「霊的な同化」(4)

「霊的な同化」(4) † 神からの私達。 日本は、無神論者の国、あまたの偶像の国である。所が聖書を通してならば、この日本は神のものである。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」ロマ5・8)主イエスは、日本人を、死を持って愛する事で、ご自分の民とされているのだ。全く新しい視点を私達は持つ。毎日、念仏を唱える人も、信仰に何の興味も抱かない人も、神の愛に覆れている。クリスチャンだけが、神と同化しているだけではない。今、罪人である同胞の日本人も「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)ということは真実である。神の愛に生きる私達に望まれている事は、同じ神の愛を注がれている未信者を、慈しむ事である。神にあっての私達は、神に愛されながら、罪にある同胞を、同等として愛し、敬うことである。神は被造物として、私達人間をお造りになった。神は、御子に肉を纏(マト)わせ、世に送られた。被造物全てを贖われるためである。同化を望まれる神なのだ。 †  全き同化への道。「全き同化への道」 もちろん、主キリストとの事だが、そんなことは実際にはあり得ないように思える。しかし、霊的にはありえる。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・5-6)霊的立場では、完全にキリストと同化している。残ることは、私達が肉を持って、地上で生きていることである。「肉」こそは、聖霊の敵として「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」ロマ8・13)その対処法は「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」 ガラテヤ5・24)もっと的確に言えば「キリストと共に(私は)十字架につけられた」ガラテヤ2・20)であり、今日も今も、私は死に続けているのである。これは驚くべき霊的、具体的な真実であり、キリストとの全き同化をもたらすものである。「・・・・キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」 ロマ6・5)神の御業をほめたたえる。

「霊的な同化」(3)

「霊的な同化」(3) † オーバーラップ。 「二つ以上の要素が重なり合うこと」信仰(信頼)の中に、生きる私達は、目に見えない霊なる神を知る。御言葉は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)ここでは明確に神の所有物なのである。主なる神がオーバーラップして下さっている。この事実が、感覚的に実感がなくても、神との同化がされているのである。私達は、この事実を受け容れ、告白し宣言する事によって、神(聖霊)との同化は強固になる。そして驚くべき聖霊のオーバーラップを知るようになる。聖霊は私達の中に在って、主イエスの御業を現実に現される。端的に言えば、悪霊を追放される。祈りに答えて奇蹟を起こされる。目の前に居る病いの人を癒やされる。明らかに「生けるキリスト」が現実にオーバーラップされるのである。畏れ多いことである。罪を赦した方(神)が、ゆるした者(罪人)を友とされるのである。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ」ヨハネ15・15) † 変わらないものこそ。 時代の流行に、同化して行く事は、快感かも知れない。若きころには髪型さえも「慎太郎刈り」「裕次郎刈り」それに白いハンチング(帽子)をかぶった。外側のものは変わり続ける、とどめることは出来ないものである。要するに同化は瞬間的である。それを適度にクリスチャンらしく楽しむのも良い。それと同時に、変わることのない、最も私達を喜びと祝福に導く、まことの自由に同化してゆきたい。パウロはこう言う「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」ピリピ3・11-12)パウロは、国を治める大統領よりも、キリストと同じ様になることの、偉大さを言っているのである。人間の成せる地上のいかなる業(生き方・事業)に勝る、最高峰の業が、キリストご自身であることを、見たのであり、知ったのだ。さらに、キリストを得よ。キリストを知れ。それに勝るものは、世にはないからである。

「霊的な同化」(2)

「霊的な同化」(2) † 通じるもの。 「至誠通天」極めて純粋な真心は必ず天に通ず。という中国の孟子の言葉である。私達には、この上なくありがたいことは、天に義なる、聖なる神がおられるということである。即ち、私達の真心に対して速やかに応答して下さる真実な神であられる。それにしても、私達は常に、純真な真心であろうか? すごく打算的であるのではないか?主イエスは、私達がどれ程のものか、良くご存じである。「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」ヘブル7・25)この意味合いの中に「私達が完璧だから」というニュアンスがない。純粋とは言えない、私達を知って、とりなして下さるのである。御子イエスは、天の父に、純真な真心で近づかれた。私達にもそのように求められている。しかし、そのようではない私達を、主は、執り成して、天(神)に通ずるものにして下さる。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10・19)「聖所に入る」とは、聖なる神と同化することである。それを成し得るのは、真心から捧げられた主イエスの血潮なのである。ハレルヤ! † 引きよせる。 主イエスほど、多くの人を引きよせられたお方はいない。今も多くの人が引きよせられている。それほどに主イエスには魅力があるからだ。その魅力とは、真実に一人一人の事を知り尽くして愛しておられるからである。その愛とは、その人の必要に対して、与える全てを持っておられるからだ。人間の引きよせる力も、同じようである。見せかけのない、思いやりや、親切が常に隣人に注がれているとき、隣人はあなたを無二の友として結びつく。引きよせる力を持つ人は、徹底的に変わらない信念を持つ。その方(隣人)を信頼し、信じる。「この方(隣人)は、私と親しくなる」と、揺るがず「そのようになる」と思い続ける。さまざまな違いを超えて、現実は変えられる。自分の心に思い描いたように、素晴らしい関係が出来てくる。私達の信仰は、神のみを信じるだけではない。人と人の繋がりを創り出す愛と信頼の、引きよせの法則(信仰)を喜ばしく用いるのである。

