「健全な良心の信仰」(7)

† 欠乏の目録。
 私達が神との健全な関係にあるならば、何が生まれてくるのだろう?それは祈りである。祈りは、最も神との親しき交わりをもたらす。主と交わる者は、主からの供給なくして立ちゆかない自分を見つめる。祈りが私達に指し示すことは「私達の無価値と貧しさ」である。主なる神が、祈りを必要としないで、天与の恵みを与えられるならば、私達は自分が貧しい者であること、価値なき者である事を決して知る事は無い。私達クリスチャンは、全てを主なる神に依存して生きる。それだから、私達の信仰と健全な良心は、被造物として「地のチリ」の位置に私達を置くのである。これが神と私達の恵み溢れる関係である。神と私達の交わりの中身である。主なる神から全ての供給を願う私達の祈りは「今、まだ与えられていない」欠乏の目録なのである。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」マタイ7・7)私達に対する神の供給は「与えられる事、見つけ出す事、開かれる事」である。私達は神に祈り求める事によって恵みを体験し、強くされ、高くされ、重みを増して、心から神をほめたたえるのである。

† 神に知られる幸い。
 健全な良心の行き着く所はどこか? どの様にして健全な良心の報いがあるのか?「ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか」イザヤ40・27)次節で「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」要するに、私達の健全な良心は、とこしえの神に見つめられており、必ず顧みられる。主イエスの約束「・・・隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6・6)健全な良心の信仰を、評価出来ない人々によって失望してはならない。人から報いを得ようとする必要がない。あなたを常に見つめ続けて下さる「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12・2)私達の健全な良心が信仰を完成されてゆくのである。神の顧みと豊かな報いが常に追いかけてくる。 

「健全な良心の信仰」(7)