「螺旋(らせん)状的信仰」(2)

「螺旋(らせん)状的信仰」(2) † 地球の出来事。 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」伝道1・9)この所のウクライナとロシアの戦争は、終わりなき戦いの様相である。今月、ハマスの兵士がイスラエルにテロ的攻撃を仕掛け甚大な打撃をイスラエルに与えた。「世界の火薬庫」と言われるイスラエルを中心とした中東に爆発が起こったのである。歴史(時間の流れ)は永遠には輪廻しない。神が物質(宇宙)を創造された、と同時に時間(歴史)が生まれたのである。物質(人間を含めて)は、終わりを迎えるのが決まっている。人間は螺線的に、同じ歴史の痕跡(戦争・紛争)を繰り返す。原爆が日本に投下されて以来、各国が原爆を保有した。要するに歴史が螺線的に上昇するに従って、世界滅亡の脅威が格段に高まった。近年台頭している覇権主義指導者は、戦争を想定して軍拡を第一にしている。世界は平和に向かうのではなく、武力による支配(争い)に色濃くされて行く。世界が天地異変に破壊され、人間のもたらす争いが、大患難の様相に至って、主の再臨が訪れる。世界(歴史)に終止符を打たれる。今、大患難の始まりかもしれない? † 祝福の条件。 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」 詩1・3)「時がくると」とは、一年前進した同じ季節のことである。毎年同じルーティンを螺線的に上昇しながら、祝福の実を収穫する。「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」 2節)主なる神によって、大いに栄える人は、福音を最大の喜びとし、日夜、確信した御言葉を口ずさむのである。螺線状にさらに真理が広げられ神の祝福と喜びは増大して行く。その人は、さらなる不偏の条件を守り続ける「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」 1節)初めは誘惑の恐れから緊張していた。これを祈り、守り続ける中に強められ、自分の使命として「悪には、歩まず、立たず、座さない」と信仰宣言する。その人は「水路のそば」に植わった木のように、若々しく、何をしても神の祝福が伴い栄える。誡めに人生を賭ける人は幸いだ。

ハッピー礼拝 ゲスト:サルーキ=

ハッピー礼拝 ゲスト:サルーキ= 2023年11月12日のハッピー礼拝ではクリスチャンバンドの「サルーキ=」がゲストに来てくださいます。 礼拝内で数曲、演奏してくれます。また、ライフメッセージをしてくれます。 礼拝は10時からの1回となります。 ぜひ礼拝にご参加ください。!! 午後2時半からはスペシャルライブがあります。 日時:2023年11月12日 14:30~ 場所:可児福音教会 入場無料(自由献金)

「螺旋(らせん)状的信仰」(1)

「螺旋(らせん)状的信仰」(1) † 成長は螺線的である。 私は音楽を好むが、音楽を極めているような熟達者ではない。直観的に多彩な楽器のハーモニーに、心地よさを感じる程度である。教会ではバイオリンの教習があり、数名の生徒が日に日に成長し、発表会には素晴らしい演奏を披露して、私達を驚かせる。その事もあって、著名な作曲家のバイオリン協奏曲を聴くようになった。モチーフ(最小単位の音型)が、壮大に発展しながら、また原型(音型)に繋がり、さらに発展して行き、フィナーレ(終楽章)を迎える。途切れることのない螺旋状に上昇していると、素人として感じる次第である。信仰の原則を考えるならば、この螺線状のリング(環)を回りながら上昇(成長・昇華)すると理解する。ぐるぐる回る時には、必ず同じ位置を通る。しかし、一段上の同じ位置であり、これが5段目、10段目に至っても位置は変わらない。例えば十字架という真理の位置は一段目も20段目も変わらないが、20段目では、壮大な意味と内容を持って霊的昇華がされているのである。信仰はあらゆる神の真理を繰り返し、繰り返しながら私達の中に展開し、圧倒的な感動と喜びをもたらし、常に神の御名をたたえる終楽章に至るのである。 † 弾力性のある力。 「バネ」には種類がある。引っ張りに対してのもの、圧縮に対してのものである。板状のものもあり車の後輪に見る事が出来る。螺線状のスプリングバネは、身近な所ではボールペンの軸の中に見られる。螺線状のバネを想定してのことだが、規則的な引っ張りや圧縮、不規則な事態にも、元の位置に戻す働き(機能)を持つ。私達が主イエスを信じて、人生に迎え入れるならば、安定した人生を獲得できる。人間としての関係性の節々に、主イエスの福音が「繋ぎ」となるからである。現実と未来の間には、決して不安定をもたらさない。主イエスが「切れないバネ」のように働かれる。生活上の衣食住に関して、人間は不安にかられ、神を信頼していない。具体的な生活に関して、人は神から遠い。しかしながら神の愛と真実は、私達から離れない。強くて弾力性のあるバネのように繋がっている。私達引きよせ、ご自身の真実を知らせようとされるのじある。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ヘブル13・5)ハレルヤ!