「霊的な同化」(1)

「霊的な同化」(1) † 神の御業による。 同化「assimilation」は、用語として心理学的、言語学的、社会学的、生物学的分野で用いられている。無いのは、霊的な同化という分野である。既存の四つの分野を総合しているようなもの、それが霊的な同化のように思える。霊的とは、自らと神との直接的な関係であり、その関係から生みだされるのが、同化作用である。神の測り知れない愛と御業が、私達に及び神との同化に進ませる。霊的という意味の大きな部分は「神に同化する」事だと心得る。クリスチャンとは「キリストのような人」日本では「耶蘇(ヤソ)」と言われた蔑称(ベッショウ)である。それほどに聖書に即して生きているから言われた。それは、何よりも神の愛と御業が、人をキリストに同化してしまうゆえに、必然として現れる。神の栄光が、人(私達)を通して現されるのである。一方、もしキリストに同化されていないならば、信仰は不自然な現れ方をするしかない。人間が神を採り入れようとする信仰は根本的に誤っている。私達は神に愛され(捕らえられ)神のもの「神の子供」とされ、神の所有となる。自分を神に明け渡して、初めて神と同化する。これが霊的な一体であり、生命の溢れる信仰である。 † なりたい人になる。 自分が、なりたい人を持っているか?あるいは望んでいるか?と言うことは非常に重要である。「イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」マルコ10・51)身体上の問題だけではなく、神にあって何を望んでいるのか?と言う事である。私には憧憬(ショウケイ)する偉大な先人が大勢いる。彼らの信仰と霊性に追いつき同化したいと願っている。今は、まだ到達していなくても、願いがあり、求め続けるならば、神の霊はそのために私達を導く、そうして願わしい自分に到達し、願いと同化する。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイ7・7)神はあなたのために助ける事を喜びとされる。私達の使命は、執り成し祈りつつ、キリストのすばらしさを求める事。そして、神の子供として広げられる可能性を求めることである。その意志がない人は、まことの老人である。

「信のまこと」(7)

「信のまこと」(7) † 聖書の信仰と日本人の信仰。 完結の章を迎え、どうしても触れなければならないのが、聖書の信仰[ギ]ピスティスと私達の信仰の内容である。信仰を新約的に言えば「信頼の服従」である。ドイツ語の信仰(Glauben)は「誓約・忠誠」を意味している。この重要な信仰の内容は、肉的な主知主義的な解釈が加えられ、内容を失ってきた。私達が信仰と言って受け容れている信仰は、新約聖書の信仰と違っている。信仰[ギ]ピスティスは、文字通り「信頼の服従」であり、全体的な自己献身の人格的応答である。日本人の場合は「信仰」とは、心の中に信じるもの(神)を受け容れる事である。ここには、全体的な服従も献身もない信仰なのである。御子をも惜しまないで与えられる愛の神に、完全な依存をするのが「ピステス(信仰)」なのである。ここに「真理の自由」が生まれる。明日のことなど思い煩わないし、自分は神に服従して失敗することなどあり得ない。と知っている服従である。信仰の重要性は、自発的で強制されない「信頼の服従」である。神の愛は無条件的に注がれている賜物である。「ピステス(信仰)」は、与える神への、無条件的な神の御人格に対する「信頼と服従」である。この信仰によって、初めて永遠の生命の中に解放されるのである。 † 人がやらなくてもやる。 人との愛の交わりを第一とする教会だが、人と同じであればよいという意味ではない。より神の懐に憩い、与えられた恵みと主の香りを分かち合うのである。人間は毎日多くの成すべき事がある。それだけで満足する人もいるだろう。夕方には疲れ切ってしまう人もいる。世の中の要求は容赦ないが、私達には目ざめた魂がある。主なる神を呼び求め、叫ぶ力がある。「この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる」詩105・7)近くの人から、遠くの人へ。近くの事から世界の事へ。主の下僕として叫び、執り成し祈るのだ。「神にとって不可能なことは一つもありません」ルカ1・37)聖歌231番「嬉しきこの日よ心を定めて、救いの君よと、御子をば仰ぎぬ」嬉し、嬉しこの日ぞうれしき。・・・・」兄姉の中で、誰もやっていないかも知れない。あなたは「信(まこと)」を失わず、続けて行って欲しい。