「霊的センスと生活」(3)

「霊的センスと生活」(3) † やり遂げるセンス。 聖書の中には、センスの良い人に倣えと(真似る)事を教えている。改めてセンスとは「感じ方、理解の仕方、表現の仕方」である。卓越した人柄(人格)には、洗煉されたセンスが溢れているのである。私のセンスは、自分には適していても、卓越性の無い、魅力に欠けるセンスなのである。センスの無さの第一は、自分のセンスが、いかほどか、わかっていないことである。その事に気付けば、理想の模範者を求める。松下幸之助がトーマス・エジソンを模範しあこがれた。新渡戸稲造はW・S・クラーク博士に感化され、勇躍、著名な人物になった。このように倣う事は、神の御心であり、私達も誰かの、何かの模範となるように求められているのである。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」1テモテ4・12)このようにキリストに生きる人ならば、優れたセンスを現しているのである。私達が神を畏れ、愛の行いを続けていくと「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」ピリ3・17)このように人生を飾りたい。 † 仕事の良さ。 初めは良いが終わりが悪い。要するに「仕上げ」が劣ることである。人は初めは意気込んでいるが、しばらくすると中だるみをし、終わりには意気込みを何も感じない。職場に於ける仕事ぶりはどうだろうか?結婚生活はどうだろうか?教会生活(信仰生活)はどうだろうか?続ける中に、徐々に成長し、仕上がりに向かって順調である事を祈りたい。「仕事ではなく遊びたい。それが人生だ」と言う人もいるのである。しかし、遊ぶためには潤沢な資金なくして遊べない。良い仕事を通して、その代償としてゆとり(遊び)がある。それが大方の生き方であるはずだ。「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」2テサ3・10)その働きには、その人のセンスが現れる。「感じ方、理解、表現の仕方」という内面が現れるのである。仕事を仕上げるとき、気持ちをそらすことなく、最後までを確実に行う事である。その人は霊的なセンスにも、高い同質性を持つのである。

「霊的センスと生活」(2)

「霊的センスと生活」(2) † どう在るべきなのか? 子供は子供らしく。青年は成年らしく。ということの中に、求められているもの(精神性)がある。社会が要請する「らしさ」人間の歴史から求められる「らしさ」や、家に伝わる格式に求められる「らしさ」があったりする。そういった中で、私達は神との出合いを体験した。聖書の神は、私の造り主であると信じて、神の無い私の存在はあり得ないことがわかった。神の「真理」を知らない私が、自分に依存するなら、絶望を生きることで、まさに「死に至る病」の中を生きる人間でしかなかったのである。神との出合いを通して、神との関係が生命となり「霊的センス」が生まれ、喜ばしく成長するのである。私達クリスチャンは、神の真理(真実)を通して「・・・・この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ヨハネ11・4)と、このキリストの信仰から、自らの人生に必要な霊的センスを見て学び、味わうのである。御子イエスの信仰の中に流れる、慈しみと愛こそは、言葉に現せない、霊的なセンスの根源であると、私は思っている。  †独りよがり。 これは「独善」でもある。「自分が良いと考えていることを、他人のことを考慮せずに、押し通そうとすること」これはまさにセンスに欠けたる所業である。人にはありがちなことで、良く目にしたり、耳にしたりしていることである。世の中は人の事より、自分の事を優先する事が得する事につながる。人は、自己意識に捕らわれると、一面的な独りよがりになるのである。自分が好ましいと思っていることに、全てを集約させる事は可能である。しかし、そのために重要な80%を棄て去る様な企ては、ひんしゅくを買うことだ。さて、教会は、人の集まり(交わり)であるが、つねに二つのものが鬩(セメ)ぎ合っている。真理に引き出される事を求め、霊的刷新に歩み出したい人と、自己の世界を堅持し、自己の刷新に関心がない人である。それぞれに霊のセンスがある。御言葉が開く新しい真理に、反応する霊的センサーで、驚きと喜びを持って真理に従う。一方は、自己の現実を肯定する霊的センサーで、自分の信仰理解以外の事には拒否的になる。神の思いよりも、自分の思いが重要だからである。

「霊的センスと生活」(1)

