「不動の錨により頼む」(1)

「不動の錨により頼む」(1) † 安定させる力。 台風シーズン到来と共に、いつも思い浮かべることがある。荒れ狂う海と、船のことである。小舟は港にロープで係留される。大きな船は沖に出て錨を降ろし、暴風や波に流されないようにする。紀元前に鉄製の錨が既に作られていたと聞く。聖書には、使徒パウロの乗る、ローマ行きの船が嵐に遭遇し、14日間なにも食べずに276人が嵐に翻弄された。その後にパウロの勧めで、全員が食事を摂ったとある。この記事の中で「四つの錨を投げおろし、夜の明けるのを待った」使徒27・29)事が書かれている。そして「錨を切って、海に捨て、」40)風に任せて、砂浜に向かったが座礁したこと。激しい波に打たれ、船尾が破れ始めた事。兵士達は、囚人達が逃げないため皆殺しを相談した事。しかし、百人隊長はあくまでもパウロを助けようと思い、その計画を抑えて、全員が陸に上がるようにした事。まさに、神のお告げ通り全員がマルタ島に上陸した。この島でのパウロの宣教は神の御力を通して、酋長を始め島民から尊敬を受ける事となった。この一連の物語の中で「錨」も、大きな役割を担っていたのである。   † 魂の錨とは。 「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです」ヘブル6・17)約束の相続者とは、私達クリスチャンのことであり、私達への計画とは、既に救われている私達の希望が、悉く完成され実現されることだ。主なる神には、ご自身以上の者が誰もいないので、ご自身に誓って確実である事を保証された。神ご自身は偽る事が出来ないので、私達の希望は「・・・・私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」ヘブル6・19)主なる神が、私達の希望の保証人であり「安全で確かな錨」として、永遠に不動の希望とされた。では錨はどこにあるのか?「幕の内側」とある。天の聖所に繋がれている。魂は「船」であり「海」は現世の人生である。信仰者は荒波と風に放浪されるように見えるが、神に祝福された現実は「錨」で、天に固定されている。私達クリスチャンは「天の聖所」が真の現実であることを宣言する。地上に造られた聖所は、私達への「型」としてあるのである。 

緊急事態宣言の発令に伴って

緊急事態宣言の発令に伴って 岐阜県に緊急事態宣言が発令されたことに伴い、当教会で以下の対策を行います。 対策期間は緊急事態宣言の解除までとします。 ①礼拝中はワーシップ中以外の時間も常時換気するドアをつくります。 ②席数は新館は今までより数を減らし、旧会堂、新館一階も使用します。 ③ワーシップの時間短縮に伴って大声でのワーシップを控えます。 ④飲食を伴う教会活動(礼拝、セル、ミーティングなど)はしない。活動の合間に食事などを挟まなくてはいけない場合は、席を離し各自で用意して黙食をします。会話はマスク着用を徹底します。 ⑤中高生は、午後14:15〜のアウトリーチの時間を礼拝の時間とし、午前の礼拝への参加はしません。 ⑥オンライン礼拝の実施は継続します。 ⑦ご家族の中に、学校、職場などで濃厚接触者として検査対象となった場合は、本人、ご家族の皆さんは検査結果が出るまでは教会の来会を控えます。

「霊的センスと生活」(7)