「健全な良心の信仰」(7)

「健全な良心の信仰」(7) † 欠乏の目録。 私達が神との健全な関係にあるならば、何が生まれてくるのだろう?それは祈りである。祈りは、最も神との親しき交わりをもたらす。主と交わる者は、主からの供給なくして立ちゆかない自分を見つめる。祈りが私達に指し示すことは「私達の無価値と貧しさ」である。主なる神が、祈りを必要としないで、天与の恵みを与えられるならば、私達は自分が貧しい者であること、価値なき者である事を決して知る事は無い。私達クリスチャンは、全てを主なる神に依存して生きる。それだから、私達の信仰と健全な良心は、被造物として「地のチリ」の位置に私達を置くのである。これが神と私達の恵み溢れる関係である。神と私達の交わりの中身である。主なる神から全ての供給を願う私達の祈りは「今、まだ与えられていない」欠乏の目録なのである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」マタイ7・7)私達に対する神の供給は「与えられる事、見つけ出す事、開かれる事」である。私達は神に祈り求める事によって恵みを体験し、強くされ、高くされ、重みを増して、心から神をほめたたえるのである。 † 神に知られる幸い。 健全な良心の行き着く所はどこか? どの様にして健全な良心の報いがあるのか?「ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか」イザヤ40・27)次節で「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」要するに、私達の健全な良心は、とこしえの神に見つめられており、必ず顧みられる。主イエスの約束「・・・隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6・6)健全な良心の信仰を、評価出来ない人々によって失望してはならない。人から報いを得ようとする必要がない。あなたを常に見つめ続けて下さる「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)私達の健全な良心が信仰を完成されてゆくのである。神の顧みと豊かな報いが常に追いかけてくる。 

逃走中~The Autumn Mission

逃走中~The Autumn Mission~ キッズサンデー 秋イベント 「逃走中~The Autumn Mission~」 君はこのミッションを攻略できるか? 日時:2023年11月4日(土) 9:30集合※ 15:00解散※※現地集合の方は10:20集合、14:30にお迎えをお願いします 場所:ぎふ清流里山公園集合場所:可児福音教会 参加費:300円 申し込みは可児福音教会 キッズサンデー担当 細江までTEL:0574-62-6272 締切は10月22日(日)まで参加人数によっては10月22日より前に締切とする場合があります

「健全な良心の信仰」(6)

「健全な良心の信仰」(6) † 不健康な心。 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」エレミヤ17・9)人の心はかくも絶望的である。罪に汚染されている醜さは、拭いきれないものである。健全な心(良心)は尋常のものではない事がわかる。聖書に書かれていても、私の当たり前とはならない。救われた。清められた。と言うなら、心の健全さが、いかほどであるか、自らを計る必要がある。主イエスの品性とほど遠い信仰生活では、陰険な心を持ち続ける生き方になる。表向きには善い人を装いながら、心は悪意に動かされる。これが直らないままに人生が進むのである。十字架の救いは、人格(心)の醜い陰険さを打ち砕いて、真人間に、即ち健全な良心を持たせることである。主イエスの血潮を浴びるように受けて、心は潔くされる。まずこれが第一である。そうしたら、神の祝福の中を歩める、健全な良心を持てる。すると「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)しかし陰険な心には、生命の泉は湧くことはない。陰湿な心は、人を裁き、憎しみ、怒り、自己本位である。罪人の形でしかない。私達の救いが、自分を生きるのではなく、キリストの中に生きるようになる事である。そうでないとサタンは私達をコントロールする余地を持ち続けるのである。 † 実際の隔たり。 健全な心は、ごまかしを見抜く、また正直に距離を感じ取る。パフォーマンス(演技)であったり、エモーショナル(感情)の信仰表現を正しく評価する。現実には、信仰を持ち、日常生活を戦いながら生きる。聖書の勧める、完全な在り方を解りながら、隔たりを縮めようとして前進する。幸いな実際的、具体的な信仰であり、祝福される信仰だ。主なる神も喜ばれ、惜しみない支援を与えられる。もう一つの実際がある。私達の完成が、主キリストの中に保全されている。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)私達は、すでにキリストと「ともに」復活し天に座している。完了しているという意味である。地上では戦うが、すでに天上の勝利者なのである。すでに天に住まう者として、地上では神の栄光のため、戦う兵士として遣わされている。

「健全な良心の信仰」(5)

「健全な良心の信仰」(5) † 人間の必然性を知る。 私達は同じ社会の中に生き、経済大国日本の中で活動している。極度の差別のない幸いな環境にあると言えるだろう。さて私達人間にも共通した真実がある。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」伝道者の書12・7)人間だけが与えられている霊(霊魂)は「これを下さった神」によるものである。「ちり(土)」によって造られた私達の身体は、元の地に帰る。と言う真実である。人間は明らかに精神(魂)として人生を生きる。意味ある生き方によって、個性ある自己という魂を磨くのである。私達は魂(自己)として神の御許に帰るが、地上の生活で人間(魂)の尊厳性に生きないで、虚栄や欲望に生きた人(魂)は、神の秤の上で目方の足りないことが明らかになる。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ4・4)だからこそ、私達日本人に重要な事は「霊はこれを下さった神に帰る」という、理解できる真理を福音宣教の初め(土台)にしたい。理解が健全ならば良心は、神の言葉を聞いて動き出すであろう。説得力の有効な一つであると思う。 † 年と共に若くなる。 長生きすることが当たり前となっている。重要な事は、長生きにあるのではなく「健康である」事にある。体内年齢が若いことなのだ。信仰も同じで、信仰年数が長くなって、霊的な若さを失っては残念である。そのためには、自分に依り頼むものが何一つないように、主イエスの血潮と恵みに依り頼むことである。常に自己を「罪人の頭」として告白することだ。信仰を長く続けている人で、罪を告白できないまま義人ぶると、霊的老人へと下降する。心の中に隠れていて、告白されない罪こそが、霊的病いを負っているだ。信仰歴が長いことの恵みは、罪から解放された喜びが増大すること。主イエスの誠実な祝福への感謝である。長い信仰生活は古びることなく、益々キリストの香りを放つのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリ8・2)私達は、これまでの恵みに感謝しつつ、教えられる事を喜び、知る事を喜こぶ若者として、前進して行こう。