「神と人間の志向」(1)

† 欲求する人間。
 私達の見える世界では、持つ者は豊かさを持ち、無い者は乏しさでしかない。私達は幸い豊かな日本に住み、幸いな制度の下に守られて生きられる。しかし、人間は、感謝し満足するよりも、なお富みたいために人生を浪費している。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい」伝道5・10)私達人間の富への願望の本質は「計算された、熟考された結果の人生観」なのである。「ちょっとや、そっと」で、志向が変わるものではない。罪人として生まれた人間の本質となって、植えられているのである。私達の魂(心)の中に悪魔の橋頭堡(キョウトウホ)が敷かれている。福音を雨あられと聞かされても、心中の敵(欲望)は逃げて行かない、居座るのである。まさに「敵は心中にあり」なのだ。主イエスの福音は、私達罪人を救う。しかし救われたクリスチャンの人間的成長は教えられ、訓練されて育つ。その人はキリストの十字架を負う生活が出来るようになる。肉の欲望に従わず、主イエスに従い得る。「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」箴言30・8)その人は神の全能に自らを委ねて、神の平安の中に住まい、輝かしく救いの福音の中に生き、暗闇と戦うのである。

† 神の心(志向)は主イエス。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」ヨハネ1・14) 現代の社会的問題(人権・差別・格差・制度・構造など)全てに「イエスはどうされたか」「何を教えられたか」が解決を与える糸口となる。主イエスは神の御心(志向)に従い生きられる事によって、旧約の律法の成就者となり、私達を永遠の御国の住人とするために、自ら死を持って十字架の贖いと、死からの復活を成し遂げられた。私達が今、地上に生きるのは、神の国の平和と秩序を教会のみならず、地域と社会に与えるために、生かされているのである。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」2コリント2・15) 主イエスに学び従う幸いを楽しもう。

「神と人間の志向」(1)