「霊的センスと生活」(7)  † センスとエッセンス。 エッセンス、英語の《essence》は本質、最も大切な要素の「精髄」「本質的なもの」を意味する。センスは、感覚や感性のこと、才能と似た意味でもある。もう一つエッセンスは「霊的実在」「神髄」という意味を持っている。私の霊的エッセンスは、今になって使徒達の言葉(教え)であると思うようになった。その他にいろいろな霊的エッセンスというものがあると思う。神(イエス)の御声である。とか、祈りの中での悟りとか、聖霊の導きであるとか、預言の言葉とか、その他に多くがあると思われる。しかし、私は使徒達の言葉(教え)に、今まで知らないでいた、霊的エッセンスを感じるのである。基本の基本のような、当たり前に過ぎないが、やはり主イエスと寝食を共にし、主の言葉と御業の目撃者の言葉(教え)は私達に一番力強い、そして直接的な証言である。また、最も力強い聖霊の油注ぎを受けた使徒達の聖書理解は、現代の神学者を凌駕している。私は、霊的センスを身につけるべく、使徒達の教えをエッセンスとして、使徒達の信仰の確信と、喜びと希望を共有したいと思っている。  † 混迷の時代のセンス。 今がとても幸いだと感じる人は、このまま変わず続いてゆくと思いやすい。しかし、有頂天になっていたり、感覚が麻痺していると、取り返しのつかない逆転を招く。イソップ物語の「蟻とキリギリス」は、まさにそれである。「勝って兜の緒を締める」こそが重要である。私達は漠然と、世界に期待している事がある。それは、この世界は「末広がり」に良いことが待ち構えている。と、しかし問いただされるべきは「その根拠はなにか」と言う事である。冬に備える蟻のように、備えるセンスが必要である。世界は、聖書の言う患難時代に突入している。この時代を勝ち抜くための武具を身につけたい「邪悪な日に際して・・神のすべての武具をとりなさい。・・しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。・・信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」エペソ6・13-17)混迷の世界ゆえに、神からの武具(知恵とセンス)を身に着けたい。

「霊的センスと生活」(6)

「霊的センスと生活」(6)  † 巧妙なメカニズム。 メカニズム(mechanism)は、「機械装置」「機構」「仕組み」を意味するとある。その上に巧妙となると、巧みな、工夫を施した、さらなるメカニズムとなる。その驚くべき姿としての人間(私)が居る事に気が着く。昨日、人間の筋肉の働きを、専門の大学教授を交えての特別編、それこそ最新のメカニズム解析機器を通して学ぶ事が出来た。私達が何気なく歩いているが、体内では情報伝達機能が働き、様々な筋肉が連動し、歩行を支えて居る事を知った。当たり前が、巧妙なメカニズムに支えられおり、知るほどに驚嘆した。次のように結論漬けがされた。人間は幸せを、労力なくして楽をする事に代えてきた。それは筋力を退化させ、人間の精神(心)の健康も弱めるものになった。世界的統計によれば、コロナ禍で運動量が極度に低下し、うつ病が劇的な増え方を示している。霊的な健康も肉体の中に宿るのである。クリスチャンも筋肉活動を増して、より健全な霊的持久力を保ち、健全な霊的センスを維持出来ることになる。    † 受容能力を養う。 受容体と言えば、私達の体内にあって、細胞外からのシグナル分子(神経伝達物質、ホルモン、・・・・)を選択的に受容するタンパク質で細胞内にある。これは私達の生命を守るための、ハイ・センスな働きである。しかし、私はそのように生かされていながら関与不能である。しかし、意識的、感覚的な世界に於ける、受容能力は自力のうちにあって、コントロール可能である。聖書では良く「頑(かたく)な心」 マルコ16・14)への厳しい主の譴責(ケンセキ)がある。頑なな心(魂)は、自分を閉ざし、自らの受容能力を無効にすることである。これを最も警戒することがクリスチャンに求められる。神はロバの口を持って頑ななバラムに語られた。民22・28)人は「私はこれにしか興味が無い」と言う。それも良いが、主なる神の御心は広い「兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」 ビリビ4・8) 受容能力は謙遜に伴う。年齢には関係ない。常に心が開かれている事が「センスを取り込む」のである。

「霊的センスと生活」(5)

