† どう在るべきなのか?
子供は子供らしく。青年は成年らしく。ということの中に、求められているもの(精神性)がある。社会が要請する「らしさ」人間の歴史から求められる「らしさ」や、家に伝わる格式に求められる「らしさ」があったりする。そういった中で、私達は神との出合いを体験した。聖書の神は、私の造り主であると信じて、神の無い私の存在はあり得ないことがわかった。神の「真理」を知らない私が、自分に依存するなら、絶望を生きることで、まさに「死に至る病」の中を生きる人間でしかなかったのである。神との出合いを通して、神との関係が生命となり「霊的センス」が生まれ、喜ばしく成長するのである。私達クリスチャンは、神の真理(真実)を通して「・・・・この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ヨハネ11・4)と、このキリストの信仰から、自らの人生に必要な霊的センスを見て学び、味わうのである。御子イエスの信仰の中に流れる、慈しみと愛こそは、言葉に現せない、霊的なセンスの根源であると、私は思っている。