† 吸収力。
私達はクリスチャンとして生きてゆく上で、求められる大事なものはセンスである。特に霊的なセンスのことである。センス(sense)とは「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの」と言われる。個人差はあるにしても「センスを磨く」とも言われるように、霊的なセンスも磨くことが出来て、成長させることが出来るものである。昆虫の触角のように、私達も霊的なセンサー(関心と敏感さ)を伸ばしておれば、多くを吸収できるのである。まず、聖書を開いて、アダムとエバから、これを惑わす悪魔から、悟ったことを心に留めつづける。悟りが留まっていれば霊的センスとなる。カインとアベルの行為から、感覚的に学んだ(悟った)事を、忘れないならば、礼拝に対するセンスを持つことになる。このように次々と聖書を通して、自らのセンスとして吸収出来る事は事実である。聞くという礼拝においても、神なる主が語り、望んでおられることを、自ら感じられたなら、感性の豊かさが魂に植えられているのである。センスの豊かさは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)という、恵みの豊かさを心に留めている事とも饗応している事も事実である。