「不動の錨により頼む」(3)

 † 畏れを知ること。
 「恐れる」とは危険を感じ、不安を感じる。恐怖心を感じる時に恐れることである。誰しもが体験してきたことである。もう一つの「畏れる」は、近付きがたい畏敬の思いで「かしこむ(恐れる)」ことである。私達クリスチャンは、神を畏れる人種なのである。・・・ある信徒が語ったことであるが、旧約の神は罪に対して厳しく、罰を持って報いられる恐ろしい神だ。新約の神は、罰する罪を赦される、優しい神だ。なるほど当を得ている。しかし、この発言の中にあるのは「恐れ」である。愛が恐れを取り除いた如くであるが、私達は、これほどに愛を注がれる神を、近付きがたい神として畏れる。そうでなければ、まともな信仰生活は出来ないのである。主イエスに対しては、私の救い主であるが、身近な友達のように受け入れて愛している。「気さくなイエス様」なのである。恐れの対象では全くない。・・・救い主(メシヤ)に対して「畏れる」こともなく信じており、愛している。この安易なキリスト教(福音主義)は、神を畏れるという重み(錨)を失っている。ゆえに魂も軽い。主イエスへの真実な畏敬を回復するには、静まって自ら、思い巡らす必要がある。「神を捨て人になる」とは、・・・畏れかしこまなければ、見えない世界である。

 † 告白と宣言。
 どの国も法律を持って国事を行っている。自らの国は法律の文言の如くであると、宣言し告白しているわけである。この法律が要となり、国家は成り立ち安定する。ゆえに「不動の錨」となる。法律が機能しない国と社会は、暗黒に包まれる。クリスチャンであると言うことは「聖書を読む、礼拝を守る、祈る、献金する、証詞をすること」などで正当性を表している。しかし、それだけで安心してはならない。あなたの人生(信仰生活)の使命宣言を明確にし、明記することである。自分に対し、世に対し、悪魔に対しての、自分のミッション(使命)を明記し、神に捧げるのである。自らの成長に応じて、使命宣言はさらに書き換えられ、キリストの身丈に近付くのである。洗礼を受けていても、この宣言文が書けない事に気が付く、「私を、私にする」それは、自分の宣言である「使命宣言(ミッション・ステートメント)」を書くことだ。それによって、信仰を表明し確かな、揺るぎない魂の錨を、人生の中に持つようになるのである。

「不動の錨により頼む」(3)