「不遇と優遇」(5)

† 土の器に徹する。

世界に最大の影響力を及ぼした人物が、自らを「土の器」だというのである。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」2コリ4・7)古代においては高貴な宝飾物は土の器の上に載せられた。質素そのものと高価そのもののコントラストが強調された。極端に優遇されるもの、その反対におかれるのが土の器である。土の器は載せている宝をより際立たせる役目を担うわけである。同じ人間でも差別がある。王もおれば奴隷もいる。地上の王は支配するのに権力を用いる。使徒パウロは「測り知れない力が神のもの」であり、土の器である私達の中に「入れられている」と驚嘆している。なぜなら、世界を造り変える神の力であるからだ。私達は罪深さにおいて、聖なる神の御手で打ち砕かれ、火の中に放り込まれる価値なき「土の器」である。しかし、神の憐れみで、神の御子が十字架に私の身代わりに死なれた。今や私達(土の器)の中に御子イエスが住まわれ、いける水となって私達から流れ出ている。また、測り知れない力が「土の器」である私達から神の権威として、神の慈しみと憐れみとして現れるのである。

 

† 何を信じているか?

人は信じている事、確信していることによって生きている。私達クリスチャンは世俗世界の影響下で生きているのであって、信仰を酷(ヒド)く打ち叩かれる事もある。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」 1コリ10・12)要するに私達は、生ける神を信じ、約束を確信し、願っている事を生きる。倒れないためには、絶えずそのエネルギーを必要とする。善を継続し具体的に習慣化したことが本物になる。受身的な信仰で行為がないと、エネルギーを生みだす事が難しく不遇を来す。なぜなら信仰を前進させるための習慣(行為)が無いからである。救われる為には何の努力も求められない。しかし世俗的な力、肉の欲望、悪霊の誘惑には「神を信じ」確信にもとずく、絶えざる行為が「倒れない」事に繋がる。信仰が形骸化する原因の一つは、積極的で肯定的な信仰の宣言を失い、愛の業(行い)を忘れ、想像的な信仰で生活しているからではないか?

「不遇と優遇」(5)