「不動の錨により頼む」(5)

「不動の錨により頼む」(5)  † 見えない錨。 聖書で語られている「錨」は、船の錨のような不動のものだが、目に見えるものではない。その理由が書かれている「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」2コリ4・18)人間は、その命と、その人生に、一時的なものを不動の錨としてはならない。しかしながら、この世では、「不動の錨」とは、見える財産、通帳の金額、金庫の株券や金塊ではないか?聖書は、それが一時的で失われるものだから、執着すると、人生という船はバランスを失い沈没すると言う。聖書はさらに「・・・・私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)神は「無」から「有」を呼びだされた。私達の生活で、富が錨のように見えるのだが、神は空の鳥を養われるように、私達の生活の必要を知り、備え、与えられるのだ。見えないが真実の不動の錨は、神の御言葉と御業を信頼することが不動の錨なのである。(マタイ6・33)  † 救い主イエスの信仰。 著名なスボルジョンが記している「私の信仰も私自身にはなく、キリストがどんな方であって、どんな事をなさり、また現在私のために何をなさっておられるかにある」(朝ごとに)使徒パウロも「[されど]人はイエス・キリストの信仰によりてにあらざれば、掟(オキテ)の行(ワザ)にて義とせられざることを知り、・・・・キリストの信仰にて我らの義とせらるるためなり。(永井訳)」ガラテヤ2・16)大方の聖書は「キリストの信仰(主格的属格)」を「キリストを信じる(目的的属格)」としている。信仰が義とする(私が神に受け入れられる義人になる)その信仰は「私自身にはない」即ち、主イエス・キリストの信仰である。私達は「キリストの信仰を信じる」ことが「不動の錨」となる。キリストの信仰が、私の中身になる事が重要である。キリストを信じる事が「目的」であると、罪の赦しと信仰義認が中心課題となる。しかし「キリストの信仰を信じる信仰」は、私達をキリストと質的に同じ内容にする。聖さ、品性、従順、キリストの持たれた力と権威にも預かる者に成長する。これが世に打ち勝つ信仰である。

「不動の錨により頼む」(4)

「不動の錨により頼む」(4)  † 人間の知恵と賢さ。 単純明快であると言うことは、愚かさを意味しているようにも取れる。賢さとは、重層的な複雑さにあるように思いこむ。単純である事をさけるのは、本当の賢さなのだろうか? なるほど、余りにも単純明快な小説では、面白くないと言われるだろう。ここでは賢さは重くて複雑である事なのだ。単純明快である事は、思慮に欠けている事を表すのだろうか?「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」マタイ11・25)これは、すごく面白い言葉である「賢い者や知恵のある者」と「幼子」が対比されている。これは今日でも同じではないか? とすれば、この世で賢くなり、知恵に富んで、いかにも重々しい人が、盲目にもなるのである。神の真理は、幼子のように単純明快に信じてる人に、明らかにされるのである。不動の錨とは、単純明快に信じた人の中に、主なる神が据えられるのである。年季(ネンキ)が積まれた賢さや知恵が深く重くても、それは不動の錨とはならないと言う事を、主は言われているのである。  † 信じる根拠。 使徒達は、聖書を私達に伝え書くときに、常にイメージしていたことがある。それは私達一人一人が、神の御前に立つ時の有様である。私の本当の終末は「死」ではなくて「神の御前で」評価を受ける時である。聖書は、そのため信仰に生きる道を教える。御言葉は、このように「終末(論)」の立場から語りかけているのである。ゆえに教会の使命と、宣教の在り方が確立してくる。所が、悪魔はそれを邪魔をする。私達に「世に在って幸いであること」の信仰を求めさせる。なぜならば、その様な教会と信仰は、この世の事柄と生活に置かれるので「神の国」を築けないからだ。私達の信仰が「神の御前に立つ」終末的であるならば、使徒的な信仰が教会となり、コロナ時代にも、神の国は力強く前進する。不動の錨の力は、悪魔の支配するこの世の誘惑と試練に対して、戦う私達の中に真価を現す。揺るがされることがなく、私達は神の御心を行い、主イエスの復活の福音を喜び、聖霊のお働きを、私達の交わりの中に見るのである。

「不動の錨により頼む」(3)

