「不遇と優遇」(7)

† 成長の目的。

先日、大勢の壮年との交わりの中で「最終的には、どのようにして信仰が成長するかです」と、最長老が締めくくって提言した。私はその答を求められたわけである。それで、正直に申し上げた「私の事を振り返れば竹の節を次々と超えて来たと言うような、明確な成長の行程を宣べることは出来ません」 と。「しかし明確に別っている事があります。それは、御言葉に応答し、悔い改めた人は成長します。どんなに信仰歴があり、教会で重んじられている人でも、悔い改めをしない人は成長しません。そのまま横ばいを続けているだけです」と、長老は深くうなづかれた。信仰の成長の目的は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」エペ4・15)そのためには、キリストにふさわしくない自らの全てを数え上げ、それを一つ一つ悔い改めてゆく事が、キリストの御姿になってゆく成長である。それを迂回して避ける人は、キリストの御目の外にあると思えば良い。胸を打ちたたいて、嘆きながら悔い改めに取り組む人は、キリストご自身が、ご自分に引き寄せられるのである。

 

† 優遇を確実にする。

今、生きている者が、神の創造世界のすばらしさを、十分に楽しみ味わいながら、なお、キリストの御顔を拝する御国に、旅立つことが望みである。と、言う人がいるなら、最も優遇されている人生を生きている人である。最も幸いな人生は、世を去る真実を含まなければ本物ではない。だから聖書は最高の願いを語る「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」ピリピ1・20)死を持って終わる自分自身を、そのまま、全ての終わりのように見たり、感じたりして、生きているだけの人(クリスチャン)は多い。一つは、時代の世俗的「地上天国」が謳歌(オウカ)」されているからだ。人生を、地上生活の豊かさに限定し、成功や楽しみの実現を求めている「イエスよ神ならば私達を富ませよ」と、神の必要に聞く信仰から、人の必要に答える神(偶像)とし求めている。だからこそ、私達は世俗の栄華を圧倒し「ちりあくた」ピリ3・8)とする神の栄光の福音に、自らを浸透させるのである。「神に近づきなさい」ヤコブ4・8)とは、真理の中に入る(歩む)ことである。太陽のように主イエスを見る事を、最大の優遇として望んでいる。

「不遇と優遇」(7)