「信のまこと」(7)

† 聖書の信仰と日本人の信仰。
 完結の章を迎え、どうしても触れなければならないのが、聖書の信仰[ギ]ピスティスと私達の信仰の内容である。信仰を新約的に言えば「信頼の服従」である。ドイツ語の信仰(Glauben)は「誓約・忠誠」を意味している。この重要な信仰の内容は、肉的な主知主義的な解釈が加えられ、内容を失ってきた。私達が信仰と言って受け容れている信仰は、新約聖書の信仰と違っている。信仰[ギ]ピスティスは、文字通り「信頼の服従」であり、全体的な自己献身の人格的応答である。日本人の場合は「信仰」とは、心の中に信じるもの(神)を受け容れる事である。ここには、全体的な服従も献身もない信仰なのである。御子をも惜しまないで与えられる愛の神に、完全な依存をするのが「ピステス(信仰)」なのである。ここに「真理の自由」が生まれる。明日のことなど思い煩わないし、自分は神に服従して失敗することなどあり得ない。と知っている服従である。信仰の重要性は、自発的で強制されない「信頼の服従」である。神の愛は無条件的に注がれている賜物である。「ピステス(信仰)」は、与える神への、無条件的な神の御人格に対する「信頼と服従」である。この信仰によって、初めて永遠の生命の中に解放されるのである。

† 人がやらなくてもやる。
 人との愛の交わりを第一とする教会だが、人と同じであればよいという意味ではない。より神の懐に憩い、与えられた恵みと主の香りを分かち合うのである。人間は毎日多くの成すべき事がある。それだけで満足する人もいるだろう。夕方には疲れ切ってしまう人もいる。世の中の要求は容赦ないが、私達には目ざめた魂がある。主なる神を呼び求め、叫ぶ力がある。「この方こそ、われらの神、主。そのさばきは全地にわたる」詩105・7)近くの人から、遠くの人へ。近くの事から世界の事へ。主の下僕として叫び、執り成し祈るのだ。「神にとって不可能なことは一つもありません」ルカ1・37)聖歌231番「嬉しきこの日よ心を定めて、救いの君よと、御子をば仰ぎぬ」嬉し、嬉しこの日ぞうれしき。・・・・」兄姉の中で、誰もやっていないかも知れない。あなたは「信(まこと)」を失わず、続けて行って欲しい。 

「信のまこと」(7)