「霊的センスと生活」(1) † 吸収力。 私達はクリスチャンとして生きてゆく上で、求められる大事なものはセンスである。特に霊的なセンスのことである。センス(sense)とは「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの」と言われる。個人差はあるにしても「センスを磨く」とも言われるように、霊的なセンスも磨くことが出来て、成長させることが出来るものである。昆虫の触角のように、私達も霊的なセンサー(関心と敏感さ)を伸ばしておれば、多くを吸収できるのである。まず、聖書を開いて、アダムとエバから、これを惑わす悪魔から、悟ったことを心に留めつづける。悟りが留まっていれば霊的センスとなる。カインとアベルの行為から、感覚的に学んだ(悟った)事を、忘れないならば、礼拝に対するセンスを持つことになる。このように次々と聖書を通して、自らのセンスとして吸収出来る事は事実である。聞くという礼拝においても、神なる主が語り、望んでおられることを、自ら感じられたなら、感性の豊かさが魂に植えられているのである。センスの豊かさは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)という、恵みの豊かさを心に留めている事とも饗応している事も事実である。 † 神なる主への関心。 あなたは何に一番の関心がありますか? クリスチャンならば必ず、主イエス様です。とか、主なる神様です。とか、聖書です。とか、キリスト教です。とか答えるのではないだろうか?人のことは神のみぞ知られる。世の常識は、その人の責任における自由という事だ。最上級の人生を考えたことがあるだろうか?私は、主イエスの復活を体験し、主のために死を厭わず、生涯を捧げたキリストの弟子達が最上級の人生を生きた人々だと信じる。主観的にも、客観的にも、この人々が実在したことによって、世界に人生の真実が明らかにされたのである。私は足元にも及ばないクリスチャンだが、最高のセンスは、十二使徒を初めとするキリストの弟子達の持ったセンスが最上級であると確信する。主イエスと父なる神への関心が、私達の人生に最重要ではないのか? その関心の強く、強烈ならばその人に与えられる霊的センスは、最も豊かになるのは必然である

「不遇と優遇」(7)

「不遇と優遇」(7) † 成長の目的。 先日、大勢の壮年との交わりの中で「最終的には、どのようにして信仰が成長するかです」と、最長老が締めくくって提言した。私はその答を求められたわけである。それで、正直に申し上げた「私の事を振り返れば竹の節を次々と超えて来たと言うような、明確な成長の行程を宣べることは出来ません」 と。「しかし明確に別っている事があります。それは、御言葉に応答し、悔い改めた人は成長します。どんなに信仰歴があり、教会で重んじられている人でも、悔い改めをしない人は成長しません。そのまま横ばいを続けているだけです」と、長老は深くうなづかれた。信仰の成長の目的は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペ4・15)そのためには、キリストにふさわしくない自らの全てを数え上げ、それを一つ一つ悔い改めてゆく事が、キリストの御姿になってゆく成長である。それを迂回して避ける人は、キリストの御目の外にあると思えば良い。胸を打ちたたいて、嘆きながら悔い改めに取り組む人は、キリストご自身が、ご自分に引き寄せられるのである。   † 優遇を確実にする。 今、生きている者が、神の創造世界のすばらしさを、十分に楽しみ味わいながら、なお、キリストの御顔を拝する御国に、旅立つことが望みである。と、言う人がいるなら、最も優遇されている人生を生きている人である。最も幸いな人生は、世を去る真実を含まなければ本物ではない。だから聖書は最高の願いを語る「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」ピリピ1・20)死を持って終わる自分自身を、そのまま、全ての終わりのように見たり、感じたりして、生きているだけの人(クリスチャン)は多い。一つは、時代の世俗的「地上天国」が謳歌(オウカ)」されているからだ。人生を、地上生活の豊かさに限定し、成功や楽しみの実現を求めている「イエスよ神ならば私達を富ませよ」と、神の必要に聞く信仰から、人の必要に答える神(偶像)とし求めている。だからこそ、私達は世俗の栄華を圧倒し「ちりあくた」ピリ3・8)とする神の栄光の福音に、自らを浸透させるのである。「神に近づきなさい」ヤコブ4・8)とは、真理の中に入る(歩む)ことである。太陽のように主イエスを見る事を、最大の優遇として望んでいる。