霊的センスと生活(5)  † オリンピック。 2020オリンピックの最中である。これに触れない理由は無い。コロナ渦での開催、しかも無観客である。この開催には賛否両論が今も続く。会場に足を運べるにしても、全世界的に見れば極々一部の恵まれた人だけである。多くの人は日頃の勤務のためテレビも見る事が出来ない。しかし、メデイアの時代の今、充分にオリンピックを楽しめるているのではないか?・・・聖書は競技を取り上げる。ボクシング(1コリ9・26)マラソン(ヘブル12・1)日本男子体操では橋本選手が個人総合で金を、種目別の鉄棒でも金。男子総合で銀を獲得した。技が高い、安定力がある。これらは「センス」の良さである。日本の世界一選手が20人を上回った。厳しい環境の中、耐えながら、自らと戦った出場全ての選手を讃えたい。神の作品である人が、さらに全ての面で、神の似姿としてのセンスを磨き続けて欲しい。・・・・私達は霊的にはキリストの身丈までに達するセンスを身につけたい。求め続ければ、主は近づいて下さるに違いない。  † アイドリング・ストップ この度、大騒動になりかけたことがあった。私達夫婦の乗っている車のことである。前日に妻が前照灯をつけたまま放置、当然バッテリー切れとなった。コードを繋いでエンジンを始動し、少し乗り回してバッテリーを回復させた。問題は妻が出先で「エンジンが止まり、しかし、エンジンを始動出来るが、また止まる」とパニックになって電話をしてきた事である。エンジンが止まる、と言うことは大ごとだ。一応出先までワゴン車を走らせた。エンジンはすぐにかかったので、バッテリーではない。別に異音を発してはいない。なんだ?そして、すぐに思いついた。アイドリン・ストップ機能である。車が停止すると自動的にエンジンが止まる機能で、妻は全く無意識に車を運転していたということである。たまたまゴミ収集場で、エンジンを掛けたまま停車していて自動的にエンジンが停止したのだ。素晴らしい機能を「センス」に見立てると、人は無知のままなのに、優れたセンスが支えているのだ。神の真実(真理)の奥深い神の配慮と摂理が私達を守っている。しかしどれ程に私達は悟り得たのであろうか?知らないために感謝もせず、畏れも抱かず、崇めもしない、それなのに私は全てを知っているかの如く居るのである。

ハッピーサマー礼拝

ハッピーサマー礼拝 8月15日のハッピー礼拝は特別な礼拝になります。 高砂教会の牧師である小森康三先生を招いて、メッセージをしていただきます。 礼拝後には女性の方に特別なランチを用意しています。 子どもたちが楽しめるイベントを用意していますので、子持ちのお母さんも安心して参加できます。

「霊的センスと生活」(4)

「霊的センスと生活」(4) † 慣れの落とし穴。 バスに揺られて昼食会場に案内された。石段を登ると、眼下には太平洋が広がる眺めの良い場所だった。名物の海鮮料理が素晴らしい評判の食堂である。初めに案内人が中に入ろうとしたが、引き戸が50センチ位しかスライドしない、驚いて一人づつお入り下さいと、戸惑いながらの案内。私は力任せにギシギシと全開の90センチまで押し広げた。全員が席に着いてみると、なるほど盛りだくさんの海鮮料理が列べられていた。もう一つ驚いた、エアコンが全然効いていない。コロナのために南側の窓が開けてある。ならば扇風機ぐらいはあって欲しいのだが無い。しかもメインはシャブシャブで、これまた熱いわけである。多分、毎日訪れるお客さんは、この状態で食事をしていると言う事だ。提供する料理に力が注がれている。それはとても良いことだ。ただ、それ以外のことに、おもてなしの気配が感じられない。玄関の動かない引き戸や、食事会場の環境について、いつのまにか、気にもならない当たり前になり、慣れてしまっている。もう少しのセンスを利かせれば、格段にこの店は素晴らしくなると思う。私達も乱雑さになれると、それが当たり前となる。きれい好きのセンスがここでは眠ってしまうのである。  † センスを継続する。 夏休みになると、リズムが変わる。ひごろ我慢していたゲームに、はまりこんでしまい習慣を失うことにもなる。学生は日頃のルーティーンを変えなければならい。・・・・私達の霊的なセンス(霊性)を保ち続けるには、身体の健康を維持することと同じ原則が必要となる。健康には安全な食品による栄養バランスの利いた食事と、充分な睡眠、衛生管理、適切な運動が必要である。霊的センスが維持され、進化してゆくためには、食事に相当する、御言葉(いのちのパン)を良く読む事を通して、自ら黙想し実践する。心の清潔を守り、主イエスと同じように祈る事である。自分の信仰像となる、模範者に追随することで、霊的センスがさらに引き上げられるのである。この霊的健康のルーティーンは、古今東西変わることは無い。最重点は「霊」である。次に心(魂)となる。夏休みや職場の長い休暇にあっても、霊的なルーティ-ンが守られていれば、クリスチャンとしての全てが、祝福に守られる。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2