「不動の錨により頼む」(2)

† 人は錨となり得るか?
 親しい未信者の方が、自分が好きな音楽CDを貸して下さる。古関裕而全集を始め、美空ひばり、小椋佳始め、自分が応援している新進の歌手達も含まれる。それに二枚組の歌謡曲全集も多々あり、何百曲にも及ぶ。子供時代はラジオから放送され(当時は蓄音機もない時代)耳で憶えて歌が親しまれた。戦後は、朗らかで明るい調子が多く、今も心に染みこんでいて歌えるのが驚き。現代の多くの歌の中心には慕うべき人がいて、その心の思いに命を掛ける。と言うような熱愛が人々の共感を呼ぶ。人は人との関係で生きるのだから真理なのである。人は純粋に愛する(Platonic love[プラトニクラブ])肉体的要求を離れた精神的な恋愛が出来る。お借りしたCDの中に「愛と死をみつめて」があった。実際の物語があって、本にも映画にもなった。その歌詞に「まこ・・元気になれずごめんネ。みこは・・もっと生きたかったの、たとえこの身は召されても、二人の愛は永遠に咲く・・みこの生命を・・生きて・・まこ」涙に誘われるが、それ以上に愛の絆が強く重く迫る。人の心の潔さ、人の真の愛は錨のように重いのだ。

 

† 失敗から学ぶ。
 不動の錨の意味するところは、揺るぎない真理を指している。そして、真理を会得するには、自らの失敗はもとより、世の中の出来事に見る失態、聖書に記されている人々の失敗から学ぶ事だろう。
十戒を見れば「・・・・ならない。」と否定的に言われていることを、踏みにじるところに失敗がある。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4・1)信仰生活を長年おくっていても、欲望の力が、真理である神の義を踏みにじるのである。欲しがる心、むさぼる心が、義人をも神の審きに向かわせるのである。日常の生活の場は、欲望が赤裸々に現れる。しかし、あなたは不動の錨のようであれ。人がたとえ不義な欲望で動くにしても、動かされることのない、神の義を畏れ、主の在り方に従うのである。多くの人々が、最後に陥るのは、神の義(真理)を錨とせず、欲望の誘惑に心をゆずっためである。聞くこと、見るものに気をつけ「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」 箴 4・23

「不動の錨により頼む」(2)