「健全な良心の信仰」(7) † 欠乏の目録。 私達が神との健全な関係にあるならば、何が生まれてくるのだろう?それは祈りである。祈りは、最も神との親しき交わりをもたらす。主と交わる者は、主からの供給なくして立ちゆかない自分
「健全な良心の信仰」(6)
「健全な良心の信仰」(6) † 不健康な心。 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」エレミヤ17・9)人の心はかくも絶望的である。罪に汚染されている醜さは、拭いきれないものである。健
「健全な良心の信仰」(5)
「健全な良心の信仰」(5) † 人間の必然性を知る。 私達は同じ社会の中に生き、経済大国日本の中で活動している。極度の差別のない幸いな環境にあると言えるだろう。さて私達人間にも共通した真実がある。「ちりはもとあった地に帰
「健全な良心の信仰」(4)
「健全な良心の信仰」(4) † 真理の論理に従う。 従う、ということは「論理的なことを受け容れる」と言うことを意味する。多くの時間を掛けて人間は勉強する。知的で能力を持つためである。しかし、「答」が用意されている勉強であ
「健全な良心の信仰」(3)
「健全な良心の信仰」(3) † 貫かれた良心。 ロジャー・ウイリアムは17世紀に活躍した神学者・牧師である。アメリカ、ロードアイランド州の州都プロビデンス(神の摂理)の設立者である。非福音的なイギリス国教会を逃れ、自国で
「健全な良心の信仰」(1)
「健全な良心の信仰」(1) † 良心の不健全。 「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする
「私の帰すべきこと」(7)
「私の帰すべきこと」(7) † 神の報いに。 結局の所、神を受け容れ、信仰に生きるとは何か?結果として、それだけの報いがあることである。霊と身体と心(魂)に、平安があり、喜びがあることである。一つは現世での幸いである。結
「私の帰すべきこと」(6)
「私の帰すべきこと」(6) † 一切を委ねる。 魂である人間は、自己保全のため、自己尊厳のために生きている。そのため、反応的に生きるのだ。「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなけれ
「私の帰すべきこと」(5)
「私の帰すべきこと」(5) † 神に喜ばれる事。 「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」2コリ5・9)念願とは「一心に願い望むこと」で、ここでは、生
「私の帰すべきこと」(4)
「私の帰すべきこと」(4) † 枯らさない務め。 今年の夏は、昨年に勝っての酷暑の日々となっている。友人が毎年、自家栽培の茗荷(ミョウガ)を贈ってくださる。今年は高温のためか8月を待たずして、茗荷の茎が枯れてきたという