「健全な良心の信仰」(6)

† 不健康な心。
 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」エレミヤ17・9)人の心はかくも絶望的である。罪に汚染されている醜さは、拭いきれないものである。健全な心(良心)は尋常のものではない事がわかる。聖書に書かれていても、私の当たり前とはならない。救われた。清められた。と言うなら、心の健全さが、いかほどであるか、自らを計る必要がある。主イエスの品性とほど遠い信仰生活では、陰険な心を持ち続ける生き方になる。表向きには善い人を装いながら、心は悪意に動かされる。これが直らないままに人生が進むのである。十字架の救いは、人格(心)の醜い陰険さを打ち砕いて、真人間に、即ち健全な良心を持たせることである。主イエスの血潮を浴びるように受けて、心は潔くされる。まずこれが第一である。そうしたら、神の祝福の中を歩める、健全な良心を持てる。すると「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4・23)しかし陰険な心には、生命の泉は湧くことはない。陰湿な心は、人を裁き、憎しみ、怒り、自己本位である。罪人の形でしかない。私達の救いが、自分を生きるのではなく、キリストの中に生きるようになる事である。そうでないとサタンは私達をコントロールする余地を持ち続けるのである。

† 実際の隔たり。
 健全な心は、ごまかしを見抜く、また正直に距離を感じ取る。パフォーマンス(演技)であったり、エモーショナル(感情)の信仰表現を正しく評価する。現実には、信仰を持ち、日常生活を戦いながら生きる。聖書の勧める、完全な在り方を解りながら、隔たりを縮めようとして前進する。幸いな実際的、具体的な信仰であり、祝福される信仰だ。主なる神も喜ばれ、惜しみない支援を与えられる。もう一つの実際がある。私達の完成が、主キリストの中に保全されている。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)私達は、すでにキリストと「ともに」復活し天に座している。完了しているという意味である。地上では戦うが、すでに天上の勝利者なのである。すでに天に住まう者として、地上では神の栄光のため、戦う兵士として遣わされている。

「健全な良心の信仰」(6)