† 見る世界が変わる。
 至極当然のことだが、生きる年輪を重ねることは、体験も認識も増すことになる。特に信仰は人格に伴う霊性である。主を尋ね求める人は「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」2コリ14・6)となる。一般的には、人を年令や体つきを見て判断する。しかし、本当の本人は「内なる人」である。日々に新たにされてきた年輪が多いほど、主イエスに近く、主の香りをより多く、心に漂わせているのである。世の中の見方と、全くの逆である。それで言える事は、ますます餓え渇くのだ。あの初代のキリストへの愛、使徒達やその信徒達の勇敢さ、世の者ではなく、神の者として捧げる事を喜び、生きた真(マコト)に対してだ。聖書を読む事は「神の真(マコト)と信徒の真(マコト)」を知る事である。聖書は生きるための例えではない。これしかない「道・真理・いのち」ヨハネ14・6)なのである。霊性が高められた人は、素直で直線的な視点から世界を見るようになる。聖書は、世の中では古典だが、私達には生まれる前からの、揺るぎない「神の言葉」唯一の生きる使信である。

 † 今の新しいこと。
 聖書は「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道1・9) という。しかし、今より昔の方が良かった。と言う意味ではないと、聖書は言っている。キリスト教界では、何かのムーブメントが起こっており、火の立ち上るような強烈な働きが起こったりする。特に、教会史を紐解くならば神のお働きは、世界的規模のリバイバルもある。また、あらゆる年代において、様々な地域に、いろいろな仕方で、大きな神の現れが記録されている。私達も1970年代からの、世界的なビンヤード・ムーブメントの直火により形成された。私においては「力の伝道」そのままの内容が留まり続けて変わることはない。培われた霊眼も変わっていない。神の成されることに讃辞を贈り、体質に適うものを増し加えて成長に変えて行くべきである。あまりにも独自的なものは、形に変えられなくても、霊性なエネルギーに返還して受け容れて行くものと思われる。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」伝道3・11)

「うしろに立つ」(3)

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