† 不本意が本位になる。
長い人生を通しての感慨ともいうべきもの、それは私の父のことである。父は大正元年生まれで、80歳まで生きた。戦火で東京を焼かれなければ世的には立身出世を果たした人であった。教養もあり知恵もあった。戦後の田舎でラジオがない家庭に、父はラジオを組み立て、提供した。興味を持った若者には、組立方を教えていた。しかしながら子供の私には「勉強が大事だ、勉強しろ」と一度も言ったことがなかった。「世の中で大事なことはこれだ」と強要する事もなかった。そのことが、私をずいぶん無防備な人間にしてしまったように感じていた。しかし今考えると、父親はあえてそうしなかったことが解るようになった。世人の処世訓を実践し、大事を成したとしても、何かが起これば無に帰する事実を体験した父親だった。その結果、世のしがらみの縄で私を縛らなかったのだ。私は聖書を求め、次に宣教師に出会い、牧師になった。私が不本意に思ったことが、私を大きく変身させたのである。父親から厳しい指導を受けなかったことで、捕らわれない心が残っていたのである。その結果、今の私があるのだと思える。「善いことは悪いこと、悪いことは善いこと」に繋がるのだ。
† 真実なうしろとは。
「うしろ」は見えないことを意味している。もう一つは、ほとんど意識されていない事である。今を生きる最善を聖書は教えている。それは「うしろから生きる」方法である。それは結末から生きることである。今を喜び楽しみたいだけの人間には、すごくしんどいかもしれない。聖書は本当のことを語るからである。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」2コリント5・10)もし、この御言葉の現実と事実がなければ、前に向かって生きることだけで良い。しかし、人間の本当の現実は「キリストのさばの座」の前に生きることなのである。私達クリスチャンでさえ、見えていない真実である。見えていないから「関心がない」とも言えるのだ。この裁き主キリストが見えていないと、今を生きる、生き生きとしたキリスト信仰が現れず、生き生きとした霊の輝きも見えなくなるから、要注意。


