「らしく生きる」(4)

† よそおい。
 身だしなみのことで困ることがある。年令にふさわしい身なりを考える時に戸惑うのだ。店には溢れるばかりの衣類が売られているのだが、どれが適切か迷うわけである。シニア向けのコーナーに行って買えば良い事になるが、本当に自分に見合ったものかどうか自信が持てないのである。年なのに、年寄り臭いものは買いたくないし、やけに若向きでは、おかしいのでは思ってしまう。こういうわけで自分で買うことに躊躇するわけだ。高齢になってジーパンを普段にはくようになった。これは変革を意味する。なぜなら職業柄おかしいと思っていたからである。ある時、日本人牧師がジーパンで講壇に立つのを見て驚いた。ある教団では絶対に赦される事はないが、形式張らないカリスマ派の人々、我がビンヤードもその傾向を持つ。しかし、公式の礼拝では慎重に装いに気遣う必要がある。若い中高生や青年には形張らない装いが適切だと思える。しかし、心掛けたいことは、私の装いは単に自分のためではなく、隣人への敬意を表すものだと言う事である。これは古い考えであろうか?
 
† 思わぬ事がある。
全てを準備して臨む仕業点検は、どの職場にもあると思う。特に現場では重要である。道具の一つでも忘れていると、はかどりが大変遅れる。このように忘れてしまった、ということは「思わぬこと」なのである。思わぬ失敗が多々あって、今、失敗をしないようになっているのが実際である。思わぬ事というのは、落ち度なく準備し、点検して問題なく確認をして終えたのに、不合格と見なされたり、失格とされることだ。今までとは違った方法での検査によって、オリンピック日本女子選手が失格となった。同情を禁じ得ない。まさに青天の霹靂(ヘキレキ)であった。こういう意味では諦めがつかない。しかし、ここで我が主イエスに目を向けたい。何ら落ち度も罪も、汚れもない我が主イエスが、神の冒瀆者であり、罪人として決定づけられ、地上の裁きで十字架に追いやられた。一言も弁解されず、引かれ行く子羊のようであったという。この地上では、正しい行いをするクリスチャンに、中傷や悪口で批難されることが起こる。思わぬ事ではないのだ。私達は信仰と愛で祝福し打ち勝つのである。

「らしく生きる」(4)