「らしく生きる」(1)

† クリスチャン以前に。
 19才の時に宣教師に出会って、キリスト教会の交わりに加えられた。しかしそれまでに聖書を買い求めて読み始めていた。ガイドブックもなく、ひたすらに修養の書としていた。信じるならキリスト教だと人にも言っていた。「主婦の友」創設者の石川武美著「信仰雑話」を手元に置いて、信仰の一端を知ろうとしていた。なぜかというと、私の内に多くの弱さがあり、克服する必要があると思っていたからである。要するに「男らしくない」自らを鍛えたかったのである。未熟な19才の置かれた環境と、課せられた運命の桎梏(シッコク)に、もがいていたのである。たとえどのようであれ、後ろ指を指されるような男には成りたくなかったのである。今は牧師だが、あの時、一歩間違えば社会主義者になっていた可能性がある。人間の完全な自由と、人間の完全な権利こそ、男として追及すべき事柄であると思っていた。巷の淫蕩や放蕩は、自らを失うことになり、男らしくない思えた。「男」らしくある。ということは、信仰が有る無しに関係なく、良心に恥じない「らしさ」を生きて行きたい。

 † ふさわしく在る。
 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9・62)らしく生きる事は、ふさわしく生きる。と言う事である。ふさわしいとふさわしくない。らしいと、らしくないが、私につきまとっている。
大局的には、上掲の主イエスの言葉が言い表している。神の国にふさわしいのは、うしろのもの(過去を、棄て去ったものを、以前の快楽を、家族愛との別かれ)を振り返らず、前に置かれている、与えられる栄光と祝福に向かって歩み続けるのである。手にある鋤(鋭い御言葉)で現在を新にしてゆく事である。この事で神の国にある喜びと感謝が溢れてくる。「信仰によって前に進んでいる」この「絵」状況が、私達にふさわしい。クリスチャンらしい幸いな進行形である。この人は従順なので、神の国の奉仕が出来る人で、イエスの弟子と言われる人になる。神の国にふさわしい、らしい人には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」2テモテ1・7)が注がれる。

「らしく生きる」(1)