「不遇と優遇」(6)

「不遇と優遇」(6) † 真の後悔について。 「天路歴程」バニヤン著にある話だが、ある男が自分の道だと公言する天国への道を歩いていた。しかし、七つの悪霊が九つのひもで彼を縛り、彼を引き戻して地獄の裏門から彼を投げ入れた。その男は信仰を公言しており、良き信仰者と思われた。しかし、悪霊どもは隠れた偽善と背信を見遁さず、彼を捕らえたのである。こんなことが最後の「終わりの大いなる日」2ペテロ2・20)に、私が吟味され、暴露されてはならない。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。・・」2コリ13・5)信仰に立つとはどう言うことかを真剣に考えよう。私達が正しくあるべきは、自分を裁くときである。なぜならば、自分には寛大な裁きを下すからである。厳しく、真理の岩の上に家を建てているか確認しょう。曖昧な土台(砂の上)では、その倒れ方は壊滅的で最大の不遇を招くことだからである。救われた者の生涯とその生活は、神の御力と愛に支えられる勝利の歩みである。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」1ヨハネ5・4   † 優遇される道に立つ。 果たして、優遇される事が決まっているような生き方が本当にあるのだろうか?私達に即しての話である。信仰を得るまでの19年と、その後の60年を通して証明出来るのは、神の優遇である。聖書は人間の創造者である神が、全ての人の人生を握っている事を示している。神の優遇する人も聖書は公言する。アブラハムやその子孫であり、歴史の変わる度に、優遇に選ばれる者がいる。また、神の恵みと優遇が約束されているのは、神を恐れキリストの血による救いを信じるアベルの系列である。この世の世俗的な勢力の中に生きるカインの系列も現実である。 まず言える事は、私達はアベルの系列の中にいる事である。私達を優遇するために、神は私達に試練を与えて鍛え、優遇を受けるにふさわしい信仰を持たせようとされる。全き神への依存が出来るようになるためである。これが主なる神に優遇される道に立つことになる。主なる神は御子イエスと共に、私達に愛と聖霊を注いで平和の中に生かし、恵みと憐れみを惜しまれないのである。神に優遇される道に置かれていることを互いに喜ぼう。

「不遇と優遇」(5)

「不遇と優遇」(5) † 土の器に徹する。 世界に最大の影響力を及ぼした人物が、自らを「土の器」だというのである。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)古代においては高貴な宝飾物は土の器の上に載せられた。質素そのものと高価そのもののコントラストが強調された。極端に優遇されるもの、その反対におかれるのが土の器である。土の器は載せている宝をより際立たせる役目を担うわけである。同じ人間でも差別がある。王もおれば奴隷もいる。地上の王は支配するのに権力を用いる。使徒パウロは「測り知れない力が神のもの」であり、土の器である私達の中に「入れられている」と驚嘆している。なぜなら、世界を造り変える神の力であるからだ。私達は罪深さにおいて、聖なる神の御手で打ち砕かれ、火の中に放り込まれる価値なき「土の器」である。しかし、神の憐れみで、神の御子が十字架に私の身代わりに死なれた。今や私達(土の器)の中に御子イエスが住まわれ、いける水となって私達から流れ出ている。また、測り知れない力が「土の器」である私達から神の権威として、神の慈しみと憐れみとして現れるのである。   † 何を信じているか? 人は信じている事、確信していることによって生きている。私達クリスチャンは世俗世界の影響下で生きているのであって、信仰を酷(ヒド)く打ち叩かれる事もある。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」 1コリ10・12)要するに私達は、生ける神を信じ、約束を確信し、願っている事を生きる。倒れないためには、絶えずそのエネルギーを必要とする。善を継続し具体的に習慣化したことが本物になる。受身的な信仰で行為がないと、エネルギーを生みだす事が難しく不遇を来す。なぜなら信仰を前進させるための習慣(行為)が無いからである。救われる為には何の努力も求められない。しかし世俗的な力、肉の欲望、悪霊の誘惑には「神を信じ」確信にもとずく、絶えざる行為が「倒れない」事に繋がる。信仰が形骸化する原因の一つは、積極的で肯定的な信仰の宣言を失い、愛の業(行い)を忘れ、想像的な信仰で生活しているからではないか?

「不遇と優遇」(4)

† 自分を識る事。 夏の日差しの中を、虫が飛んでいる。夜には蛍が飛び、カブトムシさえも外灯に見られる。のどかな平和が感じられる。所が、ある人が見ていて気がついた。夜たき火をしていたら、火の中に虫が飛び込んでいた。「飛んで火に入る夏の虫」である。この虫たちは本能的な回避能力がなく、身を滅ぼす火の明かりの中に飛び込んでしまうのである。これは「自らを知らない」悲劇である。バビロンの王ベルシャツァルは、自分の大いなる権勢を誇り、傲慢にも主の神殿の器で、貴人から側女まで酒盛りを行った。すると、その場の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・バルシン」と文字が書かれた。王と、その場は恐怖に襲われた。ダニエルがその言葉を解き明かして言った。メネとは、あなたの治世を数えて終わらせられたこと。テケルとは、あなたが、はかりで量られて「目方の足りないことが解った」と言うことです。王としての器量が足りない。これがバビロン滅亡の原因である。私達も、自分が今の順境と優遇を作っていると思いやすい。しかし、主なる神のはかりに量られると「目方が足りない」とされる。これが最も不遇をもたらすのである。本当の自分を識っていない事にある。高慢を退けて、謙遜を身に纏う学びをしよう。 † 地上は神の御国。 賛美歌90番「ここも神の御国なれば」 (This is my Father’s world)は愛唱歌の一つである。神は「世を愛された」ヨハネ3・16)この私達の世界を慈しみ愛しておられるのである。神の子である私達は、この世界に生きることを「神の御国」とし、全てに神の御業を見て、感謝し賛美するのである。今、学び教えられている所では、悪魔がこの世を用いて、人々の欲望に訴え、人々を神から引き離している。けれども、次のように、歌うのである。「よこしま暫(シバ)しは 時を得とも 主の御旨のややに成りて あめつち遂には 一つとならん」私達は世界に起こる不遇の悲惨さを見ている。しかし、私達は、御子イエスを信じる勝利者として、神なる主を誉め称える。それは感謝と賛美の力である。私達が主にあって「ここも神の御国」である。という喜びと賛美を大きく現してゆくならば、その甘味な香りは人々を引きよせる、世のオアシスとなる。これは、主にある者しか出来ない使命であり、日々の務めである。

「不遇と優遇」(3)

† 終わりが善いこと。 地上の生活には、初めと中間と終わりがあると見極める。初めとは生まれである。どこで誰から産まれたかが、大きな出発点ともなる。出生と共に将来が決定している人が大勢いる。このように既成の環境に左右されるのが人間であり、不遇の中に置かれる多くの人もいる。このように世の中に全ての人が歩み出すが、世の中は曲がりくねり、人々は翻弄(ホンロウ)される。戦争があったり、天災に見舞われたり、急激な経済社会の動向に行き場を失ってしまうのである。今日のコロナ感染による経済的打撃は測り知れず、不遇に巻き込まれた人々は測り知れない。これが人生の中間である。「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい」伝道2/22-23)王に生まれても奴隷に生まれても、同じ結末「死」に行く着くことをソロモンは「これもまた虚しい」2・15)しかし、これが人間の全てではない事をソロモンは語りたいのだ。この世の優遇と不遇を一掃する、救い主イエスが地上の栄華の全てに優る、生きる喜びを与えられる。メシヤ・イエスを信じる者には「笑いが絶えず愛が溢れる」救いの優遇を受けるのだ。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」伝12・1 † その日まで。 その日まで善かったと書かれている「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」マタ24・38)我が世の春、と言うほどに人々は、神の警告など意に留めないで楽しみ喜び、幸せの追求をしていた。神の警告など、人間には不遇であり、あってはならないものと言うのが人々の理解であった。しかし、人間の都合が優先する事はないことを覚えたい。私達には神の業「主イエスの十字架」があるように、ノアの時代の人々には、徴(シルシ)があった巨大な箱船である。洪水など起こらないという常識は「その日まで」までであった。箱船の戸は開いていたのに、人々は誰も入ろうとはしなかったのである。人は快楽と欲望の中にいる時は、神の言葉は、自分に不遇をもたらすと感じる。しかし「その日」は必ず来る。審き(洪水)が来る、その日である。