「不動の錨により頼む」(3)  † 畏れを知ること。 「恐れる」とは危険を感じ、不安を感じる。恐怖心を感じる時に恐れることである。誰しもが体験してきたことである。もう一つの「畏れる」は、近付きがたい畏敬の思いで「かしこむ(恐れる)」ことである。私達クリスチャンは、神を畏れる人種なのである。・・・ある信徒が語ったことであるが、旧約の神は罪に対して厳しく、罰を持って報いられる恐ろしい神だ。新約の神は、罰する罪を赦される、優しい神だ。なるほど当を得ている。しかし、この発言の中にあるのは「恐れ」である。愛が恐れを取り除いた如くであるが、私達は、これほどに愛を注がれる神を、近付きがたい神として畏れる。そうでなければ、まともな信仰生活は出来ないのである。主イエスに対しては、私の救い主であるが、身近な友達のように受け入れて愛している。「気さくなイエス様」なのである。恐れの対象では全くない。・・・救い主(メシヤ)に対して「畏れる」こともなく信じており、愛している。この安易なキリスト教(福音主義)は、神を畏れるという重み(錨)を失っている。ゆえに魂も軽い。主イエスへの真実な畏敬を回復するには、静まって自ら、思い巡らす必要がある。「神を捨て人になる」とは、・・・畏れかしこまなければ、見えない世界である。  † 告白と宣言。 どの国も法律を持って国事を行っている。自らの国は法律の文言の如くであると、宣言し告白しているわけである。この法律が要となり、国家は成り立ち安定する。ゆえに「不動の錨」となる。法律が機能しない国と社会は、暗黒に包まれる。クリスチャンであると言うことは「聖書を読む、礼拝を守る、祈る、献金する、証詞をすること」などで正当性を表している。しかし、それだけで安心してはならない。あなたの人生(信仰生活)の使命宣言を明確にし、明記することである。自分に対し、世に対し、悪魔に対しての、自分のミッション(使命)を明記し、神に捧げるのである。自らの成長に応じて、使命宣言はさらに書き換えられ、キリストの身丈に近付くのである。洗礼を受けていても、この宣言文が書けない事に気が付く、「私を、私にする」それは、自分の宣言である「使命宣言(ミッション・ステートメント)」を書くことだ。それによって、信仰を表明し確かな、揺るぎない魂の錨を、人生の中に持つようになるのである。

「不動の錨により頼む」(2)

「不動の錨により頼む」(2) † 人は錨となり得るか? 親しい未信者の方が、自分が好きな音楽CDを貸して下さる。古関裕而全集を始め、美空ひばり、小椋佳始め、自分が応援している新進の歌手達も含まれる。それに二枚組の歌謡曲全集も多々あり、何百曲にも及ぶ。子供時代はラジオから放送され(当時は蓄音機もない時代)耳で憶えて歌が親しまれた。戦後は、朗らかで明るい調子が多く、今も心に染みこんでいて歌えるのが驚き。現代の多くの歌の中心には慕うべき人がいて、その心の思いに命を掛ける。と言うような熱愛が人々の共感を呼ぶ。人は人との関係で生きるのだから真理なのである。人は純粋に愛する(Platonic love[プラトニクラブ])肉体的要求を離れた精神的な恋愛が出来る。お借りしたCDの中に「愛と死をみつめて」があった。実際の物語があって、本にも映画にもなった。その歌詞に「まこ・・元気になれずごめんネ。みこは・・もっと生きたかったの、たとえこの身は召されても、二人の愛は永遠に咲く・・みこの生命を・・生きて・・まこ」涙に誘われるが、それ以上に愛の絆が強く重く迫る。人の心の潔さ、人の真の愛は錨のように重いのだ。   † 失敗から学ぶ。 不動の錨の意味するところは、揺るぎない真理を指している。そして、真理を会得するには、自らの失敗はもとより、世の中の出来事に見る失態、聖書に記されている人々の失敗から学ぶ事だろう。十戒を見れば「・・・・ならない。」と否定的に言われていることを、踏みにじるところに失敗がある。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4・1)信仰生活を長年おくっていても、欲望の力が、真理である神の義を踏みにじるのである。欲しがる心、むさぼる心が、義人をも神の審きに向かわせるのである。日常の生活の場は、欲望が赤裸々に現れる。しかし、あなたは不動の錨のようであれ。人がたとえ不義な欲望で動くにしても、動かされることのない、神の義を畏れ、主の在り方に従うのである。多くの人々が、最後に陥るのは、神の義(真理)を錨とせず、欲望の誘惑に心をゆずっためである。聞くこと、見るものに気をつけ「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」 箴 4・23