「私の帰すべきこと」(7) † 神の報いに。 結局の所、神を受け容れ、信仰に生きるとは何か?結果として、それだけの報いがあることである。霊と身体と心(魂)に、平安があり、喜びがあることである。一つは現世での幸いである。結果として最もわかりやすく、目に見える。しかしながら、信仰生活は地上を生きるためだけではない。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」1ペテロ2・11)現世を凌駕(リョウガ)した覚者(カクシャ)の立場を第一に、聖書は勧める。真理を究めた人とは、特別な人ではない。真理を、ごく当然「その通り」と認めて生きる人である。そうでないと、生きる事の大部分が、現世の事柄になる。世の中の価値基準が人生の軌道になる。私の帰すべきことは、人間の価値観に、自分を任せない。地上的な評価にも自分を任せない。なぜならば、真の報いは神ご自身が成されるものである。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」ヘブル4・13)パウロのようで在りたい「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」使徒24・16)神の前に生きる真理の基準である。 † 宣教の展開。 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」2テモテ4・2)これは教会の生命線である。だれも人がいない開拓では、あらゆる可能性に向かって、飛び回った。婦人会では、八百津の鯉居に住む求道者を送迎。妻は恵那市、関市に行き、訪問伝道をした。可児市全戸への教会案内、個別の家庭訪問伝道など、初めての訪問で救われた人も出た。教会の拡大によって変わるが、変わらないものがある。宣教とは「仕掛ける」こと「展開」することにある。だれにも出来る事は「次の二を、次の三」を思いつく事。そして展開してゆくチームワークである。この動力が教会に、日本に欠かせない。これを怠れば、凋落は直ぐに目に見えてくる。教会の精兵は、そのための知恵を与えられ、主イエスと共に、宣教を戦う人である。
「私の帰すべきこと」(6)
「私の帰すべきこと」(6) † 一切を委ねる。 魂である人間は、自己保全のため、自己尊厳のために生きている。そのため、反応的に生きるのだ。「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」レビ24・20)即ち、誰かが私の歯を折ったなら、私も相手の歯を折る権利を持って行使する。身に覚えのない批難や、中傷に、絶えられないのが人間。様々な言葉の暴力に対抗して「怒り心頭に発する」ままに戦うのが普通である。反対に、魂の麗しい愛の善行に対して、周囲の無関心や無視に会うと、その人々への愛は冷え、反感を抱くようになる。このような事は、キリストの身体(教会)にあって欲しくない。私達は「すべての完全さ」を主イエスの中に見る。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」1ペテロ2・22-23)私の帰する所はここだ。反応的に生きる事をしないこと。誠の真実は、人間世界では理解されず、ののしられ、馬鹿にされ、言動による暴力で苦しめられる。主イエスは、全てを知り尽くし、正しく裁かれる神に、一切を委ねられた。そこには、神の支配する真の平安がある。 † 生きている信仰。 信仰の特性は「生命」である。信仰が生きているので、神も生きておられる。一方、人が信仰を失うと、人は神と永遠の生命を失う。私は、私という人間の知的理解力で「神を信じ」神を握っているのではない。神の御子イエスが、十字架の死を通して、私に出会い、罪の赦しを与えて下さった。生きている信仰とは、私の中に神を招き入れることではなく、神の中に、私が招き入れられること、神の中に生かされることである。私自身が神に引きよせられ、同化されることなのである。端的に言えば、神があっての私である。私があっての神、ではないのだ。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」 2テモテ2・11) 私は、キリストと共に十字架に死んでいる。この事実を受け容れるので、死んだ私を生かすのは「キリストの生命」なのである。また「キリストの信仰」が、死んだ私の内容となる。幸いこの上なし。
「私の帰すべきこと」(5)
「私の帰すべきこと」(5) † 神に喜ばれる事。 「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」2コリ5・9)念願とは「一心に願い望むこと」で、ここでは、生きていようと、死んでいようと、ひたすら思い願うこと。と言っている。自分自身の念願が、生き様の本質となって現れる。「帰する」ところが、使徒と同じ念願であるならば、最も神に喜ばれる事に違いない。主に喜ばれることについて聖書は、多くの事について記している。私達の神は愛に満ちておられ、私達のどんな小さな善いことにも、喜んで下さる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11・6)第一に信仰がなくては、喜ばれない。信仰とは「神に近づく者」である。もっと、神に近づくことをしょう。神の近くにいる人は、必ず報われること、念願が実現することを確信しょう。主なる神は、キリストにある小数の民を、この上なく喜ばれている。「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」1ヨハネ3・22 † 神の憐れみに帰する。 63年間の信仰生活の帰するところは何か?私には「神の憐れみ」以外にはない。牧師となって神の役者となったが、それも「神の憐れみ」以外にはない。何かが出来たとするならば、それも「神の憐れみ」以外にはない。自分の存在は「神の憐れみ」によって有る。それ以外にはない。神の憐れみによって、キリストが世に遣わされたように、神の憐れみの選びがあって、私も世に生まれた。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)何か別の理由を、自分に帰することができない。私の生涯の体験と学びは、主なる神の「深い憐れみ」を証明し、証詞するためである。これまで与えられた地上的なものも、霊的な祝福も、神の憐れみの所産なのである。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、その憐みは 、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」ルカ1・49-50)マリヤと同じように「我が魂は主を崇め」る。1・46)のみである。
「私の帰すべきこと」(4)
「私の帰すべきこと」(4) † 枯らさない務め。 今年の夏は、昨年に勝っての酷暑の日々となっている。友人が毎年、自家栽培の茗荷(ミョウガ)を贈ってくださる。今年は高温のためか8月を待たずして、茗荷の茎が枯れてきたという。今までにないとのことだ。相応に雨は降ったのではないか?しかし、それ以上に植物には水分の補給が要るようだ。ベランダや屋内に、植物を育てている人は、常に植物の様子を見ている。欠かしてならないのは、水を注ぎ、命を繋ぐことにある。畑に植えられた草花も同じで、日照りと高温の中では、水が命を繋ぐ。人は、それぞれだが、木花と共に生きることで、学ぶ事が多い。管理するということは、育てることであり、草木の命を枯らさないことである。人に対しても同じ思いが大切である。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)人間は「魂を生かす水」を飲まなければ育たない。主なる神の言葉が、ふさわしくその魂に届くことである。そのためには、主の血潮を注いで、雑草(罪)を絶やし、栄える原因を与えることだ。 † 本来のものにする。 二日間を要して、譲り受けた古い二台の卓球台の修復をした。昭和時代の代物(シロモノ)だが、メーカー品である。経年の使用で、四辺に欠けがあり、これをエボキシ樹脂で補填し仕上げた。それを塗装で覆って、できるだけ欠けにくくした。本来のものに近づけると言うことだが、材質の劣化は取り戻せない。これで卓球台は、全七台となり、卓球イベントも可能となる。教会員のみならず、求道者も共に研修所(アーク)で、交わりが出来る。教会の務めは、人に対してである。人は本来、永遠の輝きと栄光を持っている。それが隠されて見えなくなっている。そればかりか、この世のかもしだす、人格的な攻撃がある。劣等感、疎外感、孤独感に、追いやられている若者の数は測り知れない。だが教会は、人間の本来を回復する場である。人間が持つべきものを創造する。それが神の愛であり、神の御業で有る。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」アタイ11・28)古いもの(自分)は過ぎ去って、新しい自分になれる。(2コリント5・17)