のままに過ぎてしまうことになる。  † うらやましいこと。 この年の年賀状で心に残った事がある。故郷の同窓生から「もう魚取りは止めた。川にはほとんど魚がいない」とあった。これほど「恨めしい」ことはない。彼と共に川は人生と共にあったものである。田舎に帰る楽しみは、子どもや孫達と川に行って、魚を釣り:、遊ぶことだった。川が川らしくない有様に驚きを隠せない。それほどに、山の中の川が汚染されているという事なのだ。身近な所に流れる木曽川でも同じ事で、今や夏になっても誰も釣りをしている人がいない。15年ほど前のことだが、浅瀬に行くと泥が舞い上がってきた。水質が悪くなったのた。誠に残念至極である。一方、長良川には河原に人々が群れて、川遊びがされて居る。魚も豊富で、いたる所で鮎釣りが出来る。まさに川は、このように生きているはずである。多くの魚を育んでいるはずである。故郷の川のこと、身近にある木曽川の事を思うと、うらやましい限りなのだ。教会だって形骸化すれば命を失う。どちらも人間の勝手が生みだすものである。