「私の帰すべきこと」(6)

† 一切を委ねる。
 魂である人間は、自己保全のため、自己尊厳のために生きている。そのため、反応的に生きるのだ。「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」レビ24・20)即ち、誰かが私の歯を折ったなら、私も相手の歯を折る権利を持って行使する。身に覚えのない批難や、中傷に、絶えられないのが人間。様々な言葉の暴力に対抗して「怒り心頭に発する」ままに戦うのが普通である。反対に、魂の麗しい愛の善行に対して、周囲の無関心や無視に会うと、その人々への愛は冷え、反感を抱くようになる。このような事は、キリストの身体(教会)にあって欲しくない。私達は「すべての完全さ」を主イエスの中に見る。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」1ペテロ2・22-23)私の帰する所はここだ。反応的に生きる事をしないこと。誠の真実は、人間世界では理解されず、ののしられ、馬鹿にされ、言動による暴力で苦しめられる。主イエスは、全てを知り尽くし、正しく裁かれる神に、一切を委ねられた。そこには、神の支配する真の平安がある。

† 生きている信仰。
 信仰の特性は「生命」である。信仰が生きているので、神も生きておられる。一方、人が信仰を失うと、人は神と永遠の生命を失う。私は、私という人間の知的理解力で「神を信じ」神を握っているのではない。神の御子イエスが、十字架の死を通して、私に出会い、罪の赦しを与えて下さった。生きている信仰とは、私の中に神を招き入れることではなく、神の中に、私が招き入れられること、神の中に生かされることである。私自身が神に引きよせられ、同化されることなのである。端的に言えば、神があっての私である。私があっての神、ではないのだ。「次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」 2テモテ2・11) 私は、キリストと共に十字架に死んでいる。この事実を受け容れるので、死んだ私を生かすのは「キリストの生命」なのである。また「キリストの信仰」が、死んだ私の内容となる。幸いこの上なし。

「私の帰すべきこと」(6)