「らしく生きる」(2) † ホームポジション。 身近な所にも重要な位置がある。毎日お世話になっているキーボードにも「F」と「J」にはホームポジションを示す突起物が設けられている。そこに常に左右の人さし指が位置するためである。その事を意識して文字を入力すると,全ての指を使ってスムーズに文字が入力出来るようになる。これが、あるべき「らしさ」なのである。親指シフトキーボードで、かな文字を打つけれども、ホームポジションに常に人さし指が戻ることが、全ての指を用いる秘訣になっている。私達はいつの間にか我流の打鍵をするように、ポジションを無視しても、なんとも思わないのである。この事が「らしさ」から遠のく事にも繋がるのだ。最も深い霊的生活を持てるのが、私達クリスチャンの特権である。しかし、ある人は自分たちの交わり(教会)に今、与えられている教えや霊的導きをポジションとしないで、自分の関心である、好ましさを求めて、さまようのである。教会的で霊的なポジションが自己流のなのである。次第に、はっきりと現れてくるのは、現実の交わりの中での自分の責務を離れて、勝手で「らしくない」霊性と秩序を持ち、危うさか起こってくる。クリスチャンならば、正しいホームポジションに帰ることで、「らしさ」を取り戻せる。 † 直せば戻る。 施設としての教会には、多くの機材や用品に加え、施設には多くの人々が出入りする。それは壊れるものが多く出ることである。私の出来る事は、建築に関しての修理、水道や衛生機器の修理、電気器具の修理や木製品の修理、その他である。直せる技能があることで、多大な出費を強いられない事もあった。このように物は直せるのである。人間の問題を治せるのは、造り主である神の能力と恵みであり、兄弟姉妹の愛と祈りである。いずれも具体的である事が共通している。人間は「らしい者」から、罪を犯し「らしくない者」になっている。しかし「神には出来る」マルコ10・27)生ける神として聖霊が私達と共にある。救われない罪人がいないように、神の深い愛のもとに癒やされない傷もなく、治らない心もないのだ。私達に出来るのは、徹底的な神への信頼である。御言葉への確信である。人の問題を、物のように直せる事をいうのではない。主イエスの復活の力を受けるならば、暗闇の心も霊も、光りに変わると言うのである。
「らしく生きる」(1)
「らしく生きる」(1) † クリスチャン以前に。 19才の時に宣教師に出会って、キリスト教会の交わりに加えられた。しかしそれまでに聖書を買い求めて読み始めていた。ガイドブックもなく、ひたすらに修養の書としていた。信じるならキリスト教だと人にも言っていた。「主婦の友」創設者の石川武美著「信仰雑話」を手元に置いて、信仰の一端を知ろうとしていた。なぜかというと、私の内に多くの弱さがあり、克服する必要があると思っていたからである。要するに「男らしくない」自らを鍛えたかったのである。未熟な19才の置かれた環境と、課せられた運命の桎梏(シッコク)に、もがいていたのである。たとえどのようであれ、後ろ指を指されるような男には成りたくなかったのである。今は牧師だが、あの時、一歩間違えば社会主義者になっていた可能性がある。人間の完全な自由と、人間の完全な権利こそ、男として追及すべき事柄であると思っていた。巷の淫蕩や放蕩は、自らを失うことになり、男らしくない思えた。「男」らしくある。ということは、信仰が有る無しに関係なく、良心に恥じない「らしさ」を生きて行きたい。 † ふさわしく在る。 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9・62)らしく生きる事は、ふさわしく生きる。と言う事である。ふさわしいとふさわしくない。らしいと、らしくないが、私につきまとっている。大局的には、上掲の主イエスの言葉が言い表している。神の国にふさわしいのは、うしろのもの(過去を、棄て去ったものを、以前の快楽を、家族愛との別かれ)を振り返らず、前に置かれている、与えられる栄光と祝福に向かって歩み続けるのである。手にある鋤(鋭い御言葉)で現在を新にしてゆく事である。この事で神の国にある喜びと感謝が溢れてくる。「信仰によって前に進んでいる」この「絵」状況が、私達にふさわしい。クリスチャンらしい幸いな進行形である。この人は従順なので、神の国の奉仕が出来る人で、イエスの弟子と言われる人になる。神の国にふさわしい、らしい人には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)が注がれる。
「歩み出すとき」(7)
「歩み出すとき」(7) † 期待と希望に向かう。 一月も中ばを迎えた。多くの人の歩み出しを聞いたが、特別な歩み出しをしていない人もいるようである。確かに、振り返ってみれば、毎年同じように生きており、決心したことも、日常の事柄に流される経験をしてまうからだろう。三日坊主に終わることを恐れることもあるかも知れない。しかしながら、神を信じる者にとって、期待し希望することは信仰の生命線である。そこには、私という実在が神と係わっているのだから、自分から神と係わらせることが信仰となる。神がして下さるのは、私の信仰があってのことである。この意味で誓願を立てること、嘆願することが年の初めに相応(フサワ)しい。強い教会、力のある教会とは当然、信仰のある教会である。即ち、人としてのクリスチャンが神に願いを持ち、期待し希望している多さと、大きさに現れる。教会の安定期とは信仰がなくても、組織的に事が運び安泰で、成るように成る事である。信仰の停滞期となる。神に期待し祈るよりは、自分の事柄に向かうようになり霊的な衰退が起こる。その回避のため、信仰の刷新を目指そう。 † 一人の救いのために。 私達の教会は「一人の救いのために何でもする」という宣教理念で動いている。そして「人にはできないが神には出来る」マルコ10・27口語訳)という神信頼である。何でもするという人の在り方と、神には出来るという信頼が、同時進行していることを忘れない事だ。可児福音教会の生命線は、当事者である会員の信仰の内容に置かれる。神には何でも出来る事は、ゼロから起こされた、私達の教会の歴史に証明されている。また、聖霊の力ある不思議と徴を通しても証明されている。今までは良いとして、これからも、同じ信仰を継承できるならば、私達と共に聖霊が伴い、神の「何でも出来る」御業が起こされるのである。それを呼び込むのは「一人の救いのために何でもする」という動的な信仰の行いである。このために前に向かって行くならば、この地域における、宣教による神の国はもっと強くなり、大きくなる。ヨシュアとカレブのような戦士となって叫ぶことだ「主が私たちとともにおられるのだ・・・・恐れてはならない」民14・9)私達の目を主イエスに注ぎ、愛と真実を握って、立ち上がろう。
「歩み出すとき」(6)
「歩み出すとき」(6) † 本物に向かって。 偽物が本物になれる道があるのか?例えば人工ダイヤモンドは本物になれる過程(プロセス)があるのか?可能性をいまだ聞いたことがない。取り上げたいのは、そういった元素的な違いではなく、努力や精進によって、未熟なものが熟達する過程である。この意味での人間は得意分野としている。プロフェショナル(能力が高く、技に優れ、その仕事に確かさがある)要するに本物(プロ) になれる。とても喜ばしいことで、人生の醍醐味でもある。中には人間国宝とさえ言われる超人も生まれる。人間である限り偽物はいない。本物から見れば未熟なだけである。今年の大きな喜びは、未熟さから本物になる事を目指せることである。私達クリスチャンの確信は100年前も今も、2000年前も今も、信仰の世界、霊的世界は何ら変わらない、時代が進んで、多くの信仰の証人が増えたことであり、聖書の真理がより良く解明されていることである。今が最も幸いな時代なのである。それなのに未熟な信仰のままでは、主なる神に申し開きができない。成熟し本物に成ってキリストの香りがただようような者に、向かって行きたいのである。 † 一つである。 「しかし、必要なことは一つだけです。・・」ルカ10:42)人間が生きるためには余りにも多くの必要があるのに、主イエスは「一つだけ」と言われた。これを極めることが私達人間の重要な課題である。主イエスは永遠の価値において言われたし、神としても「一つだ」と言われたのである。「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました」1コリ13:11)思春期になり、壮年になっても、世の執着が支配するとしたら、主イエスとは異なる考えに支配されているのだ。物語を語って説明することと、主イエスの「必要な一つ」に実存して生きる事とは、雲泥の差がある。宗教的な生き方をするのでなく、御言葉の真理に這入(ハイ)り込んで生きてゆくことが、必要な「一つ」なのである。そういった模範者が教会には必要である。私の若く未熟な時に、信仰に熟達した模範者が居られて教えられた。これを誰かに期待するのではなく、自らが、主イエスの言われた「必要な一つ」を喜び、楽しんで歩む事である。
「歩み出すとき」(5)
「歩み出すとき」(5) † 新に歩みだす時。新年の喜びは期待に心が弾んでいる。「新しい」ことを全てに適用できる幸いがあるからだ。第一に、新しい主なる神のお導きが始まった。なによりも期待して間違いのない祝福があるからだ。第二は、私の志を主なる神が、新に実現させて下さることだ。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2・13)私達の中に生き続ける「志」が、新に実現されて行くのである。それは、家族の救いではないか?親しい隣人の回心への導きではないか?私達がクリスチャンとして、この「志」が新に掲げられるのである。まず、この年の初めに、最も大切だと、指し示す御言葉に従う「志」を強くしたい。第三に、さらに新に、恵みと祝福に成長しょう。私達は日々に新しくされて行く特権を持っている。停滞して留まると「死海」のように命を失う。そう成らないために「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求め・・・・」1ペテ2・2)新に、私達は霊的な命を豊かにし、神の恵みと祝福の一年とされるのである。 † 信頼を捨て去らない。 信仰とは「信頼する事」に他ならない。サタンは神の存在を明確に信じているが、神を信頼してはいない。神を信じていても「信頼していない」という現実を恐れる。私達が人間である限り起こりうるのである。自分でできること、即ち、習熟して持っている能力は、自然にできる力である。世の中は一人一人の能力によって集合された世界である。飛行機に乗るのも恐れず、自分で車を運転するのも恐れない。これは無意識のうちに自然で、信じなくてもできている。神に在るという私達は、神に依存しているということである。私達は全ての事を、主の御名を通して行う。危険でもなく普通の事柄でも、主の御名を通してする。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」1コリ10・31)神を信頼する人は、当たり前で自然のことでも、主の御名を崇めて行うのである。その習慣ができると、未知の事柄にも、想定外のことにも、自分の力量に勝る事柄にも、神への信頼を持って前進できる。神への信頼を決して捨てない人となる。