「歩み出すとき」(7)

† 期待と希望に向かう。
 一月も中ばを迎えた。多くの人の歩み出しを聞いたが、特別な歩み出しをしていない人もいるようである。確かに、振り返ってみれば、毎年同じように生きており、決心したことも、日常の事柄に流される経験をしてまうからだろう。三日坊主に終わることを恐れることもあるかも知れない。しかしながら、神を信じる者にとって、期待し希望することは信仰の生命線である。そこには、私という実在が神と係わっているのだから、自分から神と係わらせることが信仰となる。神がして下さるのは、私の信仰があってのことである。この意味で誓願を立てること、嘆願することが年の初めに相応(フサワ)しい。強い教会、力のある教会とは当然、信仰のある教会である。即ち、人としてのクリスチャンが神に願いを持ち、期待し希望している多さと、大きさに現れる。教会の安定期とは信仰がなくても、組織的に事が運び安泰で、成るように成る事である。信仰の停滞期となる。神に期待し祈るよりは、自分の事柄に向かうようになり霊的な衰退が起こる。その回避のため、信仰の刷新を目指そう。

† 一人の救いのために。
 私達の教会は「一人の救いのために何でもする」という宣教理念で動いている。そして「人にはできないが神には出来る」マルコ10・27口語訳)という神信頼である。何でもするという人の在り方と、神には出来るという信頼が、同時進行していることを忘れない事だ。可児福音教会の生命線は、当事者である会員の信仰の内容に置かれる。神には何でも出来る事は、ゼロから起こされた、私達の教会の歴史に証明されている。また、聖霊の力ある不思議と徴を通しても証明されている。今までは良いとして、これからも、同じ信仰を継承できるならば、私達と共に聖霊が伴い、神の「何でも出来る」御業が起こされるのである。それを呼び込むのは「一人の救いのために何でもする」という動的な信仰の行いである。このために前に向かって行くならば、この地域における、宣教による神の国はもっと強くなり、大きくなる。ヨシュアとカレブのような戦士となって叫ぶことだ「主が私たちとともにおられるのだ・・・・恐れてはならない」民14・9)私達の目を主イエスに注ぎ、愛と真実を握って、立ち上がろう。

「歩み出すとき」(7)