† 終わりが善いこと。

地上の生活には、初めと中間と終わりがあると見極める。初めとは生まれである。どこで誰から産まれたかが、大きな出発点ともなる。出生と共に将来が決定している人が大勢いる。このように既成の環境に左右されるのが人間であり、不遇の中に置かれる多くの人もいる。このように世の中に全ての人が歩み出すが、世の中は曲がりくねり、人々は翻弄(ホンロウ)される。戦争があったり、天災に見舞われたり、急激な経済社会の動向に行き場を失ってしまうのである。今日のコロナ感染による経済的打撃は測り知れず、不遇に巻き込まれた人々は測り知れない。これが人生の中間である。「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい」伝道2/22-23)王に生まれても奴隷に生まれても、同じ結末「死」に行く着くことをソロモンは「これもまた虚しい」2・15)しかし、これが人間の全てではない事をソロモンは語りたいのだ。この世の優遇と不遇を一掃する、救い主イエスが地上の栄華の全てに優る、生きる喜びを与えられる。メシヤ・イエスを信じる者には「笑いが絶えず愛が溢れる」救いの優遇を受けるのだ。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」伝12・1

 

† その日まで。

その日まで善かったと書かれている「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」マタ24・38)我が世の春、と言うほどに人々は、神の警告など意に留めないで楽しみ喜び、幸せの追求をしていた。神の警告など、人間には不遇であり、あってはならないものと言うのが人々の理解であった。しかし、人間の都合が優先する事はないことを覚えたい。私達には神の業「主イエスの十字架」があるように、ノアの時代の人々には、徴(シルシ)があった巨大な箱船である。洪水など起こらないという常識は「その日まで」までであった。箱船の戸は開いていたのに、人々は誰も入ろうとはしなかったのである。人は快楽と欲望の中にいる時は、神の言葉は、自分に不遇をもたらすと感じる。しかし「その日」は必ず来る。審き(洪水)が来る、その日である。

「不遇と優遇」(3)