† やり遂げるセンス。
聖書の中には、センスの良い人に倣えと(真似る)事を教えている。
改めてセンスとは「感じ方、理解の仕方、表現の仕方」である。卓越した人柄(人格)には、洗煉されたセンスが溢れているのである。私のセンスは、自分には適していても、卓越性の無い、魅力に欠けるセンスなのである。センスの無さの第一は、自分のセンスが、いかほどか、わかっていないことである。その事に気付けば、理想の模範者を求める。松下幸之助がトーマス・エジソンを模範しあこがれた。新渡戸稲造はW・S・クラーク博士に感化され、勇躍、著名な人物になった。このように倣う事は、神の御心であり、私達も誰かの、何かの模範となるように求められているのである。「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい」1テモテ4・12)このようにキリストに生きる人ならば、優れたセンスを現しているのである。私達が神を畏れ、愛の行いを続けていくと「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい」ピリ3・17)このように人生を飾